第11話 初狩り
村を囲む防壁を抜けると、世界から人の気配が完全に消失した。
立ち並ぶ巨木が日光を遮り、視界全体が湿った薄緑色の影に沈んでいる。
足元を踏みしめるたび、足裏から腐葉土の柔らかい感触と、湿った苔の冷気、そして倒木が腐敗していく独特の青臭い匂いが鼻腔を突く。
風が木々を揺らすサワサワという葉擦れの音だけが、不気味なほど鮮明に鼓膜を叩いていた。
(……静かすぎる)
俺は歩みを進めながら、意識を五感の隅々にまで張り巡らせていた。
小学生時代、剣道部の道場で相手の間合いを測り、竹刀の先から伝わる微細な空気の揺れを感知していた感覚が、ここでは何倍もの密度で要求される。
だが、今の俺の身体能力は、あの頃とは根本から異なっていた。
羽織っている『風のマント』と、腰に差した『疾風の剣』。
二つの装備から全身へと流れ込んでくる不可視の能力補正が、俺の【敏捷】の値を「15」から「21」へと跳ね上げている。
地面を蹴る足取りは驚くほど軽く、まるで重力が半分になったかのような錯覚さえ覚える。
筋肉の連動、視界のフレームレート、思考の処理速度――
そのすべてが加速し、世界がわずかに遅く流れているように感じられた。
* * *
ガサリ、と前方の茂みが揺れた。
乾いた枝が折れる音。俺は即座に足を止め、身体の重心を低く落とした。
茂みを押し分けて姿を現したのは、体長四十センチほどの小動物だった。
額の中央に、鋭く尖った一本の小さな角が生えている。
【ホーンラビット(危険度:F+)】
『鑑定』を使うまでもなく、マリアさんから聞いた特徴と合致した。
丸い瞳で俺を捉えたウサギは、短い前脚で地面を叩くと、一瞬で弾け飛ぶように突進してきた。
額の角が、暗い森の中で鈍い光を放つ。
普通の人間であれば、その予備動作のない速度に反応できず、足を角で穿たれるのだろう。
だが、敏捷21の俺の視界には、その突進がまるでスローモーションのコマ送りのように映っていた。
俺は呼吸を整え、ウサギが間合いに入り切る直前まで引きつけた。
右手に握りしめた『疾風の剣』を、最小限の軌道で横一文字に振るう。
――手応えが、ない。
肉や骨を断ち切る感触すらなく、刀身はただ空を斬ったように滑らかに振り抜かれた。
次の瞬間、ウサギの胴体から鮮血が噴出し、前後真っ二つに裂けて地面へと転がった。
剣の刀身が触れるよりも早く、常時発動している【斬撃付与】の風の刃が、敵の肉体を容易く断ち切ったのだ。
* * *
「……魔物相手でも、この威力か」
動かなくなったウサギを見下ろし、俺は冷静にその死感を観察した。
止めに喉元へ浅く突きを繰り出してみると、刀身の先端から圧縮された風が破裂するように吹き出し、刃の幅以上の巨大な風穴が肉体に開いた。
単なる刃物の斬撃ではない。
魔力が空気を超音波レベルで圧縮・破裂させる、科学的な破壊機構に近い。
(恐ろしい兵器だな。だが、仕組みさえ理解すれば扱いに戸惑うことはない)
俺は手早くウサギの死体を検分し、アイテムボックスへと収納した。
胸の奥で、微かに魔力が吸い取られる感覚がある。
先ほどバドの店で聞いた通り、ボックスの使用は俺のMPを削っていく。
計算を誤れば、戦闘中にガス欠を起こすリスクがあることを脳内に強く再確認する。
* * *
その後も俺は慎重に森を捜索し、同様のパターンでさらに二匹のホーンラビットを狩った。
【斬撃付与】と高められた【敏捷】の組み合わせは凶悪で、単体で出現するFランクモンスターなど、もはや俺の練習台にしかならなかった。
(肉と角、それに毛皮が三匹分。これならマリアさんたちへの食料としても、換金用としても十分な成果だ……)
血の匂いが森に漂う前に、引き上げるべきだと判断した。
「そろそろ、戻るか」
俺が踵を返し、村へと続く踏み固められた踏み分け道へ足を踏み出そうとした、その瞬間――。
周囲の空気が、凍りつくように一変した。
小鳥たちのさえずりが完全に途絶え、森全体が死んだような静寂に包まれる。
* * *
粘りつくような、濃密な殺気。
背筋の毛羽立ちとともに、俺は無意識のうちに剣の柄を固く握り直していた。
前方の木々の隙間から、灰色と黒の斑模様をした巨大な影が、ぬっと姿を現した。
鋭い黄色の瞳、剥き出しにされた白く湿った狂犬病めいた牙、そして低く地響きのように鳴り響く威嚇の唸り声。
【フォレストウルフ(危険度:E)】
一匹だけではない。
その左右の茂みが揺れ、さらに二匹の狼が俺を挟み込むように姿を現した。
合計三匹。
(……やられた)
俺は背中に冷や汗が伝落ちるのを感じながら、舌を巻いた。
こいつらは、俺がホーンラビットを狩っていた時から、ずっと遠巻きに俺の行動を観察していたのだ。
そして、目的を達成して村へ帰ろうとするタイミングを見計らい、あらかじめ俺の進路に「回り込んで待ち伏せ」していた。
ただの野獣ではない。
獲物の動線を予測し、疲弊して住みかへ戻ろうとする進路を塞ぐ――
極めて合理的な、集団戦術だった。
* * *
(獣の分際で、クラスメイトの佐藤や木村より遥かに頭が回るじゃないか)
己の不覚を冷徹に分析しながらも、脳の芯が熱く冴え渡っていく。
逃げ場はない。
背後は鬱蒼とした深林、逃げれば村から遠ざかってしまう。
左右は入り込めない藪。
三匹のウルフは、寸分の隙もない三角形の包囲網を形成しながら、じりじりと間合いを詰めてくる。
「……来るなら、来い」
俺は剣を構え、最も体躯の大きい中央の個体に視線を固定した。
先に動いたのは、中央のウルフだった。
地を蹴り、弾丸のような速度で俺の喉首めがけて跳びかかってくる。
敏捷21の反射神経が、即座に連動する。
俺は一歩踏み込み、右下からすくい上げるような切り上げの一閃を放った。
【斬撃付与】の風の刃が空気を切り裂き、跳びかかってきたウルフの喉笛を、顎ごと綺麗に切断する。
鮮血の雨が舞い、絶命した一匹目が地面に激しく落とし込まれた。
手応え――
しかし、その瞬間に俺は己の決定的な誤算に気づいた。
一匹目の突進は、ただの「囮」だったのだ。
首を跳ね飛ばされた一匹目の影に隠れるようにして、死角である俺の左側から、第二の影が弾丸のように肉薄していた。
一匹目の死体に視線を奪われた、ほんの一瞬の隙。
「しまっ――」
叫ぶ間すらなかった。
ガチリ、と生々しい肉の裂ける音が、俺の腕から響いた。
フォレストウルフの狂暴な牙が、防具のない左腕へ深々と突き刺さる。
「ぐああああっ!?」
視界が真っ赤に染まるほどの、経験したことのない痛撃が脳髄を突き抜けた。
鋭い牙が皮膚を破り、筋肉を噛みちぎり、腕の骨にまで食い込もうとガチガチと不快な音を立てる。
熱い血液が噴き出し、腕全体が万力で押し潰されるような激痛が、俺の理性を焼き切ろうとしていた。
ウルフは噛みついたまま頭部を激しく振り回し、俺の肉を削ぎ落とそうと引きちぎりにかかる。
立っていられないほどの激痛と衝撃。
「くそがぁぁぁっ!」
バランスを崩し倒れ込む俺は、なりふり構わず左腕にぶら下がるウルフの頭部を、すぐ横にあった巨岩の表面へと叩きつけた。
ドカッ、という鈍い破砕音。
一度では足りず、二度、三度と、己の左腕の骨が折れるリスクも顧みず、全力でウルフの頭を岩に叩きつけ続ける。
三度目の衝撃で、グシャリという嫌な手応えとともにウルフの噛みつく力が緩んだ。
俺は血みどろになった左腕を強引に引き抜き、ウルフの体を蹴り飛ばした。
だらりと垂れ下がる左腕。
袖口は破れ、赤黒い肉が露出し、大量の血が地面の苔を赤く染めていく。激痛で腕の感覚が麻痺し、指一本動かすことができない。
息を荒らげ、膝を折りそうになりながら視線を上げると――
そこには、まだ無傷の第三のウルフが、血の匂いに歓喜するように黄色い瞳をギラつかせ、低く唸りを上げながら次の間合いを詰めてきていた。
片腕が潰れた状態で、俺は冷や汗と血に塗れながら、反対方向へと走り出した。




