第15話 停滞と甘い接触
オルト村での仮初めの生活が始まり、今日でちょうど十日が経過した。
朝露に濡れた冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込みながら、俺は村の共同井戸から引き上げた重い木桶を運んでいる。
木桶からこぼれ落ちる氷のように冷たい水が足元を濡らすが、俺の身体はすでにこの単調な朝の労働に順応し、機械のように正確にこなしていた。
途中で村の外に気配を感じた。
茂みの揺れる音――
モンスターでもいるのだろう。
(村の近くまで魔物が接近するのは珍しいな)
マリアの家に戻り、台所の水がめをたっぷりと満たしてから再び外に出る。
村を囲む粗末な防壁を抜け、薄暗い森の奥深くへと足を踏み入れた。
頭上を覆う巨大な広葉樹が日光を遮り、視界は常に湿った薄緑色の不気味な影に沈み込んでいた。
鼻腔を突くのは、十日前と何一つ変わらない、倒木が腐敗していく青臭さと、湿った苔のまとわりつくような匂い。
その朝の狩りも、ひどく単調なものだった。
前方の薄暗い茂みが揺れ、乾いた枝が折れる音とともに額に一本の角を生やしたホーンラビットが姿を現した瞬間。俺は無感情なまま、腰に差した『疾風の剣』を抜き放ち、流れるような動作で最短距離の一閃を放っていた。
風の魔力を纏った不可視の刃が、ウサギの胴体を肉の抵抗すら感じさせずに容易く両断する。
生温かい血飛沫が宙に舞う前に、すでに剣の軌道を戻し、残心すら取らずに次の一歩を踏み出していた。
命のやり取りというよりは、もはや工場のライン作業のような、徹底して合理化された単調なルーティンワークだ。
「……ふう」
薄暗い森の木々を見上げながら、短く息を吐いた。
* * *
狩りの成果をアイテムボックスへ放り込んだ俺は、静寂に包まれた森の中で虚空に向けて意識を集中させ、自身のステータスウィンドウを展開した。
薄暗い森の中で、半透明の青白いインターフェースが発光し、現在の俺の能力値を淡々と表示する。
剣士レベルは『4』、そして命のやり取りを繰り返した結果――
スキルの【剣術】も『Lv.4』へと上昇している。
筋肉の連動、重心の移動、太刀筋の鋭さが日増しに洗練され、無駄な動きが削ぎ落とされていく。
しかし、ステータス画面の数値を睨みつける俺の目には、達成感ではなく明らかな焦燥の色が浮かんでいた。
この世界では、レベルが上がったからといって、筋力や敏捷といった基礎能力値が自動的に上昇するわけではないのだ。
さらに、レベルが3から4に上がるまでに要した魔物の討伐数は、1から2に上がった時の比ではなく、明らかに跳ね上がっていた。
つまり、レベルが上がるごとに要求される経験値は幾何級数的に増加しており、危険度F+のホーンラビットをいくら乱獲したところで、やがて完全な頭打ちになる。
戦闘の動きは洗練され、効率よく獲物を狩れるようにはなったが、それはただの『停滞』への入り口に過ぎない。
このままこの森で雑魚狩りを続けていても、俺の成長はいずれ止まり、ジリ貧に陥るのは火を見るより明らかだった。
俺はウィンドウを閉じ、村へと続く踏み分け道を引き返す。
村の自警団のリーダーであった戦士ガルド。
彼は常に村人たちと徒党を組んで魔物を狩っていた。
それが常識の世界において、俺が単独で戦えているのはレア装備のおかげだ。
(レア装備を増やすといっても、ボーナスポイント以外で、簡単に手に入れられる物でもないだろうし――それ以外で強くなるには、補正の付くスキルを手に入れるしかないか……)
思考の海に沈みながら村へ戻り、マリアの家の木戸を開けると、温かな煮込み料理の香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。
* * *
「あ、トオルさま! おかえりなさい!」
「ご無事で何よりです、トオルさま。今日も私たちのために……まさに、村の英雄ですね」
ナンシーが弾けるような笑顔で駆け寄ってきて俺の足に抱きつき、台所の奥からマリアが柔らかな琥珀色の瞳を細めて俺を称賛する。
死の匂いが立ち込める森とは正反対の、人間らしい温もりと安心感に満ちた空間。だが、彼女たちから向けられる無垢な称賛に対し、俺の心は決して『紳士』と呼べるような状態にはなかった。
俺の視線は、マリアの優しい微笑みではなく、エプロンの紐で背中からきつく縛られ、より強調されたふくよかな胸の膨らみへと無意識に引き寄せられている。
あるいは、かまどの火を調整するために彼女が身を屈めるたび、粗末な布越しにくっきりと浮かび上がる、肉感的なお尻のラインへと。
「……っ」
俺は自身の喉が渇いていることに気づき、慌てて視線を逸らしたが、脳裏に焼き付いたそのシルエットは容易に消えてくれなかった。
(……まったく、厄介だな)
内に渦巻く欲望に戸惑いつつも、俺はそれを【女たらし】というスキルの影響だと冷静に分析する。
この世界のシステムが俺の精神に干渉し、オスとしての衝動を強制的に増幅させているのだろう。
だが、それだけが要因ではないという自覚もあった。
俺の理性を狂わせる明確な変化が起きたのは、この村に滞在して五日目の朝のことだ。いつものように井戸から水を引き上げ、台所で待つマリアにその重い木桶を渡そうとした時のこと。
彼女は桶を受け取る際、不自然なほどに俺へと身体を寄せ、その豊かな二つの膨らみを俺の腕に押し当ててきたのだ。
薄い布越しに伝わってきた、驚くほど柔らかく、そしてずっしりとした重みのある女の肉の感触。
マリアの高い体温が肌を焦がすように伝わり、彼女の亜麻色の髪からは、朝の労働の汗と混じり合った甘い匂いが立ち上っていた。
ほんの一瞬の接触。
だが、その強烈な感触と匂いは、俺の脳髄に深く刻み込まれることとなった。
あれ以来、五日間――
あの得も言われぬ感触は、着実に俺の理性を削り続けている。
桶を受け取る際に見上げた彼女の琥珀色の瞳は、何も知らない純朴な村娘を装いながらも、明らかに俺の反応を楽しんでいるような熱を帯びていた気がする。
日常という平和な仮面の下で行われる、計算され尽くしたかのような甘い誘惑。
村一番の美人と評判のマリア。
俺から見ても魅力的な女性――そんな彼女と一つ屋根の下で暮らすうちに生まれた予期せぬ接触。それが俺に熱い葛藤をもたらしている。
無自覚な事故か、それとも意図的なものか。
あるいは、俺の持つ【女たらし】のスキルが、彼女の精神を無意識に歪めている結果なのだろうか。
答えの出ない思考を頭の片隅に追いやり、俺は下腹部に溜まる重たい熱を必死に押し殺しながら、今日も彼女の待つ温かい食卓へと向かうのだった。




