第38話 バザル到着
交易都市バザル。
地平線の彼方からうっすらと見えていたその輪郭は、馬車が近づくにつれて圧倒的な質量を伴う巨大な防壁へと姿を変えていった。
見上げるほどに高く、分厚く切り出された灰色の石材が隙間なく積み上げられた城壁は、この都市が外敵からいかに厳重に守られているかを無言で物語っている。
石壁の表面には所々に深い傷跡や風化による苔が見られ、長い歴史の中で幾度もの襲撃を退けてきた堅牢さを醸し出していた。
俺とルークを乗せた荷馬車は、都市の西門へと続く長く曲がりくねった街道の列に並び、ゆっくりとした歩みを進めている。
周囲には、各地から集まってきたであろう行商人たちの幌馬車や、毛皮や革鎧を纏った無骨な傭兵たちの姿がひしめき合っていた。
人と獣の汗の匂い、排泄物、それに乾いた土埃の香りが入り混じり、鼻腔を容赦なくくすぐってくる。
静かで長閑だったオルト村のような辺境とは根本的に異なる、人口密集地特有の生々しい熱気を肌で感じていた。
* * *
「随分と混んでいるな。いつもこんな調子なのか?」
「ええ。バザルはガディス王国へと繋がる交易の要衝ですからね。それに、門を通るための審査が少し厳重なんです」
俺が短く尋ねると、御者台で手綱を握るルークが、肩越しに苦笑いを浮かべながら答えた。
彼によれば、不審者や犯罪者の流入を防ぐため、一人ひとりの身元確認を徹底しているからこそ、これだけの渋滞が発生しているらしい。
審査、か。
俺は視線を下げ、荷台の奥で手足を厳重に縛られ、布の猿轡を噛まされて転がっている二人の盗賊たちに冷ややかな目を向けた。
現代日本のように、誰もが写真付きの身分証明書を持ち、巨大なデータベースで管理されているわけではないこの異世界。
そのような環境下で、彼らはいったいどのようにして犯罪者の流入を防ぎ、都市の治安を維持しているのだろうか。
指名手配書の似顔絵だけで全てを照合するのは不可能に近いし、自己申告などいくらでも偽装できるはずだ。
その疑問の答えは、列が少しずつ進み、俺たちの荷馬車が関門のすぐ手前までやってきた時に判明した。
* * *
「次、進め。身分を提示してもらおう」
都市の紋章が刺繍されたサーコートを着込み、鎖帷子で身を固めた屈強な門番が、槍を片手に無機質な声で要求してくる。
彼の視線には一切の感情がなく、ただ業務として通過者の選別をこなす冷徹な役人のそれだった。
「はい。ステータス・オープン」
ルークは慣れた手つきで馬車を止めると、門番に向かってはっきりと、呪文を唱えるようにそう口にした。
その瞬間、ルークの胸元の空間に、淡く発光する半透明のパネルのようなものがふわりと浮かび上がった。
俺は目を細め、その光る文字盤の情報を静かに観察し、分析を始める。
そこに表示されていたのは、『名前:ルーク』そして『職業:行商人』という、極めてシンプルで限定的な二つの情報だけだった。
俺が固有スキルである【鑑定】を使用した際に見えるような、詳細なステータス値や隠された能力などは一切表示されていない。
(なるほど。任意のステータス開示では、名前と職業だけが表示される仕様というわけか)
俺は頭の中で、この世界のシステムが持つ合理的なバランス感覚に深く感心していた。
もし、レベルや筋力、敏捷といったすべての情報が赤裸々に表示されてしまえば、個人のプライバシーは完全に崩壊する。
ステータスの低い者は不当な差別に晒され、強力なスキルを持つ者は無用な争いや権力闘争に巻き込まれることになるだろう。
一方で、名前と職業だけでも確認できれば、「盗賊」や「暗殺者」といった明らかな犯罪職を持つ者を水際で弾くことができる。
治安維持の絶対条件と、個人の尊厳を守るための秘匿性。
これは、その二つを両立させる絶妙な妥協点と言える。
より深く他者の情報を探ろうと思えば、俺のように【鑑定】などの特殊なスキルを保有し、自らの魔力を消費して覗き見るしかないのだ。
* * *
「よし、問題ない。次は後ろの護衛だな」
ルークの身分を確認した門番が、鋭い鷹のような視線を荷台に座る俺へと向けてきた。
ルークがすかさず、「道中で街道の盗賊に襲われまして。彼は私の護衛をしてくれた冒険者なんです」と補足の説明を入れる。
俺はゆっくりと立ち上がり、荷台から降りて門番の正面へと歩み出た。
表情筋を微塵も動かさず、極めて自然な動作で、先ほどのルークの真似をする。
「ステータス・オープン」
自分の内側にある僅かな魔力が、世界のシステムによって引き出されるような、微細な感覚が全身を駆け抜けた。
直後、俺の目の前にも半透明のパネルが展開され、そこに文字が浮かび上がる。
『名前:トオル』
『職業:剣士(戦士)』
表示されたのは、たったそれだけだった。
「……剣士と戦士ですか。珍しい――複数職持ちですね。ですが、怪しいところはありません。通ってよし」
俺の審査を担当した丁寧な口調の門番は、表示を一瞥すると、特に深く詮索する様子もなく、あっさりと通行の許可を出した。
俺は短く頷き、再び無言で荷馬車へと乗り込む。
* * *
表面上は氷のように冷たい表情を保っていたが、内心では深く、そして大きな安堵の息を吐き出していた。
(ふう、表示されなかったか……)
俺のステータスには、他人に知られれば間違いなく厄介な事態を引き起こす固有スキルが刻まれている。
【奴隷使い】や【女たらし】といった、倫理的に問題視されかねないスキルの存在――。
もしそれらがこの場で門番の目に触れていれば、面倒な質問責めに遭うか、最悪の場合は警戒されて入市を拒否されていたかもしれない。
この世界における「見せるべき情報」と「隠すべき情報」の線引きを完全に理解できたことは、今後の活動において極めて大きなアドバンテージとなる。
軋む音を立てて、荷馬車が分厚い城壁のアーチをくぐり抜ける。
薄暗いトンネル状の門を抜けた瞬間、目に飛び込んできたのは、豊かな色彩と圧倒的な喧騒だった。
石畳で舗装された広い大通りには、色とりどりの天幕を張った露店がひしめき合い、香辛料と焼けた肉の匂いが強烈に鼻を打つ。
行き交う人々の装備も、質素な布服から艶やかな金属鎧、魔力を帯びたローブなど多種多様だ。
鍛冶屋の槌音、客引きの怒声、馬のいななきが混ざり合い、一つの巨大な生命体のように脈打っている。
ここは力と金が渦巻く、欲望と打算の集積地だ。
俺は吹き抜ける都市の風を頬に受けながら、年相応の探求心を胸の奥底で静かに燃やし続けていた。
「トオルさん。まずは、後ろの連中を騎士団に引き渡しましょうか」
振り返ったルークが、人混みを避けながら器用に手綱を操り、今後の予定を提案してくる。
盗賊の引き渡し――
それが、この街での最初の仕事になる。
権力者への手土産としては、これ以上ない生きた供物が荷台に転がっている。
「ああ、そうだな。厄介払いは早めに済ませよう」
俺は淡々と答え、再び前を向いた。
荷馬車はメインストリートから少し外れ、都市の治安の要である騎士団の詰所へ向かって、ゆっくりと進んでいく。




