第36話 蹂躙、疾風の如く
荷馬車の板張りの床を力強く蹴り上げると、俺の身体はまるで重力を失ったかのように軽く宙を舞った。
背中に羽織った『風のマント』が跳躍に合わせて突風を孕み、滞空時間を不自然なほど引き延ばす。
敏捷値にプラス6という補正がかかった現在の肉体は、俺自身の認識を遥かに超える圧倒的なバネと瞬発力を生み出していた。
眼下の街道では、巻き上がる土埃と共に三騎の盗賊が猛烈なスピードで迫ってくる。
馬の荒い鼻息や、汗と泥が入り混じった獣特有の臭いが、冷たい風に乗って俺の鼻腔を容赦なく突いた。
彼らの顔には、獲物であるはずの荷馬車から人間が単身で飛び出してきたことへの驚愕と、直後に湧き上がった嗜虐的な笑みが浮かんでいる。
「死に晒せぇ!」
先頭を駆ける大柄な盗賊が、馬の勢いを利用して無造作に長剣を振りかぶる。
だが、極限まで研ぎ澄まされた俺の視界では、その太々しい剣筋は泥水の中で丸太を振るうかのように遅く、あまりにも単調だった。
* * *
俺は空中で、腰の『疾風の剣』を滑らかに抜き放つ。
馬に乗った盗賊へ向かって落下する最中――敵の振り下ろした剣を冷静に身体を捻って躱す。体勢は崩れるが、それすら利用して剣を振るった。
足場はないが、俺の『技量』の前では関係ない。
落下の勢いを白刃に乗せ、すれ違いざまに横凪ぎの一閃を放つ。常時発動している【斬撃付与】の魔法効果が斬撃をさらに苛烈なものへと変える。
刃が空気を切り裂く鋭い風切り音に続いて、肉と骨を断ち切る生々しい感触が右腕へ伝わる。
ザシュッ。
分厚い肉を叩き割るような、湿った音が響いた。
斬撃付与の鋭利な魔法刃は、盗賊の太い首をいとも容易く胴体から切断し、中天へと跳ね飛ばしていた。
血の飛沫が赤い霧のように吹き上がり、俺の頬を微かに濡らすが、思考は氷のように冷たく澄み切ったままだ。
俺はそのまま地面へ落下することなく、首を失って馬上でのけぞる一騎目の遺体の胸元へ迷わず足を突き出した。
装備補正で向上したステータスが、この一連の曲芸じみた動きを可能としている。ドスッ、と靴底に重い手応えを感じた瞬間、その肉の塊を強烈な踏み台にして、再び斜め上方へ跳躍した。
* *
「なっ……!?」
二騎目の盗賊が、仲間が一瞬で首を刎ねられ、さらにその死体を足場にされたという理解不能な光景に目を剥いた。
俺は彼の頭上、敵の意表を突くように高所を確保すると、両手で握り込んだ剣を力任せに振り下ろした。
俺の一撃は、防ぐことなど不可能な絶対的な暴力となる。
「ひっ——」
短い悲鳴ごと、二騎目の盗賊の脳天から股下までを、疾風の剣が文字通り一刀両断に叩き割った。
左右に分かたれた肉塊がドサリと鈍い音を立てて地面に落ち、生暖かい臓物の匂いが周囲に散乱する。
* *
残るは、後方に控えていた最後の一騎のみとなった。
その男の顔面には、たった数秒の間に仲間二人が肉片へ変えられたことへの、圧倒的な絶望と恐怖がへばりついていた。
だが、馬は急には止まれない。
停止させるより早く、男は俺の眼前まで運ばれてくる。
「ば、化け物……ッ!」
半狂乱になった男は剣を突き出してきたが、恐怖で腰が引け、軸が完全にブレたその一撃に脅威は皆無だった。
俺は落下軌道を空中でわずかに調整し、体勢を整える。
そして、突き出された剣の腹を、自らの剣先で正確に弾き飛ばした。
ガァンッ!
甲高い金属音が響き、盗賊の手が痺れたのか、武器は虚空へスピンしながら飛んでいく。
丸腰になり、馬上で完全にバランスを崩した男の胸ぐらを、俺は空中でガッチリと掴み上げた。
馬の疾走する勢いと、俺自身の移動エネルギーをそのまま利用し、男の身体を無理やり馬の背から引き剥がす。
俺は男の身体を自分の下敷きにするように反転させ、そのまま固い街道の土へと激突した。
「ぐえぇッ!」
盗賊の身体が嫌な音を立ててひしゃげ、肺から空気が強制的に絞り出されるような、カエルを潰した声が響いた。
男の肉体を分厚い“クッション”として利用した俺は、着地の衝撃を完全に殺し、膝や足首に一切のダメージを受けることなく地面へ降り立った。
足元の男は白目を剥き、口から血泡を吹いて完全に意識を刈り取られている。
骨の数本は折れているかもしれないが、息はある。
事後処理や情報収集を考えれば、一人くらい生かしておいて損はないだろう。
俺は感情を交えず状況を整理すると、休む間もなく身体を前傾姿勢へ戻し、ルークが待機している前方へと視線を反転させた。
* * *
俺が最初に投擲した煙幕弾の濃密な灰色の煙が、風に流されて少しずつ薄れ始めていた。
その煙の向こう側から、ゴホゴホと激しく咳き込む声と共に、二つの人影が飛び出してくる。
待ち伏せしていた槍兵の二人だ。
彼らは後方で起きた凄惨な蹂躙劇にまだ気づいていないらしく、視界を奪われた混乱のまま、手近な標的である馬車へ向かおうとしている。
弓兵の姿は見えないが、まだ煙の中で咳き込んでいるか、慎重に様子を窺っているのだろう。
俺は剣に付着した脂と血糊を軽く振り払うと、足音を完全に殺して地面を蹴った。
(背後は煙で獲れないな。狙うのは敵の側面……)
* *
獲物の背後、あるいは側面の死角を突くのは、戦闘において最も合理的で効率的な基本戦術だ。
俺の接近に気づいた一人が、ハッと振り返り、慌てて長槍をこちらへ向けて構えようとする。
「てめぇ、どこから……ッ!」
男が反射的に槍を繰り出してくるが、俺の目にはその動きが呆れるほどスローモーションに見えていた。
『剣術:Lv.8』のスキルがもたらす戦闘センスは、敵の筋肉の収縮や重心の移動から、槍のリーチと軌道を線のように完全に読み切っている。
俺は直線的に突っ込むと見せかけ、足首を捻って急激に軌道を右へスライドさせた。
空を切る槍の穂先をやり過ごし、無防備になった敵の懐へ深く潜り込む。
そのまま流れるような動作で下から上へ剣を振り上げ、一人目の顎下から頭蓋にかけてを容赦なく切り裂いた。
頭部の半分を失った男が崩れ落ちるのと同時に、もう一人の槍兵が狂ったように俺の横腹を狙って刺突を放ってくる。
* *
「死ねぇええッ!」
怒声と共に迫る鋭い金属の穂先。
だが俺は、上体を僅かに反らすだけで、その一撃を紙一重で躱した。
鼻先を冷たい風圧が通り抜けるのを感じながら、俺は大きく前に踏み込んだ。
「なっ——」
敵が体勢を立て直して槍を引き戻すよりも早く、俺の刃が男の無防備な胴体を真横に薙ぎ払っていた。
分厚い革鎧ごと内臓を深く切り裂かれた男は、声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
周囲に立ち込めていた煙幕の硝煙の匂いが、強烈な鉄の匂いと内臓の悪臭に急速に上書きされていく。
土埃が舞う街道に、あっという間に二つの物言わぬ肉塊が転がっていた。
自らを害そうとした命を刈り取ったことに、後悔や罪悪感は一切湧かない。
俺は静かに深呼吸をして肺に冷たい空気を満たすと、油断なく周囲に視線を巡らせ、残る弓兵たちの気配を探り始めた。




