第18話 村の行商人
オルト村の朝は、ひんやりとした清浄な空気に包まれて始まる。
かまどから立ち上る微かな薪の匂いと、朝露に濡れた土の香りが鼻腔をくすぐる。
同居人であるマリアが作ってくれた温かいスープの余韻が胃袋に留まっているのを感じながら、俺は朝の冷気に満ちた村の小道を踏み締めた。
脳内で自らのステータスを呼び出す。
現在の剣士レベルは4。
HPは65、MPは35。
『疾風の剣』と『風のマント』の恩恵で敏捷には高い補正がかかっているが、基礎的な耐久は14と決して高くない。
* * *
女神の加護が及ぶこの村とその周辺は、確かに安全が保証されている。
ステータスこそ伸びてはいないが、戦闘経験を積んだことで、最初は苦戦したフォレスト・ウルフであっても危なげなく対処できるようになった。
強大な魔物が寄り付かないこの村の周囲で後れを取ることはない。
しかし、そのぬるま湯のような環境に甘んじていれば、これ以上の成長は見込めないだろう。
俺はこのまま、『オルト村の英雄』で終わる。
(悪くはないのだが、やはり――)
俺の根底にあるのは、己の能力を試し、この過酷な異世界を見て回りたいという探求心だ。
クラスメイト達は俺を見下していたが、その評価をそのまま受け入れる気はない。
自分がこの異世界でどこまでやれるのかを試したいという欲求は、おそらくそこから来ている。
当面の目標は、村の北西にある『微睡みの洞窟』の踏破である。
だが、ろくな準備もせずに未知のダンジョンへ飛び込むのは、勇気ではなくただの蛮勇に過ぎない。
まずは女神の加護が薄れる遠方まで足を延ばし、より強力な魔物――通常種よりも巨大な上位個体などと遭遇した際に、今の自分の実力が通用するかどうかを冷静にテストする必要がある。
死の危険が伴う領域での戦闘データを蓄積しなければ、ダンジョン攻略など机上の空論だ。
そのための遠征に向けた準備を整えるべく――
俺は村の商人、バドの店へと向かっていた。
* * *
村の中心部に近いバドの店に到着し、年季の入った重い木製の扉を押し開ける。
ギィ、と立て付けの悪い蝶番が軋む音とともに、店内特有の空気が肺に流れ込んできた。
古い羊皮紙の埃っぽい匂い、鈍く光る金属製品の鉄の匂い、そして乾物が放つ独特の香りが混ざり合っている。
薄暗い店内は、外の眩しい朝日とは対照的に、どこか秘密めいた静けさを保っていた。
カウンターの奥には、禿げ上がった頭頂部と手入れの行き届いていない白いあご髭が特徴のバドが立っている。
今日は珍しく、その隣にもう一人の人物の姿があった。
「おや、いらっしゃい。トオル殿」
バドが油染みのついた上質なウールの商人服を揺らしながら、人の良さそうな笑みを浮かべる。
その横に立つ青年は、日焼けした浅黒い肌に、利発そうな煤けた茶髪を持っていた。
一見すると人当たりの良い、そばかすのある顔立ちをした好青年だ。
俺は店内に足を踏み入れながら、自然な動作で彼の全身を観察し、静かに情報を分析する。
彼が羽織っている泥除けのついた厚手の革マントは、長旅の過酷さを物語るように汚れがこびりついていた。
足元の乗馬ブーツはすっかり履き潰されており、彼がどれほどの距離を移動してきたのかを如実に示している。
腰には護身用と思われる短剣が差されているが、鍔の部分は赤く錆びついており、実戦で抜かれた形跡は乏しい。
その装備の偏りから、彼が自ら最前線で戦う人間ではなく、移動と商売に特化した役回りであることが容易に推測できた。
* * *
「ルーク、行商から戻っていたのか」
俺が声をかけると、バドの甥であるルークは、人懐っこい笑みを浮かべて軽く頭を下げた。
「ええ、昨晩遅くに街から戻りました。トオルさんも、相変わらずお元気そうで何よりです」
ルークは商売柄、各地を渡り歩いて様々な情報を仕入れてくる。
彼との会話は、村に留まりがちな俺にとって、外の世界の現状を知るための貴重な情報源でもあった。
「街の様子はどうだった?」
と探りを入れると、彼は少しだけ表情を引き締め、声のトーンを落とした。
「実は、トオルさんと一緒にいらした『お仲間』たちのことで、いくつか耳に入った情報がありまして」
お仲間、という単語が出た瞬間、俺の脳裏に生々しい光景がフラッシュバックした。
右も左も分からないまま、強制的にこの世界に喚び出されたクラスメイトたちの姿。彼らは異世界転移した直後、ゲーム感覚に浮かれ、ロクな準備も覚悟もないまま、オルト村に依頼された盗賊退治へと駆り出された。
結果は惨憺たるもので、約半数が凄惨な死を遂げるという残酷な現実を突きつけられたのだ。
あの後――
俺は彼らと行動を共にせず村に残るという選択をした。
「生き残った方々は、オルト村から出た討伐報酬の金で私の馬車に乗り、最寄りの大きな町である『交易都市バザル』へと移りましたよね。今はあそこで、本格的に活動を始めているようです」
ルークの言葉によれば、生き残った佐藤翔太や木村健一といった連中が中心となり、冒険者パーティーを結成したらしい。
バザルのような大きな都市であれば、彼らのような異世界人が名を上げるには都合が良いのだろう。
「……ふむ、そうか」
俺は短く、ただ適当な相槌を打つだけに留めた。
彼らが大都市で冒険者として華々しいスタートを切ったと聞いても、俺の心には焦りも嫉妬も一切浮かばない。
他人の動向に一喜一憂するような無駄な感情は、今の俺には不必要だ。
心配もしていない。
準備不足のまま見切り発車で行動すればどうなるか、彼らはあの盗賊退治で身をもって学んだはずだ。
向こうは向こう、こっちはこっち。
俺は俺のやり方で、確実に足場を固めながら生き抜く。
ただそれだけのことだった。
俺は自身の持つ【女たらし】や【奴隷使い】といった、扱いを間違えれば身を滅ぼしかねない厄介なスキルと向き合わなければならない。
他者と群れて無闇に足並みを揃えるよりも、己のペースで慎重に手札を増やしていく方が、遥かに合理的だ。
それに、オルト村にはマリアという、手放しがたい安らぎと誘惑の象徴がいる。
彼女の放つ甘い匂いと、時折見せる計算されたような隙は、俺の理性を大いに揺さぶる。
マリアは間違いなく、俺をこの村に留める強い理由の一つになっていた。
* * *
「外の連中の話はいい。それよりも、微睡みの洞窟について聞きたいんだが」
俺が本題を切り出すと、ルークは少し驚いたように瞬きをし、やがて真剣な眼差しに変わった。
「いよいよ、あそこに挑戦なさるので? 村の北西にある、あのダンジョンに」
「ああ。クリア報酬について、改めて確認しておきたい」
俺の問いに対し、ルークは顎に手を当てて記憶を呼び起こすような仕草を見せる。マリアは詳しく知らなかったが、情報通の商人なら知っているかもしれない。
バドもカウンターの奥で、静かにこちらの会話に耳を傾けていた。
「ええ、なんでも、ステータスを底上げしてくれるお宝が手に入るとか。それと、貴重な財宝も眠っているそうです」
ルークは声を潜め、まるで秘密の取引をするかのようなトーンで話し始める。
「特に、精神力を強力に増強してくれる指輪が手に入ると言われています。ただし……」
「ただし、なんだ?」
「それらを手に入れることができるのは、人生で一度きりだそうです。それに――ダンジョンを踏破したからといって、必ず手に入るわけではない。運の悪い者は、一度も手にできないとも言われています」
人生で一度きり。
運の悪い者は手に入れられない。
その不確定な条件を聞いて、俺は脳内で自身の『幸運:10』という数値を思い浮かべた。
決して高くはないが、絶望するほど低くもない、中途半端な数値だ。
だが、ダンジョン攻略の報酬が『運しだい』だと聞くと不安になってくる。
まあ、不安ではあるが――
運が絡む要素があるからといって、挑戦を避ける理由にはならない。
この世界のアイテムボックスなどのスキルは魔力を消費して使用・発動するものだ。もしその『精神力を増強するアイテム』が魔力を底上げしてくれるものであれば……。
それは単なるステータスアップ以上の、俺にとって喉から手が出るほど欲しい恩恵だった。
リスクとリターンを天秤にかければ、圧倒的にリターンの方が勝っている。
俺の根底にある『自身を試したい』という探求心が熱を帯びて燃え上がり始めていた。
「なるほど、ステータス補正が付くアイテムは貴重品だ。冒険者が目指すわけだな――俺も試練を受けに行くとしよう」
俺がそう結論づけると、ルークは同意するように頷いた。
「ええ、トオルさんならそう言うと思っていましたよ」
「挑戦してみなければ、何も始まらないからな」
俺の言葉に迷いはない。
未知の脅威に対する恐怖よりも、現状に甘んじることへの忌避感が勝っていた。
「ですが、あの洞窟はそう甘くはありません。相応の準備が必要になります」
ルークの言う通りだ。
テスト戦闘をこなすにせよ、ダンジョンに潜るにせよ、今の軽装のままでは心許ない。
俺はバドの店内に並べられた様々な品物に視線を移し、次なるステップである『装備と物資の拡充』へと意識を研ぎ澄ませるのだった。




