第69話 取引の裏側、奴隷商との駆け引き
重厚なオーク材の扉が閉じられると、部屋の中に満ちていた雑音が遮断され、しんと静まり返った。
奴隷商館の二階にある特別応接室。
足元には深く沈み込む羊毛の絨毯が敷き詰められ、卓上からは高級な香木を焚く甘く重苦しい煙が立ち上っている。
室内の中央、硬質な革張りソファに俺は深く腰を下ろしていた。
背後には護衛のようにアキラが控え、正面には贅沢な絹の服を着込んだ巨漢――この商館のオーナーであるドノヴァンが座っている。
ドノヴァンの背後にピシッと立ち尽くしているのは、赤茶色の髪を夜会巻きにまとめ、銀縁の眼鏡を光らせた事務服姿の女性、ミレイユだ。
そして部屋の隅には、小さな木製椅子に腰掛け、小さく肩をすぼめている一人の少女の姿があった。
ダークネイビーのセミロングの髪に、華奢な身体。
おとなしい性格で場の空気を察して息を潜めているその少女こそ、俺たちの元クラスメイトである高橋瑠美だった。
今日の目的は彼女一人だ。
そのため、部屋には他の『商品』は用意されていない。
* * *
「よくぞお越しくださいました、トオル様。これほど短期間で金貨六十枚という大金を用意なさるとは、流石は凄腕の冒険者ですな」
お互いに表面上の挨拶を交わした後、ドノヴァンが口元に下卑た笑みを浮かべながら口火を切った。
たっぷりと肉のついた顔を歪め、指に嵌めた金リングを誇示するように弄んでいる。
「ああ、まあな」
俺は脚を組みながら余裕の態度で短い相槌を打った。
表情一つ変えず、相手の目の奥にある欲深い光を冷静に観察する。
ドノヴァンは俺の落ち着き払った態度にわずかな不快感を示したものの、すぐに満足げな、人を食ったような笑みを深くした。
「しかし……実に残念なことに、物の値段というのは市場の動向によって常に変動するものでしてね。
今日現在、この商品の価値は金貨六十枚ではなく、金貨百枚に上がっているのですよ。……さて、購入資金は足りておりますかな?」
ドノヴァンはわざとらしく肩をすくめ、俺の反応を愉しむように挑発的な視線を投げてきた。
* *
(予想通りの展開だな)
俺の手持ちの資金力、そして装備しているレアアイテムの価値を計算し、俺から搾り取れるだけ搾り取ろうという腹づもりだろう。
購入資金が足りなければ、俺が身につけている『疾風の剣』や『風のマント』を代わりに差し出させようという算段だ。
俺は動揺することなく、静かに息を吐き出した。
「値段は変動するもの、か――確かにその通りだな。だが、現実的な評価をするなら、その奴隷の適正な販売価格はもっと低い。……違うか?」
俺の冷ややかな指摘に、ドノヴァンは不機嫌そうに細い目をさらに細めた。
「ははっ、あなた様が購入したくないとおっしゃるのであれば、こちらは別のお方にお売りするまでのこと。商売とはそういうものです」
俺の“適正な販売価格”という言葉に対し、ドノヴァンは微妙に焦点をずらした返答をしてきた。
自分があくまで売り手の優位に立っているとアピールし、俺の焦りを誘うつもりなのだろう。
ドノヴァンがわずかに顔をしかめる。
「この商品を金貨五十枚で購入したいとおっしゃる顧客もいるのです。トオル様が購入を見送るのであれば、そちらに売却しても構わないのですよ?」
だが、その強気の態度は、俺にとっては完璧な『詰み』への誘い文句に過ぎなかった。
(ミレイユのアドバイス通り……完璧な流れだな)
俺は心の中で、事前にミレイユから裏で共有されていた『この世界のシステム』に関する知識を反芻していた。
* * *
ステータスに表示される項目は、女神の力によって厳密に管理されている。
この異世界で暮らす人々は、そう認識している。
つまり、ステータス欄の職業は単なるゲーム的な記号ではなく、異論を挟む余地のない“絶対的な事実”なのだ。
特に商業取引の世界では、商人同士が商談を始める前にお互いのステータスや職業を開示し合うのが慣例となっている。
もし自身の職業欄に『盗賊』という職業が刻まれれば、まともな商人としての信用は一瞬で失われ、この街の商人ギルドから追放される。
他の都市へ移動したところで、門番から町への入場を拒否されるようになり、商人としての人生は事実上終了する。
そして、長年の商人の間で知られている『職業付与』の条件が存在する。
それは――
「お互いの共通認識となっている適正価格以上の値段で商品を売りつけると、女神のシステムによって『盗賊』の職業が強制的に付与される“可能性”がある」というものだ。
“可能性”という曖昧な表現が使われているのは、どの程度の上乗せで盗賊認定が下るのか、正確な数字が判明していないためだ。
自分の身を犠牲にして検証しようという奇特な商人は存在しない。
少しばかりの上乗せでは問題ないようだが、適正価格の二倍以上で売ってしまうと確実に盗賊認定される――これは商人たちの長年の経験則である。
ただし、これには明確な抜け道が存在する。
買い手がその商品の適正価格を「知らずに」、売り手の言い値(適正価格の二倍以上)で購入した場合、買い手側に共通認識が存在しないため『盗賊』の判定は下りない。
また、商品の適正価格は正確に把握している必要がある。
ドノヴァンはこれまで、商人としての知識やノウハウのない客を巧みに騙し、暴利を貪ってきたのだ。
だが――
買い手が適正価格を明確に口にし、理解した上で、売り手がその二倍以上の価格で売却を成立させた場合。
その瞬間、システムは売り手を即座に『盗賊』と認定する。
* * *
ミレイユから聞いたところによると、高橋瑠美の見た目や健康状態からすれば、一般的な奴隷市場での適正価格は金貨九枚といったところらしい。
詳細な人物鑑定を用いて値段を算出しているこの商会でも、売値は同じだ。
俺が「金貨九枚が適正だ」と宣言すれば、この場において『適正価格は金貨九枚』という共通認識が成立することになる。
「別に他所に売ってもらっても構わんさ。金貨五十枚で買ってくれる親切な客が、本当に見つかると良いな。
その商品の適正価格は金貨九枚なのだろう? あなたの商会ではそのように定めているはずだ」
「……あてずっぽうで、ものを言われても困りますな」
ドノヴァンはまだ強気だ。
「まったく――どこで金貨九枚が適正だという話を聞いたのやら……。
そちらの小娘、アキラに買取価格を聞いて推測したのであれば、それは重大な契約違反となります。
女神の真偽判定を証拠として行政機関に訴えることも可能ですよ。――どこから情報を得たのですかな?」
奴隷の売買契約の中に、確かにそれ(企業秘密の口外)を禁じる項目があった。
しかし、俺の情報源は別にある。
「ああ、それは『知っている人』から聞きました」
「知っている人、とは?」
「例の『四人組の冒険者』ですよ。――あなたは彼らから搾取するだけではなく、口止めもしておくべきでしたね。
それと、奴隷商が買取金額の約二倍で商品を売るという話は、調べれば転がっている情報ですから」
俺はアキラから企業秘密に該当する情報は聞き出していない。
女神の真偽判定はクリアできる。
だがあえて、それらしい情報を提示した。
従業員に疑いの目が向く前に、相手のミスリードを誘うためだ。
ミレイユは、今後もジョーカーとなりうる協力者――
万が一にも失いたくはない。
準備は整った。
これで、こちらが奴隷商が算出した適正価格を知っているということはドノヴァンに伝わった。
俺はフッと口元を緩め、ソファの背もたれに深く体重を預けた。
「それにしても、ドノヴァン殿は商売上手だな。
販売価格の相場が金貨九枚の商品を、なんと金貨百枚で販売しようというのだから……
その類稀なる商才に敬意を表し、貴殿が提示した値段で買わせていただく、というのも興味深いな。
――よし、その奴隷を金貨百枚で買おう!」
俺が満面の笑みを浮かべ、はっきりとそう宣言した瞬間――
ドノヴァンの表情が、劇的な凍りつきを見せた。
* *
「い、いや……っ!? それは、その……」
額の汗を拭う余裕すら失い、その顔面からサーッと血の気が引いていく。
肉のついた丸い顔が土色に変色し、目を見開いたまま俺から視線を外し、泳がせている。
この交渉は狐とタヌキの化かし合い。
嘘つき同士の騙し合いゲーム。
俺は必勝法を叩きつけた。
(さあ、どうする。奴隷商――)
俺が適正価格(金貨九枚)を熟知していると明確に口にした上で、金貨百枚での取引に同意した。
このまま取引を成立させれば、彼は金貨百枚と引き換えに、永久に消えない『盗賊』の職業を刻まれることになる。
「あー、そうですな……! そこまで、この私を評価してくださったお方に、そのような高値で売るのはさすがに気が引けます……!
げ、原価や手配の労力を考慮しても……ああ、そうだ! この奴隷は補助魔法の才能がありましてな。
それを考慮して――金貨十枚でお譲りいたしましょう! いかがですかな!?」
ドノヴァンは額から滝のような冷や汗を流し、ハンカチで必死に顔を拭いながら、早口で叫ぶように百から十へと価格を引き下げた。
金貨九枚の二倍である金貨十八枚を超えれば、確実に『盗賊』がつく。
『盗賊』の判定を下回ると思われる、許容できるぎりぎりのライン――
ドノヴァンにとって、それが金貨十枚だ。
魔法使いは貴重だが、攻撃魔法以外はたいして役に立たないため金貨一枚の価値はない。
取ってつけたように『補助魔法』という理由を付け加えていたが、それは価格を上乗せするための口実で、少しでも利益をむさぼるための最後の足掻きだった。
慎重で強欲なドノヴァンらしい、保身と利益をギリギリで天秤にかけた限界の提示が、適正価格に少しだけ上乗せした金額だ。
(相場よりも少し上か……。まあ、これ以上の値引きを迫れば破談になるリスクもある。引き際としては十分だな)
* * *
「ええ、その値段であれば、こちらとしても大変満足です。交渉成立ですね」
俺が穏やかに頷くと、ドノヴァンは魂が抜けたような顔で「ふぅ……っ」と大きく息を吐き、へたり込むようにソファへ沈んだ。
俺は【アイテムボックス】から革の財布を取り出し、中からずっしりと重い金貨十枚をテーブルの上に並べた。
チャリン、チャリン、と金属音が響く中、俺はドノヴァンの背後に立つミレイユと、ほんのわずかに視線を交わした。
眼鏡の奥の彼女の瞳が、微かに満足げに細められた気がした。
彼女の正確な情報と計算があったからこそ、金貨六十枚どころか百枚を要求してきた強欲な商人から、わずか金貨十枚で高橋瑠美を買い戻すことができたのだ。
ドノヴァンは震える手で金貨を回収すると、逃げるように奴隷の所有権移転の契約書を作成し、羊皮紙に印章を押した。
所有権の譲渡手続きが完了し、高橋瑠美の首に嵌められていた奴隷の首輪が、カチリと音を立てて外れた。
「……常盤、君……?」
それまで隅で小さくなっていた高橋瑠美が、信じられないものを見るような目で俺を見上げ、戸惑いがちに声を漏らした。
「話は後よ――瑠美。行きましょう」
アキラが優しく彼女の肩を抱き寄せ、立ち上がらせる。
高橋は状況を完全に呑み込めていない様子だったが、アキラの温もりを感じて深く頷いた。
「お邪魔しました、ドノヴァン殿。良い買い物ができたよ」
悔しげに固まっているドノヴァンに一言残し、俺はアキラ、そして高橋瑠美を引き連れて応接室をあとにした。
薄暗い奴隷商館の長い廊下を抜け、重厚な玄関扉を開く。
外へ出ると、眩しいばかりの太陽の光と、澄んだ秋の風が俺たちを出迎えてくれた。
街道の喧騒の中へ踏み出し、俺は隣を歩く高橋瑠美の表情を伺いながら、これからの行動について思考を巡らせ始めた。




