第54話 遺跡前での打ち合わせ
薄暗いテントの中に、湿り気を帯びた朝の冷気が静かに満ちていた。
周囲に撒いた聖水の清廉な気配がかすかに漂う中、俺は夜明け前にゆっくりと目を覚ました。
天井の布地越しにうかがえる外の気配は静寂そのもので、まだ鳥の羽ばたきすら聞こえない。
俺は上体を起こすと、軽く両腕を伸ばして固まった関節をほぐした。
戦士の耐久補正のおかげか、硬い地面の上に薄い敷物を敷いただけの野営にもかかわらず、体に疲労は残っていない。
すぐ隣では、分厚い掛け布団に包まれたアキラが、無防備な寝息を立てていた。
俺は彼女の肩に手を掛け、その柔らかな身体を軽く揺すった。
滑らかな髪が指先に触れて意味もなくドキドキする。
手のひらを通してアキラの体温と肌の柔らかさが伝わってくる。
こうして狭いテント内で肌の接触を試みていると、何かいけないことをしているような気になってくる。
余計なことを考えないよう理性を総動員し、俺は慎重に彼女を起こした。
* * *
「ん……んん……っ」
薄うすらと目を開いたアキラは、まどろみの中で俺の手が自分の体に触れていることに気づくと、一瞬で顔を真っ赤に染めた。
恥ずかしさと戸惑い、そして寝顔を見つめられていたことに対するほんの少しの拗ねたような感情が混ざり合った、複雑な表情を浮かべる。
「あ……っ、おはよう、トオル君……」
「ああ、おはよう。よく眠れたようだな」
俺は彼女の表情の変化を冷静に観察しながら、平静を装って声をかけた。
昨夜からの強引とも言える接触に対して、彼女は困惑を見せつつも、致命的な拒絶や不快感を示してはいない。
(この距離感でも、問題はないようだな)
嫌われるリスクを恐れて控えめな距離を保っていては、彼女との信頼関係を深めるまでにどれほど時間がかかるかわからない。
適度なスキンシップを重ねる方が、彼女の心にある心理的な境界線を少しずつ和らげ、『好感度』を効率よく高められるだろう。
「身支度をして外に出るぞ」
「う、うん……っ」
アキラが毛布を抱え直して身を起こすのを確認し、俺は一足先にテントの外へ出た。
外の空気は刺すように冷たく、東の地平線がわずかに白み始めている程度だった。
* * *
俺は慣れた手つきで落ち枝を集め、小さな焚き火を起こした。
パチパチと薪がはぜる心地よい音が静かな平原に響き、暖かな火の粉が揺らめく。
【アイテムボックス】から固い丸パン、スープ用の干し肉、水筒、そして固形スープの素を取り出し、小型の鍋で煮込み始めた。
しばらくすると、香草と肉の旨味が混ざり合った香ばしい湯気が立ち上る。
身支度を終えてテントから出てきたアキラに、温かいスープを注いだ木製カップとパンを手渡した。
「熱いから気をつけろ」
「ありがとう、トオル君。……すごくいい匂い」
アキラは両手でカップを包み込み、温かさを確かめるようにふーふーと息を吹きかけてからスープを口に含んだ。
芳醇な味わいに表情を緩ませた彼女だったが、パンを小さくちぎりながら、ふと申し訳なさそうな陰りを瞳に宿した。
「ねえ、トオル君。私……ずっとトオル君の後ろについて歩いているだけだけど、本当にこれでいいのかな」
「どういう意味だ?」
「だって、トオル君が戦っている間、私って何もできてないでしょ? 荷物になっているんじゃないかって、少し不安で……」
自分が庇護されるだけの存在であることに、申し訳なさと焦りを感じているのだろう。
真面目で社交的な彼女らしい葛藤だった。
俺はスープを一口飲み、淡々と答えた。
「問題ない。アキラは『スムーズ』の魔法をかけてくれているだろ。あれのおかげで、移動による体力の消耗や足の痛みが劇的に軽減されている。十分すぎる貢献だ」
「でも……あれはただ移動が楽になるだけで、戦闘の役に立っているわけじゃないし……」
「戦闘では無理に戦おうとするな。お前の一番の役割は、身を守ることに集中し、無駄な怪我を避けることだ。お前が倒れれば、俺は心配で集中力を欠いてしまう。無事に生き残っているだけで十分なんだ」
俺の言い分は冷徹な合理性に基づいていたが、アキラには「大切に守られている」という肯定として受け取られたようだった。
彼女は嬉しそうに頷きつつも、どこか食い下がるように言葉を続けた。
「うん……でも、私ももっとトオル君の役に立ちたいよ」
「焦る必要はない。モンスターを倒していけばレベルが上がる」
この世界ではレベルが上がったところでステータスの数値に変化は訪れないが、気休めくらいにはなるだろう。
「レベル……? あっ、そういえば自分のステータスって、最近確認してなかったな」
アキラは思い立ったように空中で手先を動かし、自身のステータス画面を呼び出した。
半透明の画面を凝視していた彼女の瞳が、驚きで丸く見開かれる。
* * *
「ほんとだ……! レベルが上がってる! 奴隷商にいた時はレベル1だったのに、レベル2になってるよ!」
その言葉を聞き、俺は思考の中で一つの確信を得た。
昨日の平原での戦闘において、アキラは直接一度も攻撃を行っていない。
にもかかわらずレベルが上昇しているということは、この世界のシステムにおいては、同じパーティに所属して戦闘空間を共有しているだけで、経験値が自動的に分配される仕組みになっているということだ。
「……なるほどな。戦闘に参加していなくとも、パーティ単位で成長は共有されるわけか」
「うん! でもね、トオル君……レベルは上がっているのに、筋力とか魔力とかの数値は全然変わっていないみたいなの。これって普通なのかな?」
アキラが首を傾げながら画面を指差し、不思議そうに問いかけてきた。
レベルの上昇に伴って基礎ステータスが自動的に一律上昇するシステムではない。
その仕様は、俺自身の経験からも明らかだった。
「俺の場合は、レベルが上がるとボーナスポイントというものが付与され、それを手動で割り振ることで能力を獲得していた。アキラ、お前のステータスを俺が【鑑定】で見てもいいか?」
「えっ? あ……うん、トオル君になら、いいよ」
アキラは少し頬を染めながら、小さく頷いた。
誰かに深く【鑑定】され、自分の詳細なステータスを開示されるというのは、裸を見られるような羞恥を伴うようだ。
それでも同意してくれたということは――恋愛シミュレーションゲーム風に言うなら、彼女の『攻略』は順調ということだろう。
アキラの承諾を得た俺は、静かに精神を研ぎ澄まし、彼女の深層へと【鑑定】を発動させた。
視線をじっと注がれる感覚に、アキラは身を縮め、肩をすくませて視線を泳がせる。
俺の脳裏に、彼女の詳細な情報が次々と展開されていった。
感情パラメーターの『好感度69』『隷属度84』が、『好感度76』『隷属度88』へと上昇していた。
そして、俺の視線は彼女のステータス領域の深層にある数値へ釘付けになった。
* * *
『ボーナスポイント:31』
(……31ポイント、だと……?)
俺の思考が一瞬だけ静止した。
ボーナスポイントというのは、自分だけに与えられた特権だと思っていたが、彼女にもちゃんと付与されていた。
しかも、レベルが上がったことで蓄積されたボーナスポイントが一つ増え、手付かずのまま大量に放置されている。
(アキラは、このポイントの存在に気づいていない? ……そうか)
俺は召喚された初日からステータス画面の端にあるボーナスポイントの存在に気づき、それを活用してきた。
それは俺がこの世界から特別扱いを受けていたわけではなく、元々自己分析をする癖があり、より深くステータス画面を閲覧できたからに過ぎない。
最初にステータスを開いた時、他のクラスメイトが気づかなかった『ボーナスポイント』という項目が表示されていたのは、そのためだろう。
一般的な人間にとって、明示的なチュートリアルが存在しないこの世界のシステムでは、意識を深く向けなければ見えない領域にあるボーナスポイントの存在を自力で見つけ出すのは極めて困難なのだ。
(だが、力自体はちゃんと備わっている。31ポイントもあれば、強力な補助スキルを即座に修得させられる。とんでもない戦力アップになるぞ)
「どうかな……? 何かわかった、トオル君?」
不安そうにこちらを覗き込んでくるアキラに対し、俺は【鑑定】を解除し、何事もなかったかのように平静な声で告げた。
「ああ、アキラにもボーナスポイントが付与されていた。もう一度確認してみてくれ」
「えっ! 本当? やったぁ、えっと、ステータスっと……あれ? ボーナスポイントって、どこ? んー、ないよー」
自力では見つけられないらしい。
(それならば、使えないか……)
「そうか。ステータスを見るにもコツがいるようだ。そのうち使えるようになるだろう。扱えるようになれば、自分に秘められた力を解放できる」
「そうなの?」
「ああ、焦らなくていい。戦闘要員は俺一人でも、このダンジョンはクリアできる。当初の予定通り、アキラは身を守ることを最優先してくれ」
「うん! 私、トオル君の言う通りにする!」
俺はそう言いつつ、内心ではどこかほっとしていた。
今の彼女の『好感度』と『隷属度』は十分に高いが、まだ完璧な絶対に裏切ることのない領域(100)には達していない。
この段階で下手に強力な攻撃手段や、独立できるほどの力を得てしまえば、彼女の中に万が一の慢心や反発の芽が生まれるリスクがある。
そんな考えが浮かんだ。
小学生の頃にやっていた個人競技ではいい成績を残していたのに、中学生から始めた団体競技では躓いた。
俺の考え方や行動は、他者から理解されにくいのだろう。
そのことが教訓となっていて、他人に全幅の信頼を置けない。
性格の良いアキラに対して申し訳なく思うが、人は急に変われないのだ。
* * *
食事を素早く終えると、俺たちは手際よく野営の痕跡を消した。
朝日の光が平原を黄金色に染め上げる中、目の前に迫る巨大な建造物へと足を進める。
『巨石遺跡』。
平原の只中に、古代の巨石が無造作かつ奇怪な配列で立ち並び、
その中央には地下へと続く暗い空洞が口を開けていた。
風化した石の表面に刻まれた不気味な文様が、朝日に照らされて妖しい影を落としている。
「いよいよダンジョンだね……」
「ああ。油断するなよ」
俺は腰の『疾風の剣』の柄に手を伸ばし、重厚な石の建造物が織りなす闇の中へと、第一歩を踏み出した。




