第6話 死角からの疾風
俺の心臓は、あばら骨を内側から叩き割るのではないかと思うほど、やかましく脈打っていた。
しかし、それとは対照的に、脳髄の奥底は氷の塊でも詰め込まれたかのように冷え切っている。
極度の緊張状態にあるはずなのに、視界はやけにクリアで、風の流れる感触や葉の擦れる微かな音までが異常なほど鮮明に知覚できた。
* * *
俺の視線の先には、粗末な革鎧を着込んだ二人の盗賊の後ろ姿がある。
彼らは前線で血祭りにあげられているクラスメイトたちに完全に意識を奪われ、下劣な笑い声を上げながら、手頃な石を拾っては後衛の女子たちに向けて投擲を繰り返していた。
「ひゃはは! ほらほら、泣いて逃げ惑えや!」
完全に隙だらけだ。
自身の背後が安全であると、一片の疑いもなく信じ切っている無防備な肉体。
俺は深く、そして静かに息を吸い込み、右手に握った『疾風の剣』の柄をさらに強く握り直した。
幼い頃に道場で何万回、何十万回と繰り返していた、剣道のすり足。
すっ、と地面を滑るように踏み込み、落ち葉の音すら殺して、投石に夢中になっている盗賊の真後ろへと音もなくにじり寄る。
相手が再び石を振りかぶろうと腕を上げた、まさにその瞬間だった。
俺は一切の躊躇なく、その剥き出しになった無防備な首筋へ向けて、銀色の刃を水平に振り抜いた。
手に伝わる感触は、驚くほど希薄だった。
肉を断ち切り、骨を砕くような生々しい抵抗感を覚悟していたのだが、その予想は完全に裏切られることとなる。
『疾風の剣』に常時付与されている風魔法【斬撃付与】の恩恵は、想像を絶するものだったのだ。
ヒュッ、と空気を裂く微かな音が鳴ったかと思うと、見えない風の刃が物理的な刀身に纏い付き、盗賊の首を薙ぎ払っていた。
まるで熟れた果実を薄刃の包丁で切り裂いたかのように、男の首が胴体からあっさりと離脱し、宙を舞う。
数拍遅れて、首の断面から間欠泉のように真っ赤な血飛沫が噴き上がった。
* * *
「……え?」
隣で石を投げていたもう一人の盗賊が、自分の顔に降り注いだ生温かい血の雨に気づき、間抜けな声を漏らした。
だが、俺はその男が状況を理解するのを待ってやるほど、お人好しではない。
首を刎ね飛ばした勢いを殺さず、足裏で地面を強く蹴り上げて、自身のステータスが持つ敏捷性とスキルによる補正をフルに稼働させた。
体に叩き込んでいた剣道の型が、俺の肉体を最適解へと導く。
剣を振り抜いた体勢から一瞬で刃を返し、振り向きざまに状況を把握しようとしていた男の背中へ、渾身の突きを放った。
「が、ぶっ……!?」
風の魔力を纏った鋭い切っ先は、男の粗末な革鎧を紙くずのように貫通し、背中から心臓を正確に刺し貫き、胸板の正面へと突き抜けた。
ごぼ、と男の口から大量の血が溢れ出し、白目を剥いてその場に崩れ落ちる。
俺の制服に、生臭く粘り気のある他人の血がべったりと飛び散ったが、不思議と吐き気や嫌悪感は湧いてこなかった。
(……いける。いや、俺がやるしかないんだ)
パニックになっている余裕などない。
――このままでは皆殺しにされる。
冷たく濁った感情のまま、俺は血に濡れた剣を男の胸から引き抜き、すぐさま次の獲物へと視線を巡らせる。
村の入り口では、依然として凄惨な地獄絵図が展開されていた。
剣をでたらめに振り回していた男子生徒たちはあらかた狩り尽くされ、生き残りも身を守ることで精一杯だった。一方の盗賊たちは、逃げ惑う女子生徒たちを追い詰めることに熱中している。
前線で圧倒的な優位に立っていると信じ込んでいる彼らは、自分たちの後衛がすでに崩壊していることに、誰一人として気づいていない。
* * *
バリケードの死角と、乱戦が引き起こす怒声や悲鳴のドサクサが、俺という異物の存在を見事に覆い隠してくれていた。
「おいおい、こいつら本当に何もできねえじゃねえか! ただの案山子だぞ!」
「ヒャハハ! 女の方は傷つけんなよ、高く売れなくなるからな!」
下劣な笑い声を上げながら、一人の盗賊が這いずって逃げようとする女子生徒の髪を掴み上げた。
俺はその背後へと、音もなく滑り込む。
そして、歓喜に歪む男の背後から、躊躇いなく剣を突き立てて肺を貫いた。
「あ、がっ……?」
声にならない絶叫を漏らして倒れる男。
その男の異変に気づき、隣にいた仲間が振り返った瞬間には、俺の『疾風の剣』が下からかち上げるようにその顎を両断していた。
血飛沫が舞う。
肉が裂ける音が響くが、俺の心は凪いだ水面のように静まり返っている。
悲鳴を上げるクラスメイトを助けるためではない。
ただ、生き残るという極めて自己中心的な目的を達成するために、邪魔な障害物を効率的に排除しているだけだ。
俺の動きに、熱い感情や正義感など微塵もない。
それは英雄の戦いなどではなく、暗闇から無力な獲物の命を淡々と刈り取る、冷徹な暗殺者の作業そのものだった。
一振りごとに血が舞い、一歩踏み込むごとに命が消える。
周囲に死体が積み重なっていく中で、俺はただ機械のように、的確に、そして無慈悲に、残る敵の背中へと刃を突き立てていった。
盗賊の一人が異変に気づきかけたが、声を発するよりも早く喉笛を掻き切った。
ズブッ、という鈍い音とともに、最後の一人の盗賊の胸から、赤黒く染まった剣を引き抜いた。
どさりと重い音を立てて肉塊が崩れ落ちた瞬間、昼下がりの広場に、嘘のような静寂が戻ってきた。
いや、完全な静寂ではない。
生き残った者たちの、過呼吸のような荒い息遣いと、血の海を這う微かな音が聞こえる。
* * *
俺は剣をだらりと下げたまま、荒い息を吐いて周囲を見渡した。
そこにあるのは、凄惨という言葉すら生温い、徹底的な破壊と死の痕跡だ。
クラスメイトの約半数が、原形を留めないほどに切り刻まれ、あるいは内臓をぶちまけて冷たい土の上に横たわっている。
つい先ほどまでこの世界をゲームだと信じてはしゃいでいた面影は消え去り、彼らは皆、恐怖と絶望に顔を歪ませたまま、無惨な骸と化していた。
その光景を前にしても、俺の胸の内には悲鳴よりも先に、冷たい現実認識だけが静かに沈んでいく。
そして、俺の視線の先。
血だまりの中心には、数人の盗賊の死体と共に、村の戦士であったガルドが倒れ伏していた。
全身に無数の斬り傷を負い、致命傷となった腹部の裂傷からは大量の血が流れ出ている。
己の無力さと、村を守り切れなかった無念をそのまま形にしたような苦悶の表情を浮かべたまま、彼は息絶えていた。
その顔を見た瞬間――胸の奥で、怒りとも悔しさともつかない黒い感情が、静かに底を深くしていく。村を守ろうとした本物の戦士が死に、後ろからコソコソと背中を刺しただけの自分が無傷で生き残っているという、理不尽な現実への嘲笑だ。
いつの間にか、耳を打っていた悲鳴や金属音は遠のき、戦場には、血の滴る音だけがぽたり、ぽたりと落ちる静寂が満ちていた。
狂乱の時間は終わり、後に残されたのは、圧倒的で凄惨なリアルだけ。
俺は、血の滴る『疾風の剣』を握りしめたまま、その冷酷な現実を、ただ一人静かに見下ろしていた。




