第64話 ガラス越しの現実
重々しい木製の扉を開け、ミレイユの先導に従って暗がりが続く通路を進む。
地下特有の湿った冷気が肌を刺し、微かに立ち込める油煙と古い木材の匂いが鼻腔を突いた。
案内されたのは、窓のないこじんまりとした小部屋だった。
部屋の片側の壁一面には横長に配置された分厚い特殊ガラスが嵌め込まれており、その向こう側に広がる明るい大部屋の様子が一望できるようになっていた。
「安心してください。このガラスは特別製で、向こうからこちらの姿は一切見えず、音も聞こえません。どうぞごゆっくりと品定めをなさってください」
ミレイユは眼鏡の枠を細い指先で軽く押し上げながら、淡々としたビジネスライクな声で説明を続けた。
「ただし、室内への【鑑定】スキルの使用は固くお控えください。奴隷には【鑑定】を使用されたと感じた場合、速やかに報告するように言ってあります。お客様が【鑑定】スキルを使用されますと、即座に取引を中断することになります」
「分かった、肝に銘じておこう」
俺は短く答え、ガラスの前に歩み寄った。
(……危なかった)
俺は最初の取引の時に、【鑑定】を使ってしまっていた。
あの時は知り合いの目の前で使ったので、二人は気を利かせてドノヴァンに申告しなかったが、こちらの様子が見えない状況では、うっかり使用すれば即座に取引停止になってしまう。
(しかし、鑑定の使用をここまで警戒するとは……取引において何か不利になる要素でもあるのだろうか?)
そんなことを考えながら、中の様子を確認した。
* * *
アキラから聞いた話によれば、ここに収容されている奴隷たちは用途ごとに明確に選別され、管理されているという。
戦闘用として売り出される者は体力を養い訓練を受けさせられ、観賞用や夜伽用として扱われる者は肌や髪の手入れを徹底される。
さらに素質のある者には、付加価値を高めるために文字の読み書きや最低限の礼儀作法まで仕込まれるそうだ。
つまり、いま目の前の部屋で雑多に過ごしている女性たちは、どのような用途で買われても差し支えない「汎用品」としての扱いなのだろう。
室内をざっと見渡してみたが、俺たちの第一目標である高橋瑠美の姿はどこにも見当たらなかった。
すでに俺が瑠美の買い取り意思を明確に示している以上、わざわざ他の客に見せるような真似はしないということか。
奴隷商としての商品の囲い込みと管理の徹底ぶりには、感心すら覚える。
だが、ガラスの向こう側に広がる光景を観察していた俺の隣で、アキラが息を飲んだのが分かった。
アキラは息を詰め、胸の前で両手を固く握りしめながら、申し訳なさそうに視線を泳がせている。
ガラスの向こうには、見覚えのある顔――俺たちのクラスメイトだった女子の姿が混ざっていたからだ。
自分だけが俺によって買い取られ、不自由な奴隷身分から救い出されたことに対する、拭いきれない後ろめたさと罪悪感。
(アキラの人間的な葛藤は理解できる。だが、俺は救世主でも聖人君子でもない。全員を救い上げるような余裕も資金も、今の俺には存在しないんだ)
俺は心の内で冷徹に状況を整理した。
借金のかたとしてこの奴隷商に売られたクラスメイトの女子は全部で七人。
アキラ自身と高橋瑠美を除けば、残る未救出の女子は五人だ。
そして今、ガラスの向こうにある部屋の中には、その五人のうちの二人が座り込んでいた。
黒髪の長い髪を背中に流し、周囲を拒絶するように膝を抱えている上里火美子。
そして、その隣で不安そうに茶髪のポニーテールを揺らしている竹沢麻利絵だ。
(確か、あの二人の初期適性職業はどちらも『魔法使い』だったはずだな。残りの三人はすでに別の買い手に買われたか、別の区画に隔離されているのか……)
* * *
俺はガラス越しに二人の姿をじっと見つめながら、隣に立つミレイユへと視線を巡らせた。
「あの二人は、確か『魔法使い』のクラスだったはずだ。後衛の火力職なら高値で取引されるのか?」
俺の問いかけに対し、ミレイユは表情一つ変えずに、銀縁の眼鏡の奥から静かな視線を投げかけてきた。
「あら、やはり同郷の者たちの存在が気になられますか? ……結論から申し上げますと、魔法使いの奴隷というのは非常に珍しい素体ではございますが、実のところ買い手がつきにくいのが現状でございます」
「ほう……? パーティの火力が底上げされれば、冒険者にとっても有益だと思うが、買い手がつかない理由はなんだ?」
俺が興味を示して問い返すと、ミレイユは小さく息を吐き、奴隷市場における歪んだ構造を淡々と解説し始めた。
「貴族や富裕層にとってみれば、魔法使いの育成や装備品の買い与えには膨大な費用がかかります。一方で、冒険者が買い取るとなると、最大の懸念事項は『裏切り』のリスクでございます」
「なるほどな。従順さを誓わせるような便利な魔法契約はないのだから、強力な攻撃魔法を放てる者を後衛に置くのは、死角に刃を突きつけられているようなものか」
「その通りでございます。万が一の暴走・復讐を恐れ、前衛の戦闘奴隷ほどには重宝されません。結果として、彼女たちのような魔法使いは、戦闘用ではなく雑用か夜伽目的として買われることが大半となります」
ミレイユの説明を聞きながら、俺は奴隷商側が抱えるジレンマを理解した。
「そうなると、価格の折り合いがつかなくなるわけか」
「ええ。当商会といたしましては『攻撃魔法の使い手』という稀少な付加価値を考慮し、相応の高額で売りたい。しかし購入者側は『いつ裏切るか分からない育成型』として評価するため、実質的には『ただの女としての価値』でしか評価してくれません。そのギャップのせいで、商談が難航するのです」
奴隷商ドノヴァンとしては、扱いに困るその商品を、少しでも購入意欲のありそうな俺に高額で売りつけたいのだろう。
ましてや、攻撃魔法すら使えない高橋瑠美なら、なおさら俺に押し付け、できるだけ値を釣り上げて販売しようと画策してくるはずだ。
* * *
前回の商談で、俺はドノヴァンの海千山千の老獪な権謀術数に完全に呑まれ、ペースを握られて敗北した。
正面切って資金力や交渉術で挑んでも、あの強欲な商人に勝てる見込みは極めて薄い。
(ならば、戦いを挑む前に準備が必要だ。正面から戦って勝てないのであれば、搦手を使うまで――敵の陣営そのものを切り崩し、内部に協力者を作る)
俺は現在保持しているジョブ『遊び人』の技量(+14)補正と、固有スキル【女たらし】の存在を思考の表層に浮かべた。
効果の程は冒険者ギルドの受付嬢で実証済みだ。
ミレイユは俺を御しやすい「安全な顧客」として見ているらしく、護衛は付けていない。
この場で試してみる価値は十分にある。
「ふーん……なるほどな。詳しい解説をありがとう」
俺は話を聞き終えると同時に、自然な動作でミレイユの細い肩へと手を伸ばした。
洗練された動きで、彼女の肩口にそっと手を添える。
こうした接触は決して得意ではない。
異世界に来るまでは女性と話をする経験そのものが皆無だった。
この世界でも、マリアやアキラのように気心の知れた、ある程度こちらが主導権を握れる関係性の相手にしか行ってこなかった。
それを、対等な交渉相手に対して突然行うのだ。
心臓が緊張で跳ね上がるのを感じた。
だが、『遊び人』の補正による指先の洗練された動作は、何ひとつとしてぎこちなさを感じさせない。
ミレイユの身体が一瞬、ぴくっと硬直し、息を呑む気配が伝わってきた。
しかし、彼女は俺の手を拒絶して振り払うような真似はしなかった。
* *
(いける……抵抗は最小限だ)
俺は確信を得て、滑らかな手つきで――
手をそのまま彼女の絞締された細い腰へと回した。
タイトな事務服越しに、彼女の引き締まった体温と柔らかな肉体の感触が掌に伝わってくる。
「商品としての彼女たちの価値は理解できた。だが……女としての価値だけで評価するなら、俺は彼女たちよりも、あなたを購入したい」
「……ご冗談を、トオル様。私は売り物ではございません」
ミレイユは整った顔立ちをわずかに強張らせ、眼鏡の奥の瞳を揺らしながら制止の言葉を口にした。
だが、その声には客を拒絶する強い突っぱねさはなく、どこか動揺を含んでいた。
俺は引き寄せる腕に少しだけ力を込め、彼女の耳元へと顔を近づけた。
「冗談ではありませんよ、ミレイユさん。あなたはとても美しく、魅力的だ」
少し気障すぎるくらいの言葉を、自信に満ちた低音で囁きかける。
「ト、トオル君……!」
背後で見守っていたアキラが、驚きと焦りの混ざった低い声を漏らしたが、俺は一切振り返らずに無視した。
今はこの眼前の女性を落とすことに、すべての意識を集中させる。
* * *
ミレイユは俺の胸に軽く手を当て、表面上は身を引こうと抵抗を示していた。
しかし、その体温はわずかに上昇し、吐息にも微かな熱が混じり始めている。
【女たらし】のスキル効果か、あるいは『遊び人』の洗練された所作によるものか。
彼女の肩から余計な強張りが抜け、掌越しに伝わる鼓動が次第に速まっていくのが分かった。
「俺にはドノヴァンと渡り合うだけの交渉能力はありません。……だから、あなたには俺の『特別なアドバイザー』になっていただきたい。俺には、ミレイユさんという味方が必要なんです」
俺の言葉は、ミレイユの理性を静かに削り取っていった。
ドノヴァンの冷徹な右腕として、ただの道具や優秀な手先として扱われてきたであろう彼女にとって、「一人の女性」として求められ、頼られる感覚は、抗いがたい魅力を持つはずだ。
俺は彼女の腰を抱きすくめたまま、指先で優しく背筋を撫で上げる。
固く閉ざされていた彼女の心と身体が、少しずつ解けていくのを感じる。
「もし、俺に協力してくれる気があるのなら、今夜、宿まで来てもらえませんか。そこでじっくりと、今後の方針を確かめ合いたい」
俺は宿の場所と名前を伝えた。
ミレイユは首を縦にも横にも振らなかった。
ただ、奴隷商会の従業員としての無機質な視線ではなく、熱を帯びた瞳で、まっすぐ俺を見つめていた。




