第53話 草原の行軍と、トラウマの克服
バザルの堅牢な東門をくぐり抜けると、視界が一気にひらけた。
頭上には雲一つない澄み切った青空がどこまでも広がり、正午近い太陽の眩い光が、眼下に続く広大な緑の絨毯を鮮やかに照らし出している。
肌を撫でる風には、青々とした草木の匂いと、都市の喧噪から解き放たれた独特の泥の匂いが混じり合っていた。
俺は歩みを止めず、自身の肉体の感覚に意識を向けた。
現在設定しているジョブは『戦士』だ。
『剣士:Lv.7』から切り替えたことで、肉体に宿る重厚感のようなものが明らかに増している。
戦士の職業補正は、筋力(+4)と耐久(+4)。
『大地のブーツ』による耐久(+3)補正も合わさり、地を踏みしめる足取りは揺るぎなく、足腰の粘りが段違いに補強されている感覚があった。
俊敏性に秀でた剣士の軽快さも捨てがたいが、未知のフィールドを進む上での安定性と打たれ強さという点において、今の俺には戦士の補正が最も合理的だった。
「トオル君……外に出ると、やっぱり落ち着かないわ」
「大丈夫だ。戦闘は俺に任せておけ」
「う、うん……」
俺の一歩後ろを歩くアキラが、どこか緊張を残しながらも、感心したように周囲の平原を見渡した。
彼女の身体には、先ほど防具屋で買い与えた『革の胸当て』と『木の丸盾』がしっかりと装着されている。
手首に固定された小盾が、彼女の華奢な体躯には少し不釣り合いに見えたが、これで最低限の防護性能は確保できているはずだ。
「確認しておくぞ。目的地は、ここから半日ほど歩いた先にある『巨石遺跡』だ。日の没する前には到着する予定で動く」
「うん。……あ、そういえばトオル君、私って魔法使いの適性があるって言ってたよね?」
歩を進めながら、アキラが思い出したように尋ねてきた。
俺は前方を警戒しながら、彼女の言葉に小さく頷く。
* * *
「ああ。具体的にどんな効果の魔法なんだ?」
「えっとね……『スムーズ』っていう魔法なの。使っている間は魔力を少しずつ消費するんだけど、地面からの振動とか身体にかかる負担をすごく和らげてくれるの」
「ほう……?」
アキラの説明に、俺は少し興味を惹かれた。
「馬車に乗った時の激しい揺れも気にならなくなるし、長時間歩いた時の足の痛みや靴擦れなんかもほとんど起きなくなるんだよ。地味だけど、移動がすっごく楽になるの」
攻撃や防御といった直接的な戦闘能力ではないが、行軍における疲労を劇的に軽減する補助魔法か。
これから舗装されていない自然の平原を進むことになる。長距離の徒歩移動で戦闘が発生すれば、足の痛みや体力低下はダイレクトに生存率へ影響する。
戦闘能力皆無の仲間だと思っていたが、予想外の実用価値を秘めていることが判明し、俺は密かに満足感を覚える。
「試しに使ってみてくれ。俺にも効果が及ぶか確認したい」
「うん、やってみるね!」
アキラが小さく言葉を紡ぎ始めた。
「大地の聖霊よ、我らの歩みに恵みと喜びを。その足取りに軽やかな加護を――『スムーズ』」
すると、彼女の体内から微かな魔力の波動が放たれた。
直後、俺の足元を包む空気に柔らかな膜のような感触が生まれ、不整地を踏みしめる際の不安定さが、まるで上質な革靴を履いているかのように綺麗に軽減された。
「……なるほど。これは想像以上に快適だな」
「ホント? 良かった! トオル君の役に立てて嬉しいよ」
足裏への負担が劇的に和らぎ、どれだけ歩いても膝や腰へ衝撃が響かない。
これならば長時間の行軍でも体力を温存でき、いざ戦闘が始まった際にも万全の状態で刃を振るうことができる。
パーティメンバーとしての彼女の評価を上方修正しながら、俺たちは一定のペースで草むらの中を進み続けた。
* * *
半日におよぶ平原の行軍中、幾度となく下級の魔物たちが姿を現した。
草むらから躍り出てくる緑色の粘液塊――スライムや、粗悪な棍棒を振り回す小柄なゴブリン、鋭い一本角を生やしたホーンラビット。
「トオル君、前に……!」
「問題ない。お前は後ろに下がっていろ」
俺は『疾風の剣』の柄に手をかけ、冷静に間合いを測った。
戦士の筋力補正と、常時【斬撃付与】の乗った青い刃が、風を切る音と共に閃く。
――ギィッ!
ゴブリンが叫び声をあげる暇すら与えず、一閃のもとに胴体を斜めに切り裂いた。
噴き出す血飛沫を『風のマント』の俊敏性で軽やかにかわし、返す刀で躍りかかってきたホーンラビットを木の丸盾で叩き落とし、そのまま踏み潰す。
一切の無駄がない、洗練された殺傷のプロセス。
血と泥に塗れることなく、作業のように魔物を駆除していく俺の背中を、アキラは息を呑むような感嘆の眼差しで見つめていた。
彼女の中で、俺という存在への畏怖と尊敬、そして圧倒的な安全を約束してくれる主人への依存が、さらに深まっていくのが手にとるように理解できた。
やがて、目的地の『巨石遺跡』のシルエットが遠くの地平線に見え始めた頃だった。
風の向きが変わり、草木の匂いに混じって、ツンとする酸臭と不快な腐食臭が鼻腔を突いた。
俺は即座に脚を止め、左手を上げてアキラを制した。
* * *
「……止まれ。様子がおかしい」
「え……? トオル君、なに……?」
アキラが不安そうに声を潜め、周囲の背丈ほどもある雑草の茂みを見渡す。
ざざっ、ざざざっ、と不自然に草が擦れ合う音が、俺たちを囲むようにして聞こえてきた。
茂みの隙間から姿を現したのは、一目で凶悪とわかる形状をした異形だった。
体長は大型のハイエナほど。
背中から後頭部にかけては、硬質な黒い鱗がびっしりと覆い尽くしている。
額からは禍々しく伸びる短い角、そして裂けた口元からは、粘り気のある緑色の毒液がぽたぽたと地面へ垂れ落ち、草を黒く変色させていた。
『ヴァイパーハウンド(毒角犬)』。
「ひっ……! あ、あの時の……っ!」
その姿を目にした瞬間、アキラの顔から完全に血の気が引き、ガチガチと歯を鳴らしながら、ストンと腰を抜かしたようにしゃがみ込む。
群れで行動し、集団で麻痺と毒を叩き込んでくるこの魔物は、かつて佐藤が率いた彼女たちのパーティを壊滅させ、奴隷落ちへと追いやるきっかけとなったトラウマそのものなのだから。
(後ろにもいるな。……数を生かした挟み撃ちか)
俺は冷静に敵の配置を分析した。
前方の草むらに三匹、そして背後――かなり離れた茂みに二匹。
計五匹の群れが、機動力を活かして同時に襲いかかろうとタイミングを計っている。
囲まれれば、戦えないアキラは一瞬で毒液に浸され、食い殺されるだろう。
一人で前後五匹の攻撃を完璧に捌き切るのは不可能だ。
(……ちょうどいい。試してみるか)
俺は朝方、ボーナスポイント十を投じて手に入れた新たな力――特質系スキル『ダブル』を使用した。
体内の深層から、まとまった量の魔力が一気に吸い上げられる特異な感触。
直後、俺のすぐ隣の空間が歪み、濃密な魔力のモヤの中から、静かに「一人の男」が歩み出てきた。
身に纏う『風のマント』、腰の『疾風の剣』、木の丸盾、そして冷徹な眼光。
寸分違わぬ装備とステータスを持った、実体たる俺の分身。
「ええ……っ!? トオル君が……ふたり……!?」
背後でアキラが目を見張り、絶句したような悲鳴を漏らす。
俺は分身へと短く意識を飛ばした。
言葉を交わす必要すらない。分身は俺の思考そのものであり、完全に連動して動く優秀な手駒だ。
* * *
「後ろの二匹を叩け。アキラには指一本触れさせるな」
分身は無言で首肯すると、素早い踏み込みでアキラの背後へと移動し、後方の草むらに向かって『疾風の剣』を構えた。
「ガルゥァッ!」
前方の茂みから、三匹のヴァイパーハウンドが一斉に躍り出た。
黒い鱗を濡らし、緑の毒液を撒き散らしながら、鋭い角を突き出して俺の首筋へと肉薄してくる。
「ハッ、甘いな」
俺は前方に一歩踏み込み、左腕の『木の丸盾』を前に突き出した。
戦士の筋力補正が乗った重厚な盾受け。
――ガギィンッ!
一匹目の飛びかかりを盾の面で完璧に受け止め、圧倒的な力の差で地面へと叩き落とす。
体勢を崩した毒角犬の首元へ、間髪入れずに『疾風の剣』を突き立てる。
常時【斬撃付与】の青い光が閃き、首級が宙を舞った。
残る二匹が左右から挟み込むように跳躍してくるが、俺の『風のマント』と『疾風の剣』による敏捷(+6)の反応速度がそれを上回る。
右からの襲撃を最小限の体さばきでかわし、すれ違いざまに腹部を一刀両断。
左からの一匹には、返しの刃で前足を深く切り裂き、地に伏せたところを上から『大地のブーツ』で頭骨ごと踏み砕いた。
一方、俺の背後でも激しい金属音と絶命の悲鳴が上がっていた。
「ガアッ……!?」
分身の立ち回りもまた、完璧だった。
アキラを庇う最適な立ち位置を維持したまま、襲いかかってきた二匹の毒角犬の攻撃を、盾と流れるような動作でいなし、カウンターの一撃のもとに胴体を真っ二つに叩き切っていた。
アキラには傷一つ付いていない。
毒液の一滴すら浴びせず、完璧に守り切った。
戦闘開始から、わずか数十秒。
五匹の毒角犬の肉塊が、血の海となって静まり返った草むらに転がっていた。
* * *
「……ふう」
俺が息を整えると同時に、魔力の供給を断たれた分身が、静かに空気へ溶けるようにして消滅した。
驚異的な手数と防衛能力。
十ポイントの対価に見合う――いや、それ以上の戦術的な広がりを実感し、俺は強い満足感を覚えた。
「トオル君……すごい……すごすぎるよ……っ!」
トラウマの対象があっけなく全滅させられた光景に、アキラは震える声で感嘆を漏らした。
その瞳には、かつて彼女を絶望させた怪物たちを容易く粉砕した俺への、絶対的な信奉の色が宿っていた。
「……行くぞ。日が暮れる」
血刀を拭って鞘に納めると、俺たちは再び歩き出した。
やがて、西の空が深紅と濃密なオレンジのグラデーションに染まる頃、
俺たちの目の前に、目的地の『巨石遺跡』がその姿を現した。
平原の中に太古の巨石がランダムに配置され、
風化した壁面には不気味な古代文字が刻まれている。
闇が落ち始めた遺跡の入り口からは、冷たく湿った地下の風が不気味に吹き出していた。
「この辺で切り上げるか……。今日はここで野営する」
俺は遺跡の入口から少し離れた、見晴らしの良い高台を野営地に選んだ。
【アイテムボックス】の空間から手際よく丈夫なテントを取り出し、平坦な地面へと設営していく。
さらに、保管してあった『聖水』の瓶を取り出し、テントの周囲を描くように円状に散布した。
清廉な魔力が地面に染み込み、魔物が嫌う微かな光の障壁(簡易的な結界)が構築される。
「今日はここで泊まるぞ。中に入れ」
「うん!」
日没の冷気が平原を包み込み始める中、俺とアキラは狭いテントの中へ滑り込んだ。
安全地帯の温もりの中で、アキラは安心しきったように俺の隣へ擦り寄ってくる。
暗闇に沈む巨石遺跡を見据えながら、俺は明日始まる本格的な遺跡攻略に向け、静かに思考を研ぎ澄ませていった。




