第34話 街道の馬車と過ぎ去りし者たち
朝靄が薄く漂う街道を、重厚な木製車輪が静かに踏みしめていく。
軋む車軸の乾いた音と、二頭の馬が吐き出す白い息、そして規則正しく土を蹴る蹄の音が、まだ静まり返った早朝の森に木霊していた。
俺は行商人ルークが駆る荷馬車の荷台に腰を下ろし、遠ざかっていくオルト村のシルエットを静かに見つめていた。
村の出口で見送ってくれたマリアとナンシーの姿は、すでに樹木の影に隠れて見えなくなっている。
肌を撫でる朝の空気はひんやりと冷たく、森の湿った腐葉土と野草の香りが鼻腔をくすぐった。
オルト村での一ヶ月間は、俺にとって信頼できる人材の確保と基礎能力向上のための極めて有意義な時間だった。
だが、過ぎ去った場所に未練はない。
俺の思考はすでに、これから足を踏み入れようとしている未知の領域へと向かっていた。
* * *
「トオルさん、バザルまでは街道経由でおよそ四十キロメートルです。馬車なら順調にいけば一日半ほどで到着しますよ」
御者台で手綱を握るルークが、振り返ることなく爽やかな声をかけてきた。
日焼けした浅黒い首元と、長年の移動で鍛え上げられた背中が頼もしい。
「荷物を背負って徒歩で向かう旅だと――丸三日はかかる道のりか。馬車を使わせてもらえて助かったよ、ルーク」
「ハハ、お互い様ですよ。『オルト村の英雄』が同乗してくれているおかげで、僕も道中の護衛費用を浮かせられますからね。今日の夕方に街道沿いの交易待避所で一泊して、明日の昼過ぎにはバザルの大きな城門が見えてくるはずです」
ルークは商人らしい抜け目のなさを覗かせつつも、人当たりの良い笑みを声に込めた。
彼のような熟練の行商人が選ぶルートと旅程だからこそ、道中の安全性も極めて高いと踏んでいいだろう。
* *
馬車が急な坂道を登り切ると、視界が一気に開けた。
眼下には、見渡す限りの緑豊かな平原と、その中央をまっすぐに貫く白土の街道がどこまでも伸びている。
この街道には、レトバルト王国の建国期から施されている『女神の加護』の結界が張り巡らされているという。
街道の境界線を示すように一定間隔で配置された石造りの小標識。
あれらが結界の範囲を示している。女神の加護は微弱な神聖力を放ち、野良の魔物や害獣が街道の敷地内へ侵入するのを防いでいるらしい。
弱い魔物であれば極稀に出現することもあるが、大抵の場合は馬車で轢き殺してしまうという。運が悪いと横転の危険もあるが、常に危険と隣り合わせの異世界の行商人は、その辺りの感覚がかなりルーズなようだ。
今回の旅では護衛役の俺がいるため、魔物が出たら馬車を停止して退治することになっている。
俺は手すりに肘をかけ、石標へ固有スキル【鑑定】を発動させた。
『魔導結界の標石:微弱な聖属性の波動を放ち、脅威度F〜Eランクの魔物の接近を感知・忌避させる』。
(女神の結界とは別に、このような魔道具も設置してあるのか)
画面上に視認できた簡素な説明を読み解きながら、俺はこの世界のインフラ事情に深く感心していた。
国家規模でこのような大規模な防衛結界を街道に敷設し、維持している技術とコスト。中央の集権力が低下していると言われるレトバルト王国だが、かつての繁栄の遺産は今もなお確かに機能しているらしい。
* *
ガタガタと揺れる荷台の乗り心地も、当初予想していたほど悪くはなかった。
荷台の底には分厚い藁と毛布が敷き詰められているだけでなく、車軸と荷台の接合部には衝撃を和らげる木製のバネ仕掛けが施されている。
職人の細やかな商売道具へのこだわりと、生活の知恵が伺えた。
俺は『風のマント』を深く羽織り直し、背もたれに体を預けてのんびりと流れる雲を仰ぎ見た。
マントの補正効果である【俊敏+3】の感覚が、全身の神経を心地よく研ぎ澄ませていく。
指にはめた『精神の指輪』からは、微小な魔力が体内へ滞りなく循環していく感覚が伝わってきた。
装備品によるパラメータの上昇は、単なる数値の増減にとどまらず、身体機能や感覚の明瞭さとしてリアルタイムに反映される。
荷台には、ルークがオルト村で仕入れた魔物素材が大量に積まれている。
大半は俺が仕留めた物だろう。膨大な物資を抱えながら旅をする感覚は、密かな高揚感を俺に与えていた。
* * *
流れる景色と馬車の振動に身を任せていると、俺の意識は自ずと過去の記憶へと遡っていった。
この異世界へ共に転移してきた、かつてのクラスメイトたちの顔が脳裏に浮かぶ。
「今頃、あいつらはどうしているだろうな……」
俺たちがこの世界に投げ出された初日、襲いかかってきた盗賊たちの刃によって、クラスメイトの約半数が呆気なく命を落とした。
混乱と悲鳴、飛び散る血煙の中で、俺は冷静に状況を分析し、生き残るための最短ルートを選択した。
その戦闘で最大の戦果を挙げた俺は、村長から『風のマント』を受け取った。
生き残ったクラスメイトたち(リーダー格の佐藤翔太や木村健一)は、俺一人が装備品を手に入れたことに憤慨し、村から支給された報奨金は「お前以外の全員で山分けする」と言い出した。
俺はこれ以上、彼らと揉めることを避けるため、異を唱えることはしなかった。
あの場で中途半端な金を手にしても、村での活動資金としては高が知れている。
それならば、戦闘能力も判断力も欠如したクラスメイトたちに手切れ金として分け与え、彼らを早期に村から切り離してバザルの町へ向かわせる方が遥かに合理的だった。
足を引っ張る無能な集団を抱え込むリスクを避け、自分一人でオルト村の資源(宿泊施設と提供される料理、森に出る魔物)を独占して効率よくレベルアップを重ねることができた。
あの金は投資だと思えばいい。
彼らがバザルの町に辿り着いた時点で、渡した金は馬車代と数日分の滞在費で完全に底をついていたはずだ。
着の身着のままで見知らぬ異世界の町に放り出された彼らは、生きるために冒険者ギルドの最底辺の依頼に縋り付くしかなかっただろう。
装備も知識もなく、泥をすするような下級クエストをこなしながら、日々をカツカツで生き延びている姿が容易に想像できた。
「まあ、命があっただけ儲けものだと思ってもらうしかないな」
俺は心の中で冷たく呟き、思考を打ち切った。
彼らを突き放し、自分だけがオルト村で成長と富、そして屈服させた美女を手に入れたことに対して、罪悪感などは一切存在しない。
自分の探求心と生存を優先し、冷徹にリスクを管理して得た当然の結果に過ぎないからだ。
* * *
昼過ぎを回り、太陽が頭上から少し傾きかけた頃。
街道を取り囲む木々の密度が増し、深い影が路面を覆い始めていた。
それまで穏やかだった馬車の進行ペースが、ふと不自然に緩やかになる。
御者台のルークの肩が微かに強張るのを、研ぎ澄まされた視界は見逃さなかった。
ルークが馬の手綱を握り直し、周囲の深い茂みへ視線を走らせる。
次の瞬間、彼は喉を鳴らし、押し殺した低く鋭い声を発した。
「トオルさん……盗賊です」
その一言が静寂を引き裂いた。
俺は一切の動揺を見せず、静かに目を細める。
脳内のスイッチが瞬時に『日常』から『戦闘』へと切り替わる。
背もたれから体を離し、荷台の陰へ身を低く沈めながら、右手を腰の『疾風の剣』の柄へ滑らせた。
『女神の加護』がある街道では、モンスターは滅多に出現しない。
出るのは盗賊――獲物を狙って待ち伏せする確信犯だ。
「何人だ――逃げきれそうか?」
俺は声のトーンを極限まで落とし、冷徹な状況把握のためにルークへ短く問いかけた。




