第76話 ダルム村の朝
湿地帯の入口に位置するダルム村の朝は、他のどの地域よりも深く、そして冷ややかな霧に包まれていた。
湿った空気が布地を通り抜け、肌にうっすらと露を結ぶ。
俺は大型テントの中でゆっくりと目を覚ますと、隣で小さく寝息を立てていたアキラとルミの肩を優しく揺らして起こした。
身支度を整えてから、俺たちは村の中心にある村長の家へと向かった。
アイテムボックス内には非常用の保存食があるが、これから苛烈なダンジョン攻略に挑む以上、人里にいるうちに温かく腹に溜まるものを胃に入れておきたかったからだ。
「村長、朝の食事を分けてもらいたい。三人分を――銅貨三枚でどうだ?」
突然の訪問にもかかわらず、村長夫婦は嫌な顔ひとつせず、提示した金額で快く朝食を用意してくれた。
導かれた木のテーブルには、湯気を立てるお茶と素朴な麦粥、塩漬け野菜の煮物、そして香ばしく炙られた肉料理が並べられた。
* * *
「トオル君……このお肉、何の肉かな? うさぎさん……じゃないよね?」
アキラが引きつった笑みを浮かべ、フォークの先で肉を突く。
ルミもどこかおよび腰になりながら、皿の上の肉を凝視していた。
見た目は鳥肉のようにも見えるが、関節の形状が明らかにホーンラビットなどの小動物のそれとは異なる。
「この辺りは湿地が近いからねぇ。ホーンラビットなんて可愛いものは滅多に出ないのさ。それは大きなカエルの魔物の肉だよ。クセがなくて美味いんだから」
村長の妻が笑いながらお茶を注いでくれる。
アキラとルミは一瞬だけ「うぐっ」と顔を歪めたが、俺が何事もないように肉を口に運び、「悪くない味だ」と淡々と噛みしめるのを見て、意を決したように小さく肉をかじり取った。
「……あ、ほんとだ。ちょっと引き締まった鶏肉みたいで、おいしいかも」
「うん、全然臭みもないね」
一口食べてしまえば抵抗が失われたのか、二人は安堵の表情を浮かべて麦粥と一緒に肉を頬張り始めた。
根が明るく社交的なアキラと、人当たりの柔らかいルミは、食事の合間にも村長夫婦やその家族の女性たちとすぐに打ち解け、和やかに言葉を交わしていく。
「あんたたち、まさかこれから『白霧の洞窟』に挑むんじゃないだろうね? やめておいたほうが良いよ。あそこに向かった冒険者の大半は帰ってこないんだ。何度も挑戦するのは、生き残ったほんの一握りの強い連中だけでね……あんたたちは見たところ強そうじゃないし、死にに行くようなものだよ」
村長のかみさんが、本気で心配そうな眼差しを俺たちに向けてきた。
素朴な村人から見れば、若くて整った顔立ちのアキラやルミ、そして特別に体格が大柄なわけでもない俺のパーティは、頼りなく映るのだろう。
「大丈夫ですよー! 私とルミは頼りないですけど、連れのトオル君は本当にすごいんですから」
「そうですよ。すごく大きな魔物だって、一人で倒しちゃうんです」
アキラとルミが胸を張り、自慢げに俺を持ち上げる。
村長のかみさんは「それでもねぇ……」と首をかしげていたが、俺の思考は彼女たちの会話の裏にある別の事実に向けられていた。
* * *
試練の女神が創造したこの世界のダンジョンは、一度クリアされると、二度と宝箱が再生成されないという絶対的な法則がある。
それにもかかわらず、「強い冒険者が生き残って何度も挑戦しにやってくる」ということは、目的が宝箱ではなく、ダンジョン内で自生・繁殖する特定の資源――つまり『桃脂ナマズ』の採取に絞られている証拠だった。
(換金効率の高い希少食材か。一度攻略法を確立したパーティにとっては、最高の定期収入源だったわけだ)
だが、ここでひとつ疑問が生じる。
バザルの領主ヴァレリウス伯爵は「最近、桃脂ナマズの流通が完全に途絶えた」と腹を立てていた。
定期的にダンジョンへ通い、ナマズを獲って稼いでいた高ランク冒険者たちがいたはずなのに、なぜ急に供給が止まったのか。
俺は麦粥を口へ運ぶ手を止め、村長へ視線を向けた。
「村長、ひとつ聞きたい。最近、この村から洞窟へ向かう冒険者の数は減っていますか?」
「ふむ……言われてみればそうだな。以前は定期的にやってくる顔馴染みの腕利きパーティがおったのだが、ここ最近はさっぱり見かけんのう」
村長の言葉を聞き、俺の中でいくつかの断片的な情報が綺麗なジグソーパズルのようにつながった。
バザルの領主ヴァレリウス伯爵は、自分の言うことを聞かないから気に入らないという理由で、町最強のAランク冒険者『ダガン』を追放した。
それに激怒、あるいは不信感を抱いた腕利きの冒険者たちが、密かに示し合わせたか、あるいは自然発生的なボイコットとして、領主の娘の好物である『桃脂ナマズ』の採取を全員が取り止めてしまったのだ。
権力を振りかざす身勝手な貴族に対する、冒険者側のサイレントな反抗。
(……まあ、俺の知ったことではないがな)
見知らぬ冒険者たちと領主の政治的な駆け引きやプライドのぶつかり合いなど、俺の行動指針には一切関係がない。
俺たちにはシステムを通じて直接『クエスト』が発生しており、これまでの経験上、それを達成すれば破格の報酬が手に入るはず――
他人が利権を捨ててストライキを起こしているなら、その隙に俺たちが掠め取って利益を独占するだけの話だ。
* * *
朝食を終えた俺たちは銅貨三枚を払い、丁寧にお礼を言って村長の家を後にした。
広場へと戻ると、昨夜隣にテントを張っていたポリッツたちC級冒険者パーティの姿は既になかった。
地面に残されたうっすらとした焚き火の跡とペグの穴だけが、彼らがこの村にいたことを物語っていた。
(一足先に向かったか――かなり本気で、俺たちよりも先にナマズを持って帰る気でいるようだな)
* *
俺たちはダルム村を出て、少しぬかるんだ草原地帯を進む。
道中、草の中から突如として飛び出してきた『ブロートホッパー(膨血飛蝗)』という体長一メートルほどの巨大なバッタ型の魔物三匹と遭遇した。
俺は冷静に『疾風の剣』を振り抜き、敏捷補正の乗った素早い斬撃で瞬時に首を跳ね飛ばした。
討伐後、換金部位である鋭い前足の鎌だけを剣で切り取り、手早く【アイテムボックス】へ収納する。
事前情報では、この湿地帯には『トード』と呼ばれるカエル型の魔物が大量に生息しているはずだったが、なぜか一匹も姿を現さない。
単なる確率の偏りか、それとも先行しているポリッツたちが群れを散らしたのか。
思考を巡らせながら、草原地帯を抜けた。
* *
いよいよ本格的な湿地帯へと足を踏み入れた。
村を出た直後は、まだ踏み固められた土の道が続いていたが、徒歩で三時間ほど進むと景色は一変した。
立ち枯れた異様な樹木が立ち並び、視界の悪さを助長する濃霧の中、足元は次第にぬかるみ、無数の泥水が通路上を塞ぐようになってくる。
「うわ……足が沈むよぉ。トオル君、気をつけてね」
「アキラ、『スムーズ』の効果を切らすなよ。靴が泥に持っていかれる」
「うん、分かってる! ちゃんと効果を維持してるよ」
アキラの移動補助魔法『スムーズ』のおかげで、泥に足をとられて体力を無駄に消費する事態は防げていた。
だが、この魔法も万能ではない。
完全な水面歩行を可能にするわけではないため、泥の深さを見誤って底なしの沼に足を踏み入れれば、一瞬で身動きが取れなくなる。
「ルミ、背後の気配に集中してくれ。霧で視界が悪い」
「はい、トオル君。任せてください」
泥と霧の悪路をさらに二時間ほど突き進んだ時だった。
「――ッ! みんな、止まれ」
俺は異変を察知すると即座に手を掲げ、後続の二人を立ち止まらせた。
湿地帯を覆う重苦しい静寂を切り裂き、前方数百メートルほどの距離から、甲高い金属の打撃音と、湿った空気を震わせる魔物の低い咆哮が響いてきたのだ。
「これ……戦闘の音だよね? 先に行ってたあの人たちかな……?」
アキラが声をひそめ、緊張した面持ちで霧の奥を見つめる。
「たぶん、ポリッツさんたちのパーティですね……トオル君、どうしますか? 助けに行きますか?」
ルミが尋ねてくる。
俺は二人の問いに対し、首を静かに横に振った。
「いや――あいつらとは『完全不干渉』の取り決めを結んでいる。無暗に介入してトラブルを起こす気はない。……だが、この湿地帯にいる魔物の生態と、C級冒険者の戦闘の手の内を見ておく価値はある。静かに近づいて観察するぞ」
俺は『疾風の剣』の柄に手をかけたまま、足音を極力殺し、霧の深みへと慎重に歩みを進めた。




