第17話 二つの標的――試練の洞窟と未亡人
台所には、先ほどまでの夕食の余韻が微かに残っていた。
煮込み料理の脂の匂いと、ランプの獣脂が焦げる匂い。
そこに混ざるようにして、マリアが食器を洗う際に使う、安っぽい石鹸の泡の香りが漂ってくる。
「手伝いますよ」
俺は一声かけてから、彼女の隣へと向かう。
手持ち無沙汰を装い、洗い終わった木皿を麻布で拭き取る作業を手伝っている。
二人が並んで立つには、この家の台所はあまりにも狭すぎた。
互いの肩が、ほんの数センチの距離で触れ合いそうになっている。
水桶の中でカチャカチャと食器が鳴るたびに、マリアの身体が微かに揺れる。
その度に、彼女の波打つ亜麻色の髪が揺れ、そこから立ち上る熱を帯びた女の体温が、俺の肌へと直接伝わってきた。
至近距離から伝わってくる、生々しい女の熱。
高校三年間、誰とも関わらず、他者との距離を常に一定以上に保ち続けてきた俺にとって、それはひどく異質で、同時に脳髄を痺れさせるような感覚だった。
心臓の鼓動が、自分でも驚くほど高鳴っているのがわかる。
(落ち着け。ただ隣に立っているだけだ)
己の内側に渦巻く名状しがたい衝動を、俺は冷徹な理性の鎖で必死に押さえ込む。平静を装い、決してこの動悸を悟られないよう、極めて冷淡で事務的な声色を作り上げた。
* * *
「……先ほどの話の続きですが。この村を守っているという、女神の加護について」
俺が口を開くと、隣で皿を洗っていたマリアの手がピタリと止まる。
「ええ……『秩序と慈愛の女神』の加護のことですね」
彼女は濡れた手をエプロンで軽く拭いながら、俺の方へと顔を向けた。
至近距離で見つめ合う形になり、彼女の深い琥珀色の瞳に、ランプの炎が揺らめいているのがはっきりと見える。
俺は視線を逸らさず、淡々と質問を重ねた。
「その加護があるから、村や街道には魔物が寄り付かない。……人間にとってかなり都合の良い結界ですね」
システム的には「対モンスター専用の不可侵領域」という設定なのだろう。
人間同士の争いや、物理的な暴力そのものを無効化するほどの絶対的なルールではない。
薄暗い森での狩りを思い出しながら、脳内で情報を整理していく。
俺が本当に知りたいのは、この村の防衛システムについてではない。
「人間には無力……それはよく分かりました。では、もう一つの疑問です」
俺は手にした木皿をゆっくりと棚に置き、再びマリアへと向き直った。
「強い魔物は加護のはるか外側にいる。そして強力な魔物は、町から来た冒険者パーティのような『戦の専門家』でなければ倒せない。……ならば、なぜその冒険者たちは、わざわざこの辺境の村へとやって来るのですか?」
レベル上げだろうか?
だが、それなら町の近くでもいいだろう。
盗賊退治のクエストを受けた際、村長は確かに「冒険者の皆様」と口にしていた。
異世界から転移してきた俺たち(異物)を、この世界が受け入れた結果――つじつま合わせのように与えられた役割が冒険者だったのだろう。
この村に冒険者がやってくるのは、『無理のない設定』だ。
魔物が出ない安全な村に、戦闘を生業とする者たちが定期的に訪れる理由。
それが単なる物見遊山であるはずがない。
マリアは少しだけ躊躇うように唇を噛み、やがて静かに口を開いた。
「……それは、冒険者の方たちの目的が、森の魔物ではないからです。彼らが目指すのは、この村の北西にある場所」
「北西?」
「はい。『微睡み(まどろみ)の洞窟』と呼ばれている場所です」
彼女の声が、夜の静寂の中で僅かに震えた。
「そこは、『秩序と慈愛の女神』メルドリアス様とは対極に位置する、『混沌と試練の女神』ヘカテルケーレ様がお創りになったとされる、恐ろしい地下迷宮なのです」
地下迷宮。ダンジョン。
その単語を聞いた瞬間、俺の脳内に冷たい電流が走り抜けた。
レベルが上がりにくくなった現状を打破してくれそうな、明確な次なる舞台。
(なるほど。神が用意した試練の場か――そこを冒険者が目指す以上、目指すだけの『何か』があるのだろう)
「冒険者は何故、試練を受けに洞窟に行くのですか?」
「さあ、『お宝』があるから、としか――それ以上は、村で生きる私にはわかりません」
肝心な部分は分からなかった。
しかし探していた「次の目標」が確定したことで、俺の中で張り詰めていた思考の糸が、ふっと別の方向へと緩むのを感じた。
* * *
冒険者としての目標は定まった。
ならば、残るもう一つの問題はどうだ?
俺の視線は、無意識のうちに隣に立つマリアの身体へと向かっていた。
すぐ横顔から漂ってくる、むせ返るような甘い女の匂い。
薄い衣服越しでも分かる、ふくよかな胸の起伏と、エプロンの紐で締め付けられた細い腰。
俺の脳裏に、【鑑定】で暴き出した彼女のステータス画面がフラッシュバックする。
『好感度:80』、『隷属度:67』。
共に生活を始めて十日間。
数字は順調に微増していた。
この数字が担保する、俺に対する好意と依存。
(こちらから攻めても、許されるはず――)
確かめたい。
その強烈な衝動が、理性のタガをいとも容易く吹き飛ばしていく。
それは【女たらし】というスキルの強制力なのか、それとも俺自身が深層心理に抱えていた醜い支配欲の発露なのか。
もはや、どちらでもよかった。
彼女が押し当ててきた、胸の感触を思い出す。
あれは『わざと』だと解釈することにした。
だとすれば、お返しをせねばなるまい。
俺は濡れた手を乱暴に麻布で拭き取ると、ゆっくりと、しかし一切の躊躇なく、隣に立つマリアへと手を伸ばした。
彼女が再び水桶に手を入れる直前、俺の右手が彼女の背中に触れる。
ビクッ、とマリアの肩が大きく跳ねた。
俺はそのまま手を滑らせ、彼女の細い腰から、柔らかな臀部へと繋がる曲線の上へと指を這わせる。
粗末な布越しであっても、その下に隠された確かな肉の弾力と、異常なほどの熱気が掌に直接伝わってきた。
* * *
「っ……トオル、さま……?」
マリアの声が、小さく上擦った音を立てて空気に溶ける。
台所という逃げ場のない狭い空間で、俺の指先が彼女の肉体へと深々と沈み込んでいく。
スローモーションのように引き伸ばされた時間の中で、俺は指先にさらに強い力を込めた。
もし彼女が普通の村娘であり、俺がただの居候であるならば、迷わずビンタが飛んできてもおかしくない明確なセクシャルハラスメント。
だが、マリアは俺の手を振り払おうとはしなかった。
それどころか、彼女は手元の水桶の縁を両手で白くなるほど強く握りしめ、ただ小刻みに身体を震わせている。
俯いた彼女の横顔を覗き込むと、耳の裏側までが茹で上がったように真っ赤に染まっていた。
琥珀色の瞳は潤み、口元からは甘く熱い吐息が断続的に漏れ出している。
抵抗の意思は見られない。
ただ、押し寄せる快楽と羞恥、そして『主』である俺からの接触を、己の全てで受け入れようとしている。
(嫌がっては、いない……)
女としての純粋な本能的な反応か、それともシステムによる呪縛が彼女の理性を書き換えているのか。
確かなことはただ一つ。
この未亡人の心と身体は、すでに俺という存在に深く組み込まれつつあるということだ。
俺は確かに、彼女を『支配』している。
その圧倒的な優位性を確認した途端、俺の内で渦巻いていた黒い焦燥感が、嘘のように冷たく澄み切っていった。
俺はゆっくりと指の力を緩め、未練を残すことなく彼女の腰から手を離した。
「……教えてくれて、ありがとうございます。今日はもう、休みましょう」
突然解放されたマリアは、力が抜けたようにへたり込みそうになり、慌てて水桶に寄りかかって息を整えていた。
俺はそんな彼女の姿から目を離し、台所を後にする。
(……焦る必要はない。狩りはじっくりとするものだ。――獲物は追い詰めてから仕留めればいい。)
俺はすでに、二つの標的を見定めていた。
冒険者たちを惹き寄せる『微睡みの洞窟』。
そして、未亡人の『マリア』。
ここから先は、己の力で欲しいものを奪い取るための人生が始まる。
暗い寝室へ向かう俺の口元には、誰にも見せることのない笑みが張り付いていた。




