第19話 境界線を越えて
「微睡みの洞窟に挑戦する上で、用意しておいた方がいい道具はあるか?」
俺がカウンター越しに問いかけると、行商人のルークは少しだけ思案するように視線を落とし、すぐに淀みない口調で答え始めた。
「そうですね。食料に飲み水、松明にテント、魔よけの聖水に解毒草、包帯、煙幕弾にロープなどでしょうか。どれも地下の探索には欠かせない品です」
ルークの口から次々とリストアップされる物資の名前を聞きながら、俺は脳内で暗く冷たい洞窟の内部をシミュレーションしていた。
光の届かない地下空間での活動を想定するなら、彼の提示した道具はどれも必須の生存物資だ。
松明による視界確保は絶対条件であり、万が一遭難した際の食料と水は命を繋ぐ生命線となる。
魔よけの聖水や解毒草、包帯といった衛生用品も、予期せぬトラップや毒を持つ魔物との遭遇を考えれば妥協できるものではない。
撤退を余儀なくされた時のための煙幕弾や、高低差のある地形を踏破するためのロープに至るまで、どれ一つとして削れるものはないだろう。
これだけの荷物を背負い、さらに武器を持って険しいダンジョンを歩き回るとなれば、普通の冒険者ならそれだけで体力を酷使し、戦闘時の動きも著しく鈍るはずだ。
重量と体積の管理は、探索において最も頭を悩ませる死活問題と言える。
冒険者パーティを作るなら、モンスターとの戦闘を担当するアタッカーとは別に、荷運びを専門とするポーターが必要となる。
(だが、今回のダンジョン探索――その点に関しては問題ない)
俺の口元に、ほんの僅かだけ優越感に似た笑みが浮かぶ。
俺には固有スキルである【アイテムボックス】がある。
空間の制約も重量の概念も完全に無視して、あらゆる物資を無尽蔵に収納し、一瞬で取り出すことができる規格外のチート能力。
(魔力消費という大きな制約はあるが、冒険者にとってはありがたい力だ)
このスキルの存在だけで、俺の生存確率と探索の効率は、所持していない他の有象無象とは比べ物にならないほど跳ね上がるのだ。
「それと、トオルさん。もしよろしければ……防具を整えてはいかがでしょう」
俺が内心でスキルの優位性を再確認していると、ルークが俺の服装を頭からつま先まで観察しながら提案してきた。
* * *
現在の俺の装備は、『疾風の剣』と『風のマント』のみ。
マリアから提供された『村人の服』を着ているが、これには特別な補正も防御力の上昇もない。
現在の装備――機動力には優れているが、防御面に関してはただの布の服を着ているだけの軽装だ。
耐久の値が並の人間レベルの「14」しかない俺にとって、不意の一撃は即ち致命傷になり得るというリスクは、常に意識の底にあった。
「木の丸盾に革の胸当て、革のブーツに革の兜。これらの防具を装備して戦うことで、新たに【戦士】などの職業が得られるかもしれませんよ」
「本当か」
ルークから付け足されたその情報に、俺は思わず鋭い声を返していた。
「ええ。あくまで『素質のある者は』という条件付きの噂ですがね。装備の系統を揃えることで、身体がその戦い方を記憶し、新たな力が目覚めることがあるそうです」
俺はルークの言葉を脳内で反芻し、冷静にそのメリットを計算する。
単なる物理的な防御力の向上にとどまらない、システムレベルでの職業の追加・変更の可能性。
もし【戦士】というクラスを得られれば、ステータスに新たな補正がかかるか、近接戦闘に役立つスキルが派生する確率が高い。
今の【剣士】でも戦えなくはないが、この過酷な世界で生き抜くためには、手札(職業やスキルの選択肢)は一枚でも多いに越したことはないのだ。
「……悪くない提案だ。消耗品一式と、その防具を見せてくれ」
俺の即答に、バドとルークは商売人らしい嬉しそうな笑みを浮かべ、店の奥から次々と品物を運び出してきた。
* * *
カウンターの上に並べられたのは、実用性だけを重視した無骨な防具たちだった。
俺は脳内で現在の所持金――金貨二枚、銀貨二十六枚、銅貨五十枚――を正確に弾き出しながら、バドを相手に交渉を始める。
「これらをすべて、まとめ買いさせてもらおう。いくらになる」
「トオルさんには、村の窮地を救っていただいた恩がありますからな。オルト村の英雄殿から、ぼったくるわけにはいきません。まとめ買いしていただけるとのことですし――全品一割引きとさせていただきましょう」
禿げ上がった頭を撫でながら、バドが人の良さそうな笑顔でそう申し出てくれた。
称号【オルト村の英雄】による好感度補正か、あるいはまとめ買いによる純粋な値引きかは分からないが、無駄な出費を抑えられるのはありがたい。
俺は指定された額の硬貨を数えてカウンターに置き、早速購入した防具の一部を身につけることにした。
硬く鞣された革の胸当てに腕を通し、脇のバックルを締める。
獣の脂と染料が混ざったような、独特の饐えた匂いが鼻を突くが、不快ではない。
むしろ、胴体をしっかりと覆い隠すその圧迫感が、不思議な安心感を与えてくれた。
すり減ったいつもの靴から、真新しい革のブーツへと履き替える。
木の丸盾は左腕に装備し、残りの兜や細かい消耗品類は、ルークから受け取る端から【アイテムボックス】の虚空へと収納していった。
全身を鏡で確認するまでもなく、重量感のある足音と、革が擦れ合う微かな音が、俺が一回り冒険者らしくなったことを証明している。
「それでは、良い旅を。女神様の御加護があらんことを」
「ああ。世話になった」
バドとルークの温かい見送りを受け、俺は道具屋を後にした。
* * *
村の出入り口に向かって歩く俺の足取りは、不思議と軽かった。
やがて目の前に、オルト村を守る見えない境界線――女神の加護が及ぶ限界のラインが見えてくる。
俺は一度だけ立ち止まり、静かに息を吐いた。
境界線を越えた瞬間、周囲の空気が変質する。
肌を微かに刺すような、帯電した魔力の気配。
風に混じる、生い茂る木々の青臭さと、血と泥が混ざったような野生の匂い。
これが、加護の外側にある「本物の異世界」の空気だ。
台所で俺を見送るマリアの、あの琥珀色の瞳とふくよかな胸の柔らかさが、一瞬だけ脳裏をよぎる。
安全で温かい寝床と、俺に好意を向けてくれる美しい女。
男としての本能が、あの心地よい空間へ引き返せと微かに囁く。
だが、俺は歩みを止めない。
それらの未練を冷徹な理性で押し潰し、俺は『疾風の剣』の柄に手を添えた。
自分自身の限界を試し、未知の力を手に入れたいという、魂の根底にある渇望の方が遥かに強いからだ。
俺は一切の迷いを断ち切り、静かに北西の森の奥へと足を踏み出した。




