第65話 平原の狩場
奴隷商『ドノヴァン商会』の店から外へ出ると、バザルの街には冷ややかな秋の風が吹き抜けていた。
露店から漂う煮込み料理の匂いと、家路につく人々の足音が石畳に響いている。
俺とアキラはそのまま『銀貨の止まり木』亭へと戻り、フロントで延泊の手続きを行った。
俺の宿泊費として銀貨2枚、そしてアキラの今晩と明日の朝の食事代として銅貨6枚をカウンターの支払箱へ滑り込ませる。
手持ちの革袋は少し軽くなったが、拠点を確保するための必要経費だ。
鍵を受け取り、あたたかな燭台の灯る客室へ入った途端、背後でドアが閉まる音と同時にアキラが大きな溜め息をついた。
* *
「もう! トオル君てば、あんなことするなんて……!」
アキラは肩上のブラウンの髪を揺らし、頬を膨らませて不満を露わにしていた。
ミレイユの細い腰を抱き寄せ、甘い言葉で口説き落とそうとしていた俺の振る舞いが、どうにも面白くなかったらしい。
「そう怒るな。高橋を無事に救出するための事前準備だ」
俺は苦笑を交えながら歩み寄ると、彼女の華奢な身体を背後からそっと優しく抱きしめた。
薄い衣服越しに伝わるアキラの体温と、ほのかに甘い石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
「んっ……こらっ。……こんなことされたって、誤魔化されないんだからね」
口では強がりの言葉を口にするアキラだったが、背中に預けられた身体からはすっかり力が抜けていた。
耳まで真っ赤に染め上げ、俺の腕の中でモゾモゾと収まりの良い場所を探すような動きを見せる。
現在、アキラの好感度と隷属度は上限である「100」に達している。
俺の固有スキル【女たらし】と【奴隷使い】の効果により、この数値は今後どんな事態が起ころうとも低下することはなく、彼女が俺を裏切る可能性はゼロだ。
だが、俺はそのチートじみた能力に胡座をかき、彼女を都合の良い道具としてぞんざいに扱う気は毛頭なかった。
異世界へ転移してくる前、俺は中学・高校を通じて親しい友人と呼べる存在を作ったことがなかった。
他者と深い関係を築くこともできず、その意思もなく、諦念した心持ちで周囲を観察するだけの孤独な学生生活を送っていたのだ。
しかし、こうして異世界の過酷な環境で共に命を懸け、互いの背中を預け合うパートナーを得た今、相手に対する繊細な気遣いや思いやりという感情が自然と芽生えているのを自覚していた。
心のケアを怠らず、良好な関係性を保ち続けること。
それは合理的思考の延長であると同時に、俺自身の人間的な性分でもあったのだろう。
「分かってるよ。トオル君が瑠美のために必死になってくれてるってことは……。でも、目の前で見せられると、ちょっと、さー、なんていうか、もやもやしちゃって」
アキラは俺の腕に自分の手を重ね、小さくつぶやいた。
機嫌を取り戻した彼女の頭を軽く撫でてから、二人で階下の共同浴場へと向かい、温かいお湯で一日の汗と疲労をさっぱりと洗い流した。
(さて、ミレイユは訪ねてくるかな?)
アキラと二人でベッドに腰かけ湯冷ましをしていると、部屋のドアがノックされた。
宿の従業員が来客を伝える。確認のためフロントへ向かうと、ローブを身に着けた存在感の希薄な人物が立っていた。
顔を確認しても誰だかわからない。
訝しんでいると、その人物は俺にだけ見えるようにフードを取った。
ミレイユだった。
* * *
彼女は無言だ。
「こっちだ」とだけ言って、ミレイユを部屋まで案内する。
「驚いたよ。そのローブの効果か?」
「ええ、これは存在を希薄にし、認識を阻害する特殊な魔法加工を施してあります。顧客の部屋に個人的に尋ねるところを見られるわけにはいきませんから」
念のための措置だろうが、俺は彼女の用心深さを頼もしく感じた。
この部屋まで訪ねてきたということは、彼女の意思は固まっている。
内通者となって協力してくれるということだ。
その決意に応えるため、俺はミレイユとじっくり今後の方針をすり合わせ、ドノヴァンの陣営をどう切り崩すかについて意見を交わした。
朝日が昇る少し前に目を覚ます。
ミレイユはすでに起きていて、身支度を整えていた。
「いろいろ勉強になった。情報提供感謝する」
「いえ、わたしも、その……何度も満足させてもらえましたので……」
「もう行くのか?」
「はい……最後に、もう一度……」
ミレイユはフードをかぶる前に、俺とキスをしてから部屋を去っていった。
* * *
朝、「ちゅん、ちゅん」という鳥の鳴き声が聞こえてきた。
客室の窓を開けると、雲ひとつない澄み渡った青空が広がっていた。
季節は秋の終わりへと差し掛かっており、肌を撫でる空気はひんやりと冷たいが、身体を動かすにはこれ以上ないほど快適な陽気だ。
俺は宿を出る前に意識を集中させ、メインジョブを昨日の『遊び人』から使い慣れた『剣士』へと切り替えた。
(……やはり、この感覚のほうが、しっくりくるな)
身体の奥底から力強い張りが戻ってくる。
筋力(+3)、技量(+5)のステータス補正が適用され、腰に下げた『疾風の剣』の重みが心地よい手応えとなって掌に伝わった。
今日、俺たちがバザルの街の西門を目指しているのは、城壁外に出て魔物狩りを行うためだ。
昨日の今日で再び奴隷商へ足を運べば、狡猾なドノヴァンにこちらの焦りを見透かされ、足元を見られる危険性がある。
あるいは、俺がミレイユを協力者としたことに感づくかもしれない。
一拍の冷却期間を置く間に、広大な狩場で実践経験を積みつつ、瑠美を買い取るための資金を少しでも多く稼いでおくのが最善の策だった。
西側のエリアを選んだのは、ギルドの掲示板や据え置きの情報誌で「Cランク級の冒険者にとって最も効率の良い稼ぎ場」として推奨されていたからだ。
俺たちのランクはもっと低いが、実力的には問題ないはず。
出現する魔物はどれも強敵揃いだが、倒した際に得られる素材や肉の換金価値は非常に高い。
冒険者ギルドは相互扶助の側面が強いため、閲覧可能な基本情報は無料であっても有用なものが多く、正確で洗練されている。
俺たちはギルドで得た知識を反芻しながら、賑やかな西門を抜けて街の外へと足を踏み出した。
* * *
「トオル君、街道に出る前にかけておくね」
そう言うとアキラは詠唱を開始する。
「大地の聖霊よ、我らの歩みに恵みと喜びを。その足取りに軽やかな加護を――『スムーズ』」
西門の喧騒を離れたところで、アキラが詠唱と共に補助魔法を発動させてくれた。
呪文は暗記しているわけではなく、魔法を使おうとすれば自然と言葉があふれてくるそうだ。
淡い光の粒子が俺たちの全身を包み込み、関節の動きや足運びが驚くほど軽やかになっていく。
街道の上には「女神の加護」が施されており、結界によって魔物が路上に接近してくることはほとんどない。
俺たちは冒険者たちによって踏み均された街道を二時間ほど快適なペースで進み、やがて目印となる大きな道標の場所から街道を外れ、一面に背の高い秋草が揺れる広大な西の平原へと踏み込んだ。
風が草原を波のように揺らし、サーッという心地よい音を立てて吹き抜けていく。
それから平原を慎重に警戒しながら二十分ほど突き進んだところで、俺は高草の隙間から視線を低くし、足を止めた。
前方数百メートル先の草地で、巨大な影の群れがのんびりと草を食んでいる。
『プラトー・ブル(平原大牛)』の群れだ。
体長二・五メートルを超える巨体、頭部から生えた太く凶悪な二本の角。
ギルドの情報によれば、一頭あたり角、皮、上質な肉を合わせれば【銀貨六枚〜八枚】という破格の値段で解体屋に買い取られる高級な獲物だ。
だが、この獲物は一般的な冒険者パーティにとって、極めて攻略難易度が高いことで知られていた。
まず、常に十頭以上の群れで行動しているため、安易に近づけば集団での猛烈な突進を受けて踏みつぶされる。
さらに、効率よく(罠を使い)一頭を討伐できたとしても、数百キロを超える巨体を街まで運ぶには専用の馬車や荷台が必要不可欠だ。
現場で解体して高価な部位だけを持ち帰ろうにも、血の匂いで他の肉食魔獣を引き寄せるリスクがあり、肉の鮮度も著しく落ちてしまう。
リスクと搬送の手間に見合わないため、多くの冒険者は指を咥えて見送るしかない獲物なのだ。
討伐するには複数の冒険者がクランを結成し挑む、というのが一般的だ。
* * *
(……だが、搬送の手間というのは、俺とアキラには関係のない悩みだな)
俺は心の中で冷徹な計算を巡らせた。
俺たちの持つスキル【アイテムボックス】は、対象を丸ごと収納でき、内部では時間の経過すら停止する。
血の匂いを撒き散らすこともなければ、肉が傷む心配もない。
討伐した分だけ、そっくりそのまま大金へと変換できるのだ。
このアドバンテージを使わない手はない。
「アキラ、あそこに見える大きな木に向かうぞ」
俺は近くにぽつんと立っている、幹の太い一本の大木を指差した。
その木の根元に歩み寄ると、アイテムボックスから小瓶を取り出し、透明な液体を木の周囲へ円状に撒いていく。
事前に購入しておいた『聖水』だ。
清らかな神力を帯びたこの液体は、魔物にとって強い忌避物質となり、近づくことを敬遠させる即席の安全地帯を作り出す。
「アキラはここで待機していてくれ。絶対に結界の外には出るなよ」
「うんっ、分かった! トオル君も、無理はしないでね!」
アキラが素直に頷き、大木の根元で杖を構えて腰を下ろした。
後方の安全を確保した俺は、単身で高草の影に身を隠し、風下からプラトー・ブルの群れへと近づいていった。
足音を完全に殺し、草の揺れに動作を同調させる。
群れとの距離が約三十メートルまで縮まったところで、俺は姿勢を低く保ったまま、アイテムボックスから布で巻かれた球体――『煙幕弾』を取り出した。
(いくぞ――)
腕のしなりを利かせ、群れの中央、最も密度の高い場所を狙って煙幕弾を全力で投擲する。
放たれた黒い球体は美しい放物線を描き、巨牛たちの真ん中で激しい破裂音を立てて弾け飛んだ。
パンッ――!
次の瞬間、球体から爆発的に噴き出した高密度の白い煙が、一瞬にして周囲の視界を真っ白に塗り潰した。
「モォォォォ――ッ!?」
「ブルルルァァッ!?」
突如として視界と嗅覚を奪われたプラトー・ブルたちが、パニックを起こして猛烈に暴れ始める。
巨体同士が衝突し合い、地面を力強く踏み鳴らす地鳴りのような重低音が平原に響き渡った。
狂乱した群れは、煙から逃れようと蜘蛛の子を散らすように四方八方へと散り散りになって逃げ惑う。
そのうちの三匹が、鼻息を荒く吹き出しながら、煙を突き抜けて俺の潜む方向へと猛然と突進してきた。
「来たか……!」
俺は高草の中から一歩前へと足を踏み出し、腰の『疾風の剣』の柄に手をかけた。




