第12話 各個撃破
左腕から、どくどくと赤黒い血が止めどなく溢れ出している。
ウルフの牙に深く抉られた肉は無惨に裂け、力が全く入らずに、だらりと垂れ下がっていた。
痛覚が麻痺しているのは、ほんの一瞬のことだ。
アドレナリンが切れた途端、脳髄を直接ハンマーで殴られるような、あるいは焼け火箸を筋肉の奥深くにねじ込まれるような、凄まじい激痛が全身を支配し始めた。
(くそ……痛い、痛すぎる……!)
奥歯を強く噛み締め、喉から漏れ出そうになる絶叫を無理やり呑み込む。
まともに打ち合えば、確実に肉塊にされる。
負傷した片腕で、連携の取れた二匹の獣を相手にするなど、自殺行為以外の何物でもない。
俺は瞬時に状況を天秤にかけ、迷うことなく反転した。
目指すはオルト村の方向。
乱戦になり、逃走経路は開かれている。
だが、ただ無闇に逃げるわけではない。
* * *
背後からは、獲物を逃すまいと地を蹴る、二匹のフォレストウルフの猛烈な足音が迫ってきている。
獣特有の荒い息遣いと、血の匂いに狂喜するような低く濁った唸り声が、すぐ背中の後ろにまで張り付いていた。
だが、俺の頭脳は、燃え盛るような激痛の中にあっても、氷のように冷徹に機能し続けていた。
平和な現代日本から放り出されたばかりのクラスメイトたちなら、ここで恐怖に顔を引きつらせ、泣き喚きながら無様に戦意を喪失し、正面から喉笛を食い破られていただろう。
だが俺は違う。
走りながら、背後の気配を極限まで分析する。
(二匹の足音に、わずかなズレがある……)
一匹は、先ほど俺が岩に頭部を三度叩きつけた個体だ。
頭蓋にヒビが入るほどの衝撃を受けたそいつは、脳震盪を起こしているのか、わずかに足元がふらつき、本来のトップスピードを出せていない。
一方で、無傷のもう一匹は、凄まじい速度で距離を詰めてきている。
(頭を岩に叩きつけたのに死なないとは――斬撃付与の剣でなければ一撃必殺とはいかないか……。だが、与えたダメージは確実に敵の身体能力を削っている)
そこに、致命的な『速度差』が生じていた。
俺には、【風のマント】と【疾風の剣】という、ステータスを底上げする強力な装備がある。二つの装備のステータス補正によって、俺の【敏捷】の数値は「21」にまで押し上げられていた。
風が身体を押し出すように吹き抜け、足取りは驚くほど軽く、そして速い。
(ただ逃げ切るのではない。この速度差を利用して、敵の連携にくさびを打ち……各個撃破する)
冷たい計算式が、脳内に組み上がっていく。
* * *
俺はあえて全力を出さず、ウルフたちが「追いつける」と錯覚するギリギリの速度を維持しながら、森の中を駆け抜けた。
飛び交う木々の枝を避け、苔むした岩を蹴り、腐葉土を巻き上げながら、最適な『狩場』を探す。
三十秒ほど走っただろうか。
背後の気配が、完全に二つへと分断されたことを、研ぎ澄まされた感覚が捉えた。
無傷のウルフが先行し、脳震盪のウルフが大きく遅れをとっている。
その距離、およそ十メートル。
連携を取るには遠すぎる、決定的な付け入る隙。
(俺が腕をかまれていた時、もう一匹はかさにかかって攻めてこなかった。右手に握りしめた『疾風の剣』を警戒してのことだろう。だが今は血の匂いで興奮し、我を忘れている。――ここだ……!)
俺は地面に深く右足を突き立て、スパイクのように腐葉土を抉りながら急停止した。
凄まじい慣性が身体を前へ放り出そうとするが、卓越した技量でそれを強引に制御する。
ブレーキをかけると同時に、反転。
視界の先には、急停止した俺の意図を理解できず、そのままの勢いで突っ込んでくる無傷のウルフの姿があった。
獣の目は、獲物を仕留めたという確信に満ちている。
だが、お前が追いついたんじゃない。
俺が、お前をここまで誘い込んだんだ。
* * *
ウルフが跳躍し、鋭い牙を剥き出しにして俺の喉元へと迫る。
俺は血まみれになってぶら下がる左腕の存在を無視し、右腕一本で『疾風の剣』を真横に薙ぎ払った。
片腕の不完全なスイングであっても、剣に常時宿る【斬撃付与】の威力は決して減衰しない。
ヒュンッ、と風を切る高い音と共に、不可視の刃が空間ごと断ち切るように走る。
空中にいたウルフには、それを躱す術はなかった。
手応えは、やはり紙を裂くように軽い。
直後、フォレストウルフの巨大な頭部が胴体から真っ二つに分断され、血しぶきを上げながら俺の足元へ転がり落ちた。
ドサリと、首を失った巨大な胴体が少し離れた地面に叩きつけられる。
一匹目、完了。
俺は息をつく間もなく、剣の血糊を払い、再び構えを取った。
遅れてやってきた二匹目――岩に頭をぶつけていた脳震盪の個体が、仲間の無惨な死体を見て、一瞬だけ足を止める。
獣の目に、『恐怖』と『戸惑い』が同時に浮かぶのを、俺は見逃さなかった。
「村の近くまで、お前らを引き連れて行くわけにはいかないからな」
低い声で呟きながら、俺の方から一歩踏み込む。
怯んだウルフが、慌てて背を向けて逃げようとしたが、もう遅い。
俺の敏捷が、逃げる獣の背中を容易く捉える。
完全に動きを予測し、ウルフの首の後ろ、脊髄のあたりを目掛けて、冷徹に刃を突き立てた。
斬撃付与の暴風が肉の内部で破裂し、ウルフの身体がビクンと大きく跳ねた後、完全に沈黙した。
これで、三匹すべてを処理した。
すべては俺の頭脳が描いた、冷たい計算通りだ。
* * *
「……ふぅっ」
戦闘が完全に終了したことを確認し、俺は大きく息を吐き出して、その場に片膝をついた。
途端に、抑え込んでいた左腕の激痛が、再び津波のように押し寄せてくる。
「いっ……てぇ……っ、くそが……!」
額からどっと冷や汗が吹き出し、視界がチカチカと明滅する。
急いで治療しなければ、出血多量で意識を失うか、血の匂いに引き寄せられた別の魔物に襲撃される。
俺は剣を地面に突き立て、震える右手でアイテムボックスからバドの店で買った『傷薬(塗り薬)』を取り出した。
魔力を僅かに消費する感覚が胸をよぎるが、今はそれどころではない。
蓋を口で咥えて開け、粘り気のある乳白色の軟膏を、肉が抉れた左腕の傷口に直接たっぷりと塗りたくる。
「ぐあぁっ……!!」
傷口に火を押し当てられたような、肉が焼ける凄まじい痛みが走り、思わず声が漏れた。
だが、異世界の薬草の力は絶大だった。
ジュウジュウという微かな音と共に、傷口の肉が急激に盛り上がり、数秒のうちに出血が完全に止まったのだ。
痛みはまだ酷く残っているし、完治には程遠いが、少なくとも命の危機と腕を失うリスクは去った。
(一晩寝れば、ある程度は動かせるようになるはずだ……)
荒い呼吸を整えながら、俺は立ち上がる。
ウルフの死体をアイテムボックスに回収しようかと考えたが、三匹の巨体を入れるとなると、かなりの魔力を持っていかれる。
それに毛皮や牙に使い道はあっても、解体費用と相殺されるため、店で値が付くような魔物ではない。
今の疲労しきった状態で、ガス欠を起こすのは危険すぎた。
(持って帰るのは諦めよう。今はとにかく、安全な村に戻ることが最優先だ)
俺は周囲への警戒を怠らず、足早にオルト村への帰路を急いだ。
* * *
しばらく歩き、村の防壁が木々の隙間から見え始めた頃だった。
俺の進路上を、ゆっくりと這いずるように移動する小さな影があった。
体長三十センチほどの、緑色の粘体。
【グリーンスライム(危険度:F)】だ。
人間を積極的に襲うような危険な魔物ではない。
ただの害獣だ。
無視して通り過ぎてもいいが、左腕の痛みと、ウルフの群れにしてやられたことへの苛立ちが、俺の中に黒い感情を渦巻かせていた。
「……邪魔だ」
八つ当たり気味に、俺は右手の剣を軽く一振りした。
斬撃付与の風が、スライムの柔らかい身体をあっさりと両断する。
ピクピクと痙攣した後、スライムはただのドロドロとした緑色の液体の塊へと変わった。
そのまま通り過ぎようとした俺の脳裏に、ふと、朝の出来事が鮮明に蘇ってきた。
『グリーンスライムは、倒した後すぐに採取すると……避妊具として利用できます』
マリアさんの、甘く、熱っぽく、それでいて生々しい吐息が耳元を掠めたような錯覚に陥る。
俺は思わず足を止め、動かなくなった粘体を見下ろした。
(……避妊具、か)
童貞の高校生である俺にとって、それはひどく縁遠く、同時にひどく生々しい単語だった。
こんなドロドロの液体を、どうやってそんな用途に使うというのか。
現代日本の知識と、この異世界の常識が激しく衝突し、俺の心に微妙な割り切れなさを生み出していた。
だが、次の瞬間、俺はアイテムボックスから『空き瓶』を一つ取り出していた。
バドの店で、おまけとして貰ったあの瓶だ。
(何が起こるか分からないのが、この世界だ。使える知識とアイテムは、なんだって確保しておくべきだろう)
俺は冷徹な生存戦略を言い訳にして、しゃがみ込んだ。
そして、少しだけ顔を熱くしながら、動かなくなったスライムの緑色の液体をすくい取り、冷ややかに瓶の中へと採取していった。
瓶を満たしたその液体は、光の加減で妙に生々しい艶を帯びているように見えた。
蓋をしっかりと閉め、再びアイテムボックスへと収納する。
(……さっさと帰ろう)
左腕の鈍い痛みと、胸の中に巣食う得体の知れないモヤモヤとした感情を抱えたまま、俺は逃げるようにオルト村の門へと向かって歩き出した。




