第1話 空っぽのモラトリアム、そして
秋の冷たいすきま風が、閉まりきっていない窓のサッシをすり抜けて頬を撫でた。
灰色の厚い雲が重く垂れ下がる空の下、校庭では行き場を失った枯れ葉が力なく風に舞っている。
しかし、暖房が過剰に効いた教室の中は、それとは対極にひどく息苦しい熱気に包まれていた。
「おい、そこの段ボールもっと持ってこいよ! 足りねえぞ!」
「ちょっと、ペンキこぼさないでよね! 衣装が汚れちゃったらどうすんの!」
耳障りな喧騒、笑い声、怒声、そして段ボールをカッターで切り裂く乱暴な音が、鼓膜を容赦なく叩き続ける。
高校三年生の秋。
本来なら大学受験に向けて誰もが血眼になって机に向かっている時期だが、うちのクラスでは『卒業前の最後の思い出作り』という大義名分のもと、文化祭の準備に精を出していた。
教室中が浮き足立ち、誰も彼もが無意味な熱狂に酔いしれていた。
俺――常盤 透は、その狂騒から完全に切り離された窓際の最後列で、ただぼんやりと外の景色を眺めている。
そう、俺は友達のいない奴だ。
高校三年間で、友達と呼べる相手を作ることはできなかった。
一説によると、知能の高い人間ほど孤立する傾向にあるらしい。
ネットのどこかの記事で見かけたその安っぽい言葉は、まるで自分を慰めるための都合の良い言い訳みたいだと、俺は心の中で冷たく自嘲した。
自分が特別に優秀だと思い上がりたいわけじゃないし、他者を見下すことで自己保身を図りたいわけでもない。
それどころか、自分は失敗したと思っている。
客観的な事実として、俺は生き方に失敗したのだ。
* * *
小学生の頃は、まだマシだったと記憶している。
小学三年生から始めた剣道は、完全に個人の力量と精神力が問われる世界だったからだ。――競技において、仲間との意思疎通は必要ない。
冬の道場の底冷えする床、汗と防具の入り混じった独特の匂い、竹刀が交差する鋭い破裂音。
面越しに相手と対峙している時だけは、余計なことを考えずに済んだ。
結果を出せば正当に評価され、そこに人間関係の煩わしいしがらみや、忖度は一切介入しない。
だが、中学に上がって部活という名の『団体競技』を経験したことで、俺の人生の歯車は決定的に狂い始めた。
周囲とペースを合わせるという、普通の人間なら当たり前にできることが、俺にはどうしてもできなかったのだ。
やってる感をアピールするだけの練習、好き嫌いという感情で動くチームメイト、和を乱す者を徹底的に排除しようとする村社会のような空気。
それらすべてが理解できず、ひどく息が詰まった。
他人の不合理な感情という不確定要素に振り回されるくらいなら、孤独のほうがずっと快適だった。
だから俺は、早々にコミュニケーション能力を向上させる努力を放棄した。
その結果が、これだ。
* * *
高校三年間、ただの一人も友達を作ることなく、誰ともまともな雑談すら交わさないまま、もうすぐ卒業を迎えようとしている。
教室の隅で息を潜める俺を、クラスメイトたちは透明人間か、あるいは触れてはいけない汚物のように扱っていた。
「あーあ、あっちの窓際、マジで空気悪いわ。近寄りたくねえ」
「おい、聞こえるって。やめとけよ、関わったら何されるか分かんねえぞ」
教室の中心から、わざとらしいヒソヒソ話が聞こえてくる。
声の主は、佐藤翔太と木村健一。
サッカー部とバスケ部でそれぞれレギュラーを張り、スポーツ推薦で早々に進学を決めている、このクラスのスクールカーストの頂点に君臨する『一軍』の連中だ。
彼らからすれば、一人で群れず、文化祭の準備にも一切参加しようとしない俺は『協調性のない暗い奴』であり、『一人ぼっちの弱者』以外の何者でもないのだろう。
要は、見下してもいい相手――
彼らは楽しげに笑い合いながら、時折、蔑むような視線をこちらに向けてくる。
それも仕方のないことだ。
人間の社会という動物の群れにおいて、一人でいる個体は「弱い」と本能的に判断される。
それが生物の根源に基づいた無意識の評価基準であることは、俺にも痛いほど理解できる。
* * *
苛立ちはない。怒りも湧かない。
自分よりも明らかに思考が浅く、その場の空気に流されているだけの連中に見下されているという事実は、ただの『現象』として俺の中で処理されていた。
仲間を作った方が、この人間社会では圧倒的に生きやすい。
その当たり前のルールに適応できなかった俺は、やはり生き方を誤ったのだ。
作業用のシンナーの鼻を突く匂いと、チョークの粉が舞うほこりっぽい空気。
誰かの甘ったるい安物の香水の匂いが混ざり合い、胃の奥がじわじわとむかついてくる。
早く家に帰りたいと心底思うが、ホームルームが終わるまではこの不快な空間から逃げ出すことも許されない。
文化祭が終われば、冬休みを挟んで自由登校期間に入る。
この騒がしいクラスメイトたちとも、もうすぐ永遠にお別れだ。
一応、名前を書けば入れるような底辺大学への進学を希望している。
受験に失敗することはないだろう。
だが、それは何かやりたい学問があるから選んだ道ではない。
ただ単に、社会に出て働くという現実から逃げるための、モラトリアム期間を延長したかっただけだ。
将来の夢なんてない。やりたい職業もない。
情熱を注げるものなど何一つなく、ただ無意識に呼吸をして、味のしない飯を食って、死ぬまでの時間を無為に消化していく。
空っぽで、意味のない人生しか、この先には待っていない。
ふと窓ガラスに視線を向けると、そこに自分の顔が映っていた。
感情の完全に抜け落ちた、冷たくてつまらない男の顔。
それが俺だ。
常盤透という、中身のない空虚な器だ。
(ああ、もう全部、どうでもいいな……)
心の底からそう思い、誰にも聞こえないほどの小さなため息をついた。
――その時だった。
* * *
ふと、教室の空気が異様に変わった。
先ほどまで過剰なほど暖房が効いて生暖かかった室温が、背筋が凍るほど急激に低下していく。
同時に、耳障りだった喧騒が、まるで誰かがテレビのミュートボタンを押したかのように、水を打ったように静まり返った。
「……え? なに、これ」
女子生徒の一人――
一軍グループに属する明るく快活な女子、渡辺明楽の声が、恐怖に震えていた。
俺は窓の外からゆっくりと視線を外し、彼女が見つめている教室の床へと目を向ける。
そこには、現代日本という現実では絶対にあり得ないものがあった。
教室の床一面、生徒たちの足元を覆い尽くすほどの巨大な、複雑怪奇な幾何学模様。
まるで深夜アニメやファンタジーRPGに出てくるような『魔法陣』が、血のような赤黒い光を放って、床から浮かび上がっていたのだ。
「おい、何だよこれ! ドッキリか!? 誰の仕業だよ!」
佐藤が、普段の余裕を完全に失った裏返った声で叫ぶ。
「こんなの仕掛けられるかよ!? やばいって、マジで逃げろ!」
木村が手元の段ボールを蹴り飛ばし、パニックに陥ったように後ずさりして、教室のドアへ向かって走り出す。
だが、ドアノブに勢いよく手をかけた木村は、バンバンと扉を叩きながら絶叫した。
「開かねえ! なんだよこれ、ビクともしねえぞ、どうなってんだよ!」
教室にみんないる。
鍵などかかっていないはずだ。
その悲鳴を皮切りに、教室中は阿鼻叫喚の地獄と化した。
意味不明な現象に泣き叫ぶ女子、パニックを起こして窓ガラスをパイプ椅子で叩き割ろうとする男子生徒たち。
足元の魔法陣の光は次第に強さを増し、赤黒い閃光が教室の隅々までを飲み込もうとしている。
狂乱し、泣き喚くクラスメイトたちの中で、俺だけは身動き一つせず、座ったままその光景を冷徹に観察していた。
心臓の鼓動は平常通り。
奇妙なほど恐怖はない。
ただ、目の前で起きているこの非現実的な超常現象を、極めて冷静な頭で分析しようとしている自分がいる。
立体ホログラムやプロジェクションマッピングなどの最新映像技術ではない。
床の魔法陣は明らかに物理的な熱と発光を伴っており、冷気に満ちた空間そのものを歪ませている感覚が、肌を通してビシビシと伝わってくる。
逃げ場はない。
この異常な光に飲み込まれるのは、もはや誰にも避けられない確定事項だ。
(ああ、なるほど)
俺は椅子に深く腰掛け直し、静かに目を閉じた。
不思議なほど、心は穏やかだった。
パニックに陥り、顔を歪めて無様に逃げ惑う佐藤や木村の姿が、ひどく滑稽に見える。
空っぽで、退屈で、未来に何も期待していなかった俺の人生。
それが今、この得体の知れない現象によって、強制終了させられようとしている。
(俺の退屈な人生が、ここで終わるのかもな……)
それは死への恐怖ではなく、ある種の安堵にも似た、静かな諦念だった。
魔法陣の光が限界まで膨れ上がり、視界のすべてが真っ白な光に染め上げられる。
鼓膜を突き破るような強烈な轟音が脳を揺らし、全身をジェットコースターの落下時のような、強い浮遊感が包み込んだ。
重力が完全に消失し、内臓がせり上がるような奇妙で圧倒的な感覚。
――次の瞬間、俺の知る世界のすべてが、完全に反転した。




