第9話 生々しい生活の知恵
木の扉の冷たい真鍮の取っ手に手をかけたところで、俺はふと足を止め、ゆっくりと振り返った。
背後では、マリアさんが木製のテーブルの上に残った朝食の食器を手際よく片付けている。
その横では、五歳になる赤髪のナンシーちゃんが、木切れで作られた素朴な人形を使って一人遊びに夢中になっていた。
「えい、やぁ。わるいモンスターめ」
という無邪気な声が、静かな室内に響く。
平和な情景だ。
血と泥に塗れた防衛戦の惨状や、昨日まで広場にあった無数の死体が、まるで別世界の出来事のように錯覚させられる。
だが、この擬似的な家族のような居心地の良さに、思考を溶かされて甘え続けるわけにはいかない。
俺は村の英雄として、ただで泊めてもらっているが、ガルドという大黒柱を失ったこの家の経済的な負担になり続けるのは心苦しい。
だからこそ、こちらから申し出る必要があった。
まずは相場を聞いておこう。
「マリアさん、家を出る前に一つ聞いておきたいんですが」
俺が静かな声で問いかけると、彼女は食器を重ねる手を止め、深い琥珀色の瞳をこちらへ向けた。
「先ほど、魔物を狩るという話をしましたが、倒した魔物の素材や肉は、この村でどの程度の値段で換金できるのでしょうか」
戦いには常に死のリスクが伴う。
己の命をチップにして得たリターンが、この世界でどの程度の金銭的価値を持つのか――正確な相場を知っておく必要があった。
「獲物の販売ですか、それなら……村には解体を専門にしている業者がいますので、そこに持っていけば手数料を差し引いた金額を、バドさんのお店で受け取ることができます」
バドさんというのは、この村の商店の店主の名前だ。
マリアさんは少し小首を傾げながら、村の経済の仕組みを丁寧に教えてくれた。
「例えば、ホーンラビットのような魔物であれば、お肉や角の状態で銅貨数枚から。丸ごとで状態が良ければ、銀貨に届くこともあります」
銀貨と銅貨か。
マリアさんや村人たちから聞いた話で、おおよその貨幣価値は把握できている。
鉄貨(穴あき)約10円、銅貨=100円、銀貨=1,000円、金貨=10,000円。
さらに、大銀貨は約5,000円、大金貨は約10万円ほどになるらしい。
命がけで倒した魔物の価格が、よくて1,000円か……。
俺のアイテムボックスには『金貨三枚』が入っている。
財政状況は、ある程度ゆとりがあると言っていい。
それならば、この家に世話になっている借りは、早めに返しておいた方がいいだろう。
「分かりました。もし森で上手く魔物を狩れたら、その肉や、売って得たお金をこの家に持ってきますね」
俺が淡々と告げると、マリアさんは一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから少し困ったような表情を浮かべた。
「そんな、トオルさまには村を救っていただいた恩があります。英雄からお金を受け取るわけには……」
「俺がそうしたいんです。この先、何日世話になるか分かりませんし、お互いに気兼ねなく過ごすための、最低限の対価だと思ってください」
ゲームのようなシステムが支配するこの世界。
俺が強要しているわけではなく、称号が影響しているのだろうが、相手の好意でただで宿泊させてもらっていることに変わりはない。
だが、それでも――
この家に負担を背負わせたまま居座るのは、どうにも居心地が悪い。
俺が有無を言わさぬ冷徹なトーンで告げると、彼女はふっと肩の力を抜き、長い睫毛を伏せた。
やがて、その白い頬に微かな朱を散らしながら、「……ええ。助かりますわ」と、ふんわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
その笑顔には、凄惨な事件を生き延びた未亡人としての陰りの中に、どこか少女のような無防備な依存心が混じっているように見えた。
* * *
俺は短く頷き、今度こその村の商店へと向かうべく、再び冷たい扉の取っ手へと向き直った。
「……待って! お待ちください、トオルさま」
不意に、背後から切迫したような声が響いた。
振り返るよりも早く、背後に衣擦れの音が近づいてくる。
ナンシーちゃんが木の人形同士をぶつけて遊ぶ音に紛れるような、驚くほど静かで、素早い足取りだった。
気がつけば、俺のすぐ真後ろ、背中が触れ合いそうなほどの至近距離に彼女は立っていた。
振り向こうとした俺の右肩に、彼女の細く白い手がそっと置かれる。
「マリアさん……?」
「しっ……」
彼女の顔が、俺の耳元へと静かに、そして滑るように近づいてくる。
視界の端に、波打つ亜麻色の髪が揺れるのが見えた。
同時に、ひどく甘く、それでいて生々しい匂いが俺の鼻腔を真っ直ぐに貫いた。
石鹸や香水のような作られた香りではない。
かまどの微かな煙の匂いと、生活の汗、そして何より、大人の女性特有の、熟れた果実のような濃密な体臭が混ざり合った匂い。
思わず息を呑む。
彼女の熱い吐息が、俺の耳たぶを直接撫でるほどに近い距離。
心臓の鼓動が、理性を裏切って不快なほどに跳ね上がる。
「……グリーンスライムは、倒した後、すぐにその液体を採取すると……『避妊具』として利用できます」
耳の奥に流れ込んできたのは、予想だにしなかった極めて実用的で、粘り気のある生々しい言葉だった。
俺の思考が、一瞬だけ完全にフリーズする。
「えっ……」
「ですから……道具屋で、空き瓶を購入して、大切に保管しておいてくださいね」
マリアさんの吐息は、俺の鼓膜を震わせ、そこから背筋へと微かな熱を帯びた電流を走らせた。
五歳の娘には絶対に聞かせられない、この世界の生々しい性の知恵。
魔物の体液をそんな用途に使うという発想自体が、現代日本で平和に暮らしていた高校生の常識を根底から破壊するものだった。
だが、それ以上に俺の脳髄を混乱させたのは、なぜ彼女が、今日初めて魔物狩りに出る素性の知れない冒険者に対して、わざわざそんな『夜の知識』を耳打ちしてきたのかということだ。
(ひょっとして、この世界では冒険者が避妊具を持ち歩くのは、剣を研いだりポーションを買うのと同じくらい当たり前の常識なのか……?)
あるいは、もっと別の意図があるのか。
振り返って彼女の表情を確認しようとしたが、耳元にある柔らかな熱源と、肩に置かれた手の感触のせいで、身体が金縛りに遭ったようにうまく動かない。
「は、はい……」
俺の口から出たのは、冷徹な分析とは程遠い、ただの動揺しきった少年の掠れた声だった。
急速に赤く染まり始めた己の顔を隠すように、俺は逃げるように扉を押し開けた。
「いってらっしゃいませ、トオルさま」
背後から掛けられたその声が、どんな艶を帯びた表情で紡がれたものなのか、俺には確認する勇気がなかった。
* * *
冷たい朝の空気が容赦なく頬を打つ。
外に出た俺は、荒くなった呼吸を整えるように、肺の奥まで深く、何度も深呼吸を繰り返した。
心臓が、未だに嫌なリズムで警鐘を鳴らしている。
ただの村の常識を教えてくれただけだ。
そう論理的に自分に言い聞かせようとするが、どうしても割り切れない感情が泥のように思考の底に沈殿していく。
(なんだ、さっきのあの異常な距離感は……。ひょっとして、俺が持つ【女たらし】というスキルの影響なのか?)
ステータス画面に刻まれていた、あのふざけた名前の固有スキル。
あれがもし、無自覚のうちに周囲の女性の精神に何らかの干渉を引き起こし、好意や依存を強制する呪いのようなものだとしたら。
それは、酷く気味が悪く、同時に――
暗い背徳感を伴う恐ろしい推測だった。
歩きながら視線を巡らせると、村のあちこちにはまだ破壊の爪痕が生々しく残されていた。乱暴に踏み荒らされた畑、そして、身内を失い虚ろな目で宙を見つめている村人たちの姿。
この世界には、日本の高校生が夢見るような、華やかで都合の良いファンタジーなど存在しない。
あるのは、圧倒的な暴力と、その日を生き延びるための泥臭い生活、そして人間の奥底に潜む生々しい欲望だけだ。
俺はその現実を、誰よりも冷徹に受け入れているつもりだった。
しかし、先ほどのマリアさんの行動は、俺の想定する『合理的な村人の行動』の範疇を完全に逸脱していた。
恩人に対する感謝?
それだけで、大人の女性があんなにも無防備に、肌が触れ合う距離で夜の秘め事を口にするだろうか。
(……いや、考えるのはよそう。今は目の前の生存確率を上げることが最優先だ)
答えの出ない問いを脳の片隅に押し込み、俺は『疾風の剣』の柄に触れて冷たい金属の感触を確かめた。
頭の中を駆け巡る不可解な疑問と、耳元にこびりついて離れないマリアさんの熱い吐息の感触を振り払うように、俺は足早に歩き出した。
向かう先は、村の商店。
ポーションと、傷薬。
そして――未亡人に言われた通り、『空き瓶』を買うために。
泥にまみれたオルト村の道を歩きながら、俺は改めてこの異世界の底知れぬ生々しさと、己の身に宿る力の不気味さを、じっとりと冷えた汗と共に噛み締めていた。




