第13話 英雄の視線
鬱蒼とした暗い森を抜け、オルト村の粗末な防壁が視界に入ったとき、俺は微かに安堵の息を吐き出した。
だが、左腕から絶え間なく発せられるズキズキとした鈍痛が、決して気を抜くなと脳に警告を発し続けている。
バドの店で買った傷薬の効力により出血自体は完全に止まり、抉れた肉も塞がりつつあるが、骨の芯に響くような激痛は未だに残っていた。
村の入り口を通り抜け、俺はマリアの家へ帰る前に、バドから聞いていた解体屋の小屋へと足を向けた。
村の裏手に位置するその粗末な小屋の周辺には、強い血の匂いと獣脂の臭い、それにハエの飛ぶ羽音が立ち込めている。
木戸をノックすると、血まみれの革製前掛けをした恰幅の良い男が顔を出した。
* * *
「なんだい、兄ちゃん。たった一人で解体の依頼か?」
「……ああ」
短くそう告げる。
男の怪訝そうな視線を受け流し、俺は周囲に人がいないことを慎重に確認してから、自身のアイテムボックスにアクセスした。
微かな魔力の消費と空間の歪みを伴い、俺の足元に三匹のホーンラビットの死体がゴトリと転がり落ちる。
「なっ……!?」
解体屋の男は、目玉がこぼれ落ちそうなほど見開き、二歩、三歩と後ずさった。
「お前さん、一人でこれだけの魔物を狩ってきたってのか……!? しかも、こんなに切り口が綺麗だなんて、どうやって……」
男の驚愕はもっともな反応だ。
マリアさんから聞いた通り、この世界における魔物狩りは、複数人で罠を張り、命がけのチームプレイで行うのが絶対の常識なのだから。
それを、ついこの間まで高校生だった年齢の俺が、単独で、しかも短時間で三匹も狩ってきたのだから無理もない。
「……たまたま運が良かっただけだ。解体をお願いしたい」
俺は余計な情報を与えないよう、極めて淡々と告げた。
男はまだ信じられないといった様子で俺とウサギの死体を交互に見ていたが、やがてプロの職人の顔に戻り、手早く作業の段取りを説明してくれた。
解体にかかる手数料は、素材や肉の販売料金から相殺される仕組みらしい。
最終的な売り上げのお金は、後日、村の買い取りを担っているあの商人・バドから一括で受け取ることになるという。
「一匹だけ、夕食の肉として今すぐ急ぎで捌いてくれないか」
俺がそう頼むと、男は「ああ、任せな」と力強く頷き、見事な手捌きで解体ナイフを振るい始めた。
プロの技術は確かだった。
作業も早く、ものの数分で一匹分の新鮮なウサギ肉が皮袋に詰められた。
それを受け取り、俺は今度こそ真っ直ぐにマリアの家へと向かった。
* * *
傾きかけた夕陽が村に残る悲惨な爪痕を赤く染め、長く伸びた自分の影が、血塗られた左腕のシルエットを不気味に浮かび上がらせている。
木製の古びた扉の前に立ち、一つ深呼吸をしてから、冷たい取っ手に手をかける。
ギィ、と立て付けの悪い音を鳴らして扉を開けた。
「トオルさま……!」
「あ、トオルさま、おかえりなさい!」
部屋の中にいたマリアとナンシーが、弾かれたようにこちらを振り向いた。
だが、マリアの安堵の表情は、次の瞬間に凍りついた。
彼女の深い琥珀色の瞳が、俺の左腕に巻かれた包帯――というか、ウルフの牙に引き裂かれて赤黒く染まった服の袖に釘付けになる。
「そ、そのお怪我……! 血が、こんなに……!」
息を呑み、さあっと血の気を引かせて駆け寄ってくるマリア。
その顔には、本当の家族の身を案じるような、生々しい悲痛な色が浮かんでいた。
普通の高校生なら、ここで「心配かけてごめんなさい」とでも言い、彼女の優しさに甘えるべきなのだろう。
だが、極度の緊張状態から帰還したばかりの俺の心は、驚くほど冷え切っていた。
「気にするな。道具屋で買った薬を塗った。一晩寝れば治る程度の傷だ」
俺は極めて淡々と、感情の起伏を一切交えずにそう告げた。
実際に、傷薬の効力によって既に傷は塞がり、順調に回復しているのが分かる。
ここで大袈裟に騒ぎ立てられるのは、何だか俺が手ひどい失敗をしてきたと思われているようで、居心地の悪さを感じていた。
俺の冷たい態度に、マリアは一瞬だけ悲しそうな顔をした。
だが、「これを獲ってきた。料理してくれ」と言って、俺が右手に提げていた包み――新鮮なウサギの肉を受け取ると、「……ご無事で、本当によかったです」とだけ小さく呟き、台所へと向かっていった。
しばらくすると、家の中に肉の焼ける香ばしい匂いが漂い始めた。
マリアが畑で採ってきたばかりの根菜と、俺が持ち帰った肉を使って、手早く夕食の調理を始めているのだ。
* * *
トントン、というリズミカルな包丁の音と、鍋が煮えるコトコトという音が、静かな室内に心地よく響く。
俺は木製の椅子に腰を下ろし、わずかに痛む左腕を庇いながら、右腕で膝の上にナンシーを乗せていた。
「トオルさま、モンスター、やっつけたの?」
丸くて大きな瞳を輝かせて見上げてくる、五歳の無邪気な少女。
俺は、あの凄惨な血みどろの殺し合いや、左腕を食い破られた激痛、脳裏に焼き付く獣の断末魔を、思考の奥底へと封じ込めた。
「ああ。大きなウサギが突進してきたから、剣でえいってやって、倒したんだ」
なるべく血生臭さを排除した、絵本のような簡略化されたおとぎ話を聞かせる。
ナンシーは「すごーい!」とはしゃぎ、俺の服の裾を小さな手で強く握りしめた。
子供の体温は驚くほど高く、命の無防備な温かさが直接肌へと伝わってくるようだった。
だが、そんな疑似家族のような穏やかな空気に浸っていた俺の視界に、ふと、強烈な異物が飛び込んできた。
台所で、かまどの火力を調整するために屈み込んだ、マリアの後ろ姿。
灰色の粗末な木綿のワンピース越しでもはっきりとわかる、大人の女性の丸みを帯びた、ひどく肉感的な『お尻』のライン。
それまで意識もしていなかったはずなのに、俺の視線は強力な磁石のようにそこへ吸い寄せられ、どうやっても剥がすことができなくなった。
* * *
(なんだこれは……俺はこんなにガツガツした性格だったか?)
動悸が不快なほど激しくなる。
喉が異常に渇き、下腹部の奥底から、ドロドロとした熱い衝動が這い上がってくるのを自覚する。
布の向こう側にある柔らかな肉の感触を想像し、無意識のうちに息が荒くなっていた。
自身の異常な視線の固定と、抑えきれない性的な衝動に、俺は明確な戸惑いと恐怖を覚えた。
俺はいつだって冷徹で、理性を最優先に行動してきたはずだ。
だというのに、今の俺は発情した獣のように、未亡人の身体を視姦している。
脳裏に、自身の持つ固有スキル【女たらし】というふざけた文字が明滅した。
(ひょっとして――これはスキルの影響、いや『呪い』? ……俺の精神を蝕むバッドステータスなのか?)
無自覚のうちに自身の精神に干渉され、発情を強制されているのだとしたら、これほどおぞましいことはない。
俺はナンシーに気づかれないよう息を殺し、脳内でシステムにアクセスして自身のステータスを展開した。
* * *
虚空に浮かび上がる半透明のウィンドウ。
確認すると、今日の戦闘を経て剣士のレベルは「2」から「3」へと上昇していた。
それに伴い、ステータスに割り振れるボーナスポイントも「1」から「2」へと増加している。
また、【剣術:Lv.3】のスキルも、命のやり取りを経たことでより深く身体に馴染んでいる感覚が確かにあった。
だが、肝心の固有スキル欄を睨みつけても、【女たらし】の表記に一切の変化はない。
文字が赤く変色しているわけでもなく、精神汚染や呪いを示すような不吉なアイコンも見当たらなかった。
システム上は、俺の精神は正常であり、何の外部干渉も受けていないことになっている。
(……スキルのせいじゃない、のか)
俺は小さく息を吐き出し、再び台所へと視線を向けた。
エプロン姿で料理をする、若き未亡人の後ろ姿。波打つ亜麻色の髪から覗く、汗ばんだ白いうなじ。
(……ただ、マリアさんが魅力的なだけか)
システムに操られているのではなく、俺自身のオスとしての本能が、死線から解放されたことで暴走しているだけ。
そう結論づけることで、俺はなんとか己の理性を繋ぎ止めた。
しかし、ステータスウィンドウを閉じようとした直前、ふと、俺の脳裏に一つの冷たい思考が閃いた。
アイテムボックスは、微量ながらも魔力を消費して使用するスキルだった。
それならば、他人の情報を読み取る能力は――?
俺は腕の中で楽しそうに笑うナンシーを優しくあやしながら、意識のピントを合わせるように、料理中のマリアに向けて視線を固定した。
消費する魔力の量を意識的に調整し、より深く、より詳細な情報を対象から引き出すために。
俺は静かに、固有スキル【鑑定】の意識を集中させた。




