第20話 「剣士」の立ち回り
オルト村の北西、人の手が入らなくなった鬱蒼とした森を目指して俺は歩き続けていた。
空を覆う厚い雲が陽の光を遮り、周囲は真昼であっても薄暗く、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。
村を出立してから、歩き詰めで約半日が経過していた。
* * *
不意に、周囲の空気の質が劇的に変化したのを感じ取る。
村を出てからも微かに感じていた、清浄で温かみのある女神の加護。
その見えない境界線を越えた瞬間、肺に吸い込む空気がひどく重く、淀んだものへと変わった。
むせ返るような青臭い植物の匂いに混じり、腐敗臭や獣の体臭が濃密に漂ってくる。
これが、魔物たちが跋扈する加護の外側――
真の異世界の空気、いわゆる瘴気というやつだろう。
俺は歩みを止め、新調した革の胸当ての感触を確かめるように軽く胸を叩いた。
硬く鞣された革の張りが、胴体をしっかりと保護しているという最低限の安心感を与えてくれる。
足元の真新しい革のブーツも、ぬかるんだ腐葉土の地面を確実に捉え、歩行を安定させていた。
この装備で戦えば、「戦士」としての適性を得られるかもしれない。
だが、防具が充実したからといって、無用な音を立てていい理由にはならない。
俺は呼吸を浅く静かに保ち、足音を極限まで殺しながら前進を再開する。
神経を研ぎ澄まし、視覚、聴覚、嗅覚のすべてを周囲の索敵へと振り分けた。
木々の葉が擦れる微かな音さえも聞き逃さないよう、全感覚を張り巡らせる。
* * *
境界を越えてから数十分後、索敵網に明確な敵意が引っかかった。
風下に位置する茂みの奥から、三対の飢えた眼光がこちらを値踏みするように睨んでいる。
灰褐色の体毛に覆われた狼型の魔物、フォレストウルフの群れだ。
(通常サイズの魔物か――女神の加護の外にいる魔物が、すべて上位タイプとは限らないのだろう)
低い唸り声とともに、三匹の魔物が連携を取るように扇状に展開し、包囲網を敷いてくる。
普通の村人や新米冒険者であれば、野生の獣が放つ威圧感だけで足がすくむかもしれない。
だが、俺の心は氷のように冷たく、極めて冷静に状況を俯瞰していた。
『疾風の剣』の柄を握りしめ、重心をわずかに落とす。
防具を新調したとはいえ、耐久14というステータスに頼って無闇に攻撃を受けるつもりは毛頭ない。
俺の戦闘スタイルの本質は、相手の攻撃を躱し、間合いを制することにある。
先陣を切って、正面の一匹が鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってきた。
その単純で直線的な軌道を冷静に見極め、俺は最小限の動きで半歩だけ横へずれる。
『風のマント』の恩恵を受けた身のこなしは、俺の思考と完全にリンクして軽やかに躍動した。
すれ違いざま、剣を大振りすることすらしない。
刃の向きを合わせ、敵の推進力を利用して首筋の急所を的確に斬り裂いた。
常時発動している【斬撃付与】の効果により、抵抗らしい抵抗もなく深々と肉が裂ける。
熱い鮮血が宙を舞う中、残る二匹が左右から同時に襲いかかってきた。
仲間が殺されたことへの怒りか、それとも単なる食欲に突き動かされた結果か。
いずれにせよ、リズムを完全に崩した獣の単調な連携など、今の俺には止まって見える。
地を蹴り、驚異的な敏捷性で右の個体の懐へ一瞬で潜り込む。
驚愕に見開かれた獣の眼球を捉えながら、下から上へと刃を斬り上げた。
顎から脳天を貫く致命の一撃を与え、素早く背後から迫る個体へと向き直る。
最後の個体は恐怖を覚えたのか、俺に飛び掛かろうとしている最中、空中で無理やり軌道を変えようともがいた。
だが足場はなく、逃げに転じることはできない。
俺の刃は既にその無防備な胴体を真横に両断していた。
三匹の死体がドサリと地面に転がり、周囲に濃密な血の匂いが充満する。
自身のステータスと立ち回りの正しさを、確かな手応えとして実感する。
息一つ乱れていない。
戦闘経験を積んだ俺は、この程度の魔物では測りきれないレベルに達していた。
* * *
ウルフの死体をアイテムボックスに放り込み、さらに森の深部へと歩を進める。
しばらく進むと、先ほどの狼たちとは比べ物にならない、尋常ではないプレッシャーが肌を撫でた。
本能が警鐘を鳴らすような、圧倒的な暴力の気配が木々の奥から漂ってくる。
巨木の陰から姿を現したのは、体長二メートルを優に超える巨大な魔物だった。
全身は岩のように隆起した筋肉で覆われ、頭部には槍のように太く鋭い一本の角が生えている。
グレイト・ホーンラビット。
ルークから聞いていた上位個体の一つだ。
血走った赤い眼球が、ギョロリと俺を捉えた。
その瞬間、周囲の空気がビリビリと震えるほどの威圧感が放たれる。
俺は脳内で瞬時に現在のステータスを計算した。
俺のHPは65、耐久は14だ。
あの丸太のような前脚や、鋭利な角の突進を正面から受ければどうなるか。
新調した革の胸当てなど紙切れ同然に貫かれ、俺の身体は一撃で粉砕されるだろう。
一瞬の油断、一歩の判断ミスが即座に死に直結する絶望的な戦力差。
俺の心に恐怖が湧き上がる。
しかし、それと同時に――生存本能が極限まで刺激されることで生まれる、狂気じみた高揚感も込み上げてきた。
自身を試したいという探求心が、全身の血を沸騰させるように熱く脈打つ。
これだ。
安全で温かい村のぬるま湯では決して味わえない、命のやり取り。
俺は口角が微かに上がるのを自覚しながら、ゆっくりと『疾風の剣』の切先を巨大な獣へと向けた。
* * *
グルルァッ!
と、兎とは似ても似つかない咆哮を上げ、巨獣が地を蹴った。
凄まじい脚力によって生み出された突進は、まるで砲弾のような速度と破壊力を伴っている。
だが、真っ直ぐに向かってくる攻撃ならば対処のしようはある。
俺の敏捷は素の状態で15。
そこに『疾風の剣』と『風のマント』による補正+6が加わり、実質21に達している。
極限まで引きつけ、巨大な角が俺の鼻先を掠める直前で、バネを弾くようにサイドへ跳躍した。
凄まじい風圧が頬を打ち、巨獣の身体が俺の真横を通り過ぎていく。
「遅いな」
すれ違いの瞬間、無防備な側面に渾身の一撃を叩き込む。
硬い毛皮と筋肉に剣が弾かれそうになるが、【斬撃付与】の力で強引に肉を裂いた。
鮮血が噴き出すが、巨獣は止まらない。
木々に激突して無理やり方向転換し、再び血走った眼でこちらを睨みつけてくる。
一撃では致命傷にならない。
俺は決して深追いはせず、常に相手との間合いを一定に保ち続けた。
ヒット&アウェイ。
己の圧倒的な機動力を活かし、回避と反撃のみを徹底する。
突進を躱し、側面を斬り裂く。
これを二度、三度と冷静に繰り返す。
三撃目を食らった巨獣の動きに、明らかな陰りが見えた。
失血により体力が低下し、自慢の脚力が鈍っている。
そこを俺は見逃さない。
四度目の突進。
これまでで最も遅く、最も隙だらけの攻撃。
俺は回避するのではなく、自ら前へと踏み込んだ。
身を沈め、すれ違いざまに獣の太い首筋へと下から刃を突き入れる。
分厚い筋肉を貫き、頸動脈を完全に切断した確かな感触。
ドス黒い血が滝のように噴き出し、二メートル級の巨体が轟音を立てて大地に沈み込んだ。
ビクビクと痙攣し、やがて完全に沈黙する。
荒い息を吐きながら、俺は血振るいをして剣を鞘に収めた。
見上げるほど巨大な死体を前に、これをどう持ち帰るかなどと悩む必要はない。
「収納」
短く呟くと同時に固有スキル【アイテムボックス】を発動させる。
次の瞬間、目の前にあった巨大な死体は音もなく虚空へと吸い込まれ、完全に消失した。
この場での解体作業や運搬の手間、さらには血の匂いで他の魔物を引き寄せるリスクすらもゼロにする。
引き換えに魔力の消費と、大質量を異空間に収納しているという違和感はあるが、実用性の方がはるかに勝る。
改めて、このチートスキルの異常なまでの利便性を噛み締めた。
これほどの獲物を仕留め、無傷で回収できたのだ。今日の成果としては十分すぎるだろう。
これ以上深追いして未知の脅威に身を晒すのは、合理的な判断とは言えない。
俺は湧き上がる高揚感を冷たい理知で押さえ込み、微睡みの洞窟への未練を断ち切る。
今日はここまでだ。
確かな経験値と戦利品を胸に、俺は元来た道を辿り、オルト村への帰路についた。




