第35話 クエスト発生と合理的な選択
「トオルさん……盗賊です」
ルークの押し殺したような声が、冷たい風に乗って俺の鼓膜を震わせた。
のどかな馬車の旅から一転、周囲の空気が一瞬にして張り詰め、ヒリヒリとした殺気が肌を撫でる。
俺は即座に荷台の陰に身を屈め、呼吸を薄く引き延ばしながら周囲の状況を視覚と聴覚で探った。
背後からは、規則正しく土を蹴る蹄の音が、着実に、そして急速に距離を詰めてきているのがわかる。
「何人だ——逃げきれそうか?」
俺は声のトーンを極限まで落とし、御者台で全身を強張らせているルークへと手短に問いかけた。
「馬に乗った盗賊が三名……それに、前方で待ち伏せされています! 逃げきれそうにありません……っ!」
振り返ったルークの顔は完全に血の気を失い、蒼白になっていた。
手綱を握る指先が小刻みに震え、彼の額からは冷たい汗が流れ落ちている。
商売柄、多少の修羅場は潜り抜けてきたのだろうが、前後を完全に塞がれるような計画的な挟み撃ちには慣れていないらしい。
「待ち伏せの規模と武装はわかるか?」
「前方の茂みに四人……槍が二人に、弓が二人見えました! どうしましょう、トオルさん!」
悲鳴に近いルークの報告を脳内で処理しながら、俺は極めて冷静に彼我の戦力差の計算を行っていた。
心臓の鼓動は平坦なままであり、むしろこの状況に対する冷たい高揚感が胸の奥で静かに鎌首をもたげている。
敵は計七名。
前方に槍兵二名と弓兵二名、後方に機動力のある騎馬が三名。
対するこちらは、非戦闘員である行商人のルークと、俺の二人だけ。
一般的に考えれば、命か荷物のどちらか、あるいは両方を奪われる絶望的な状況だ。
だが、俺の胸中に焦燥感や絶望といった感情は微塵も存在しなかった。
* * *
現在の俺のステータスは、装備の補正を合わせれば敏捷が『21』、技量が『29』にまで達している。
ステータスをレアアイテムの補正で引き上げた結果、俺の肉体はすでに常人の枠を大きく逸脱した領域にあった。
筋力や耐久力も一般の大人を凌駕しており、烏合の衆である盗賊七人程度なら、単独でも全く問題なく制圧可能な数値である。
俺が反撃のプロセスを脳内で構築し、最適な殲滅手順を弾き出し始めたその時だった。
視界の端で淡い光が唐突に瞬き、半透明の青白いシステムウィンドウが空間に展開された。
無機質な電子音のような響きと共に、明朝体にも似た端正な文字列が空中に浮かび上がる。
『クエストが発生しました』
『【内容】盗賊から荷馬車を守れ』
俺はその文字列を冷たい視線でなぞりながら、思考の海へとさらに深く潜り込んだ。
(荷馬車を守れ、という指令か……。ということは、荷馬車さえ無傷なら盗賊を倒さなくてもいいのだろうか?)
この世界のシステムが提示するクエスト――
その達成条件の裏に潜む抜け道について瞬時に推論を立てる。
システムが俺の行動を完全に縛るわけではない。
あくまで「目標」を提示しているに過ぎないのだ。
ゲームのようなシステムが存在し、ステータス画面が開くとはいえ、流れる血も命のやり取りも現実だ。
逃げるという選択肢があるのであれば、それに越したことはないだろう。
「ルーク、いつもこんなに大量の盗賊が出るのか?」
俺は視界に浮かぶ青白いウィンドウから視線を外し、前方のルークに尋ねた。
『クエストの発生』というのは頻繁に起こりえるものなのだろうか――
ちょっとした確認だ。
* *
「まさか! こんな大勢に囲まれるなんて、僕も初めてですよ! ああ、どうしよう……!」
(クラスメイト達を乗せてここを通った時には、このクエストは発生しなかったようだな……)
涙目になりながら首を振るルークの視線は、空間に浮かぶウィンドウを完全に透過していた。
俺の顔を見つめる彼の瞳の焦点から推測するに、どうやらこのシステムの通知は俺(転移者)にしか見えていないらしい。
自分が「プレイヤー」に等しい存在であることを自覚するが、だからといって油断する理由にはならない。
俺は周囲の地形を素早く見渡し、次なる行動の合理性を極めて緻密に精査した。
街道を外れて森の中へ馬車ごと突っ込めば、前後からの挟み撃ちは一時的に回避できるかもしれない。
しかし、この森は木の密度こそ高くないものの、衝突の危険は十分にある。
さらに、街道を一歩でも外れれば『女神の加護』による魔物除けの結界は効果を失う。
ゴブリンやウルフといった魔物と遭遇するリスクを考えれば、戦力が底知れている人間の盗賊を相手にする方が遥かに安全だ。
魔物と違い、盗賊は売り物になる馬車や馬を敢えて損壊させることはないだろう。
(戦って倒すしかない。いや、むしろクエストの報酬を得るためには戦った方がいい)
逃走という選択肢を脳内から完全に消去し、俺は冷徹な狩人としてのスイッチを完全に切り替えた。
恐怖に支配された盗賊たちの顔を想像し、口元が微かに歪むのを止められない。
「ルーク、とりあえず馬車を止めろ。各個撃破する」
俺の低く、氷のように落ち着き払った声に、ルークが一瞬だけ呆然と振り返る。
だが、その瞳に宿る俺の絶対的な自信と覇気を読み取ったのか、彼は力強く頷き、両手で馬の手綱を強く引き絞った。
* * *
いななきと共に馬車が軋み音を立てて急停止するのと同時に、俺はスキル【アイテムボックス】を展開した。
視界の端に現れた暗黒の空間へ躊躇なく右手を突っ込み、あらかじめ整理しておいた探索道具の中から『煙幕弾』を掴み出す。
オルト村のバドの店で買っておいた初歩的な投擲アイテムだ。
手の中に収まるザラついた球体の感触を確かめると、俺は前方の茂みへ向けて力強く、そして正確にそれを投擲した。
放たれた煙幕弾は美しい放物線を描き――俺たちと、槍と弓を構えていた待ち伏せ組との間で激しく炸裂した。
「なっ!? なんだこれは!」
「煙だ! くそっ、逃げる気か……ッ!」
ボフッという鈍い破裂音と共に、濃密な灰色の煙が瞬く間に前方の空間を覆い尽くす。
鼻を突く硫黄のような匂いが漂い、弓兵の視界は完全に奪われ、後衛との連携も物理的に遮断された。
これで、前方からの厄介な遠距離攻撃の脅威は一時的に無力化された。
* *
「そのまま馬車を動かすなよ、ルーク。すぐに終わらせる」
俺はゆっくりと立ち上がりながら、腰に提げた『疾風の剣』の柄に手をかけた。
チャキリと冷たい金属音を響かせ、常時【斬撃付与】の加護を宿した白刃を静かに抜き放つ。
前方の視界が封じられた今、後方からの脅威に集中して対応できる。
俺の背後からは三騎の盗賊が、馬の荒い息遣いと共に猛スピードで迫ってきていた。
このまま馬車の荷台で待ち構えて迎え撃つよりも、機動力を活かしてこちらから距離を詰める方が圧倒的に有利だ。
俺の意志に呼応するように、『風のマント』がバサリと大きく翻った。
装備の俊敏補正が全身の筋肉に爆発的なバネを与え、俺の体感時間はスローモーションのように引き延ばされる。
血肉に刻まれた剣士の技量が、最適な踏み込みの位置と角度を正確に弾き出していた。
俺は木製の荷台を力強く蹴り上げ、迫り来る後方の騎馬へ向かって、躊躇なく空へと跳躍した。




