第21話 村の英雄の帰還と、歪な情愛
オルト村の入り口を覆う、目には見えない女神の加護の中へと入る。
先ほどまで肌にまとわりついていた重苦しい瘴気と、血生臭い野生の匂いが嘘のように霧散し、清浄で穏やかな空気が肺を満たした。
オルト村は、夕暮れの茜色に染まりつつあった。
各家の煙突からは夕餉の支度を示す白い煙が立ち上り、どこからか薪が爆ぜる微かな音が聞こえてくる。
俺は周囲の平穏な空気に安堵の息を漏らすこともなく、歩調を崩さずに村の解体所へと向かった。
解体所は村の端、川の近くに位置している。
近づくにつれて、獣の脂と生血、そして内臓独特の饐えた匂いが鼻を突いた。
引き戸を開けると、薄暗い作業場の中で、屈強な体つきをした中年の解体屋が刃物の手入れをしているところだった。
「親父、解体を頼みたい獲物がある」
俺が声をかけると、解体屋は面倒そうに顔を上げ、俺の顔を見るなり態度を軟化させた。
「おお、トオル殿か。今日はどんな獲物を持って……」
言葉の途中で、俺は無言のまま固有スキル【アイテムボックス】を展開した。
虚空からドサリと鈍い音を立てて現れたのは、体長二メートルを超える上位個体、グレイト・ホーンラビットの巨大な死体だ。
作業場の床の大部分を占拠するその異様な質量と、鼻を突く濃厚な血の匂いに、解体屋は目を丸くして言葉を失った。
* * *
「こ、こいつは……グレイト・ホーンラビットじゃないか。この大きいのを、あんた一人で狩ってきたのか……!?」
「ああ。森の奥で遭遇してな。運良く致命傷を与えられた」
俺が淡々と事実だけを告げると、解体屋は震える手でウサギの巨大な角に触れた。
「流石は、この村の英雄殿だ。まさかこれほどの大物を一人で仕留めるとはな。よし、任せてくれ。腕によりをかけて捌かせてもらうぜ」
彼は尊敬と畏怖の入り交じった視線を俺に向け、すぐさま仕事に取り掛かる準備を始めた。
一応持ってきたオオカミの方は引き取りだけだ。
毛皮に使い道はあるが、ほとんど金にはならない。
俺は邪魔にならないよう作業場を後にしながら、己の持つ【オルト村の英雄】という称号の効力を冷静に分析していた。
ただのよそ者であれば、これほどの獲物を持ち込めば不当に買い叩かれたり、あるいは出処を怪しまれたりするリスクがある。
だが、この称号による村人への強力な好感度補正が、そうした対人関係の摩擦を未然に防ぎ、俺の活動を極めて円滑にしてくれているのだと思う。
自身が持つチートスキルと称号の噛み合いの良さを改めて実感しつつ、俺は拠点であるマリアの家へと歩を進めた。
* * *
家に戻ると、扉の向こうからは野菜と肉を煮込んだシチューの甘く香ばしい匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい、トオルさま」
出迎えてくれたマリアは、波打つ亜麻色の髪を後ろで緩く三つ編みに結わえ、いつものようにおっとりとした微笑みを浮かべている。
その深い琥珀色の瞳には、俺への明らかな好意と依存が滲んでいた。
「ただいま。夕食まで少し時間があるな」
俺が土間を上がると、パタパタと軽い足音を立てて、小さな影が飛びついてきた。
「トオルさま、おかえり!」
マリアの娘であるナンシーだ。
父親譲りだという燃えるような赤髪のショートカットが揺れ、母親と同じ丸くて大きな琥珀色の瞳が俺を無邪気に見上げている。
俺は苦笑しながら、五歳の小さな身体を抱え上げ、居間の椅子に腰を下ろした。
夕食の準備が整うまでの間、俺の膝の上にちょこんと座ったナンシーと一緒に、この世界の文字の読み書きを勉強するのが最近の日課になっていた。
不思議なことに、この世界では「日本語」の概念がそのまま言語として通じる。
だが、文字に関しては全くの別物であり、アルファベットと象形文字を崩したような複雑な記号の羅列だった。
羊皮紙の切れ端に木炭で文字を書きながら、俺は言語翻訳システムの不完全さについて思考を巡らせる。
「ほら、ここがこう跳ねるんだ」
「こう? むずかしいなぁ……」
膝の上でペンを握るナンシーの体温は高く、柔らかな髪からは石鹸のいい匂いがした。
数時間前まで、血と臓物の匂いが充満する森の奥で、死と隣り合わせの死闘を繰り広げていたのが嘘のようだ。
外の過酷な現実と、この閉鎖された空間の圧倒的な平和さ。
その激しいギャップに僅かな眩暈を覚えつつも、俺はこのぬるま湯のような安らぎに心地よさを感じていた。
* * *
やがて夕食の時間となり、三人で温かいシチューと黒パンを腹に収める。
食後しばらくして、遊び疲れたナンシーがすやすやと寝息を立て始めたのを見計らい、マリアが寝室のベッドに彼女を運び寝かしつけてきた。
居間には、洗い物をする水音と、ランプの微かな灯りだけが残された。
俺が明日の予定を脳内で組み立てていると、不意にマリアが手を拭きながら近づいてきた。
その表情は、いつものおっとりとしたものとは違い、どこか硬く、思い詰めたような真剣さを帯びていた。
「トオルさま……少し、よろしいでしょうか」
「どうした。改まって」
俺が視線を向けると、マリアは躊躇うように伏し目がちになり、やがて絞り出すように言った。
「ナンシーは、まだ五歳です。いくらトオルさまでも……あの子に手を出すには、早すぎます」
その言葉を聞いた瞬間、俺の思考は一瞬だけ空白になった。
手を出す?
俺がナンシーに?
「馬鹿なことを言うな。ただ文字を教えていただけだろうが」
微かな苛立ちと共に否定するが、マリアはまだ納得のいかない様子で唇を噛んでいる。
文字の勉強のために膝に乗せていただけで、そんな疑いをかけられるのは理不尽極まりない。
だが、慎重な俺はすぐに感情的な反発を抑え込み、冷徹な理知で思考を切り替えた。
マリアの俺に対する【好感度】は80、【隷属度】は67に達している。
これほどの数値を持つ彼女が、俺に対して本気で嫌悪感を抱き、純粋に娘を守るためだけに反抗してきたとは考えにくい。
だとしたら、この理不尽な苦言の正体は何だ?
俺はマリアの琥珀色の瞳をじっと観察し、その奥に揺らめく感情の色を読み解こうとした。
不安、焦燥、そして……どす黒く渦巻くような、強烈な独占欲。
なるほど。
これは母親としての危機感などではない。
女としての嫉妬だ。
俺の膝の上という「特等席」を奪われ、俺の意識が自分以外の雌――たとえそれが自分の娘であろうと――に向くことが許せなかったのだ。
自分に向けられたその重く歪んだ嫉妬心を、俺は頭の片隅で「少し面倒だ」と冷静に分析する。
だが、それと同時に、男としての底知れない征服欲がチリチリと刺激されるのを感じていた。
彼女の俺に対する過剰な依存と好意は、決して悪い気分ではない。
だが、だからといって彼女が俺の行動に口出しし、無意識のうちに主導権を握ろうとするのは間違っている。
勘違いしたまま増長させるのは、今後の共同生活においても、俺の精神衛生上においても良くない。
彼女には、誰がこの家の主人であるかをはっきりとわからせる『お仕置き』が必要だ。
俺は内心でそんな合理的な理由を組み上げ、自身の内に湧き上がる性的な衝動を肯定する。
マリアは俺の沈黙に耐えきれなくなったのか、逃げるように背を向け、再び台所で洗い物の続きを始めた。
俺は音もなく椅子から立ち上がる。
ランプの灯りに照らされ、無防備に背中を向けている未亡人の、その豊満な身体の輪郭を視界に収める。
俺は足音を完全に殺したまま、彼女の背後へと静かに歩みを進めた。




