第2話 長閑(のどか)な世界の泥の匂い
意識が浮上する。
真っ白に染まり、重力すら消失していたはずの身体に、突如として強烈な質量がのしかかってきた。
受け身をとる暇もなく、俺の背中は硬く冷たい地面に叩きつけられていた。
最初に知覚したのは、強烈な「匂い」だった。
鼻腔を無遠慮に突き刺してくるのは、ひどく青臭い植物の匂いと、湿気を帯びたむせ返るような泥の悪臭だ。
現代社会のアスファルトや排気ガス、あるいは教室のチョークの粉が混ざった空気とは、根本的に構成物質が違う。
頬に触れる地面の感触も、ひんやりと冷たく、そしてざらついている。
肌を撫でる風は妙に澄み切っており、肺に吸い込むだけで細胞の隅々まで行き渡るような、異様なほどの清涼感があった。
それは、今ここが「夢」や「仮想現実」などではなく、圧倒的な物理法則に支配された『現実の空間』であることを、五感を通して俺の脳に直接叩き込んできた。
* * *
ゆっくりと目を開ける。
網膜を焼くような眩しい光。
見上げた先にあるのは、見慣れた教室の天井ではなく、雲一つない突き抜けるような青空だった。
慎重に上体を起こし、周囲を見渡す。
「きゃああああっ! なにここ! どこなの!?」
「おい、嘘だろ!? なんで外に……さっきまで教室にいたはずだろ!」
耳をつんざくような悲鳴と怒声が、静かな空間に波紋を広げていく。
俺の周囲では、制服姿のクラスメイトたちがパニックに陥り、右往左往していた。
周囲の風景は、どこか中世ヨーロッパを思わせるような、粗末な木造建築が並ぶ長閑な農村の広場だった。
舗装されていない土の道、石積みの井戸、そして遠くに見える深い森の稜線。
明らかな異常事態だ。
だが、俺の心臓は驚くほど平穏なリズムを刻んでいた。
冷たい土の感触を確かめるように指先を動かしながら、俺は(やはり、人生が終わったわけではなかったか)と、どこか冷めた頭で現状を分析し始めていた。
「おい、これ……もしかして、異世界転移じゃね!?」
パニックの波が頂点に達した直後――
クラスの男子の一人が、興奮で上擦った声を上げた。
その一言が、集団の空気を劇的に変えた。
「異世界? マジで? アニメとかラノベのアレかよ!」
「じゃあ、俺たち選ばれたってこと!? 勇者召喚的な!?」
恐怖と混乱は、わずか数十秒で、根拠のない万能感と熱狂へとすり替わっていく。
彼らの脳内では、すでにこの状況が『自分たちが主役のゲーム』に変換されているらしい。
ひどく滑稽だった。
この泥の匂いも、身を切るような風の冷たさも、彼らにはただの「リアルなVR表現」程度にしか感じられていないのだろうか。
生物として、これほど未知の環境に放り込まれておきながら、警戒心よりも好奇心を優先できるその思考回路が、俺には理解できなかった。
「そういうテンプレなら、絶対アレがあるはずだろ! ステータス!」
「鑑定! スキルオープン!」
誰かが叫んだ。
それに同調するように、何人かの生徒たちが空中に向かって叫び始める。
* * *
俺は声にこそ出さなかったが、頭の中で静かに(ステータス)と念じる。
直後、視界の端で何かがチカチカと明滅した。
途端に、網膜に直接投影されるような形で、半透明の光のウィンドウが浮かび上がった。
そこには、無機質な明朝体のようなフォントで、俺の個人情報が羅列されていた。
『名前:トオル・トキワ(常盤 透)』
『職業:剣士』『レベル:1』
HP、MPといった見慣れたゲーム用語の下に、詳細な数値が並んでいる。
固有スキルの欄には『【鑑定】』『【アイテムボックス】』の文字。
そして一般スキルとして『【剣術:Lv.2】』が記載されている。
これは、俺が幼い頃から道場で叩き込まれてきた剣道の経験が、この世界のシステムによって自動的にスキルとして変換・最適化された結果なのだろう。
そして、ウィンドウの一番下。
そこには『ボーナスポイント:30』という、ひときわ目を引く項目があった。
(……30ポイント。これを消費して、何かを得られるということか)
だが、俺はすぐにそのポイントを使うことはしなかった。
現状において、情報が決定的に不足している。
このポイントの価値も、何と交換すべきかも分からない状態で、軽率にリソースを吐き出すのは愚策の極みだ。
ウィンドウを視界の端に追いやり、俺は周囲の喧騒に再び意識を向ける。
* * *
「っしゃあ! 俺、『軽業師』だってよ! 俊敏性がめっちゃ高い!」
「俺も俺も! これ、スポーツやってたから反映されてんじゃね?」
広場の中心で、ひときわ大きな声を上げているのは、佐藤翔太と木村健一だった。
彼らは教室で見せていたような、周囲を見下すような余裕の笑みを浮かべ、自分たちのステータス画面を自慢げに見せ合っている。
「ちょっと待って、私『魔法使い』って書いてあるんだけど! ヤバくない!?」
それに追従するように、渡辺明楽が甲高い声を上げてはしゃいでいた。
(魔法使い、か……)
俺は少し離れた場所から、彼女たちに向けて静かに(鑑定)と念じた。
一瞬、眼球の奥が微かに熱を持ったような感覚があり、目の前に簡素なウィンドウが浮かび上がる。
佐藤や木村のステータスは、筋力や技量が軒並み『10』前後から十台前半を推移していた。
渡辺の魔力も『18』と、他の数値に比べて突出してはいるものの、全体として見ればそこまで高い数値には思えない。
俺は再び自分のステータスに目を落とす。
俺の筋力は『18』。
技量は『22』という数字を叩き出している。
彼らの数値を平均値とするならば、俺の『技量』はわずかだが一段階上にある。
圧倒的な無双ができるほどの力ではないが、このような状況下では少しでも能力の高い者が集団を率いるべきだろう。
だが、俺はこの事実を誰かに誇示しようとは思わなかった。
彼らのように目立てば、必然的に集団の中心に立たされ、他人の責任まで背負わされることになる。
団体行動で他人の不合理な感情に振り回される苦痛は、中学時代の部活で嫌というほど味わった。
俺は彼らと群れる気はない。
佐藤たちが「俺たちがこのクラスを引っ張っていくぜ!」とヒーロー気取りで騒いでいるのを、俺はただ冷徹な目で見つめていた。
彼らが陽の当たる場所で勝手に騒いでくれるなら、それは俺にとって好都合だ。
* * *
(とはいえ、この異常事態に単独行動を決め込むのもどうだ? まずは状況を把握し、必要とあれば下手に出てでも誰かと協力関係を結ぶべきか……いずれにせよ、まずは様子見だな)
その時だった。
広場の奥、村の入り口へと続く未舗装の道から、誰かがやってくる足音が聞こえた。
クラスメイトたちのざわめきが、ピタリと止まる。
現れたのは、二人だった。
一人は、長く白い髭を蓄えた、杖をつく60代ほどの老人。
もう一人は、粗末な革鎧を身にまとい、腰に使い込まれた長剣を下げた、30代ほどの屈強な男だ。
彼らの表情は、ゲームのNPCが浮かべるような歓迎の笑みなどではなかった。
老人の顔は土気色に染まり、額からは玉のような汗が流れ落ちている。
屈強な男の方も、ギリッと奥歯を噛み締め、その瞳には明確な『焦燥』と『絶望』が入り混じっていた。
男から漂ってくる、鉄の錆びたような、かすかな血の匂い。
それが俺の嗅覚を鋭く刺激し、脳内に警鐘を鳴らす。
(……さて、なにが始まるんだ)
屈強な戦士の男が、広場を見渡して声を響かせる。
「盗賊が予告した刻限が迫っております! 迎撃する準備は万全でしょうか……!」
老人が杖を取り落とし、その場に膝をつくようにして叫んだ。
「冒険者の皆様! どうか――この村をお守りください!」
老人の隣で深く頭を下げ、悲痛な声を張り上げた。
その悲鳴のような懇願が広場に響き渡った瞬間。
――ピロン、と。
俺の、いや、おそらくクラスメイト全員の脳内に、無機質で氷のように冷たい『システム音声』が直接響き渡った。
同時に、視界の中央に、警告色である赤黒いウィンドウが強制的にポップアップする。
『クエストが発生しました』
『【内容】盗賊から村を守れ』
それは、お遊びのゲームの始まりを告げる合図などではない。
血と泥に塗れた、本物の殺し合いの開幕を告げる、死の宣告だった。




