第8話 英雄の居場所
この世界に転移してから、四度目の朝が訪れた。
冷たい夜気が引いていくオルト村の空気は、相変わらず重く澱みきっている。
広場の土に染み込んだ赤黒い血痕は、乾燥して随分と色が薄くなったものの、村全体を覆うむせ返るような死の臭いと鉄のにおいは、いまだに鼻腔の奥にこびりついて離れない。
静寂が鼓膜を打つ。
盗賊たちの襲撃による心理的な影響は、いまだに村人たちに残っていた。
生き残った村人たちは、まるで嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように、固く扉を閉ざして用心を怠らない。
* * *
俺は今、村の戦士であったガルドの家に滞在させてもらっている。
クラスメイトたち――佐藤や木村といった連中は、昨日のうちに村の生き残りと共に、近隣の大きな町である『バザル』へと逃げるように出立していった。
彼らと共に町へ向かうという選択肢は、一瞬たりとも存在しなかった。
憎しみの目を向けてくる彼らと行動を共にすることは、物理的な死よりも恐ろしい精神的な摩耗を意味するからだ。
あの凄惨な防衛戦の直後から、半狂乱になり、仲間が内臓をぶちまけて死んでいくのをただ見ているしかできなかった彼らにとって、無傷で何人もの盗賊を惨殺してみせた俺の存在は、強烈な『認知不協和』を引き起こす劇薬でしかなかった。
「なぜ、お前みたいな陰キャが」
「どうして、お前なんかに助けられなきゃいけないんだ」
声に出さずとも、彼らの怯えと憎悪が混ざり合った濁った瞳は、雄弁にそう語っていた。
自分たちの無力さと、ゲーム感覚で命を散らした浅はかさを直視できない彼らは、その強烈なストレスの矛先を、異物である俺への忌避感へと変換することで精神の崩壊を防ごうとしていた。
滑稽で、酷く人間らしい防衛本能だ。
そんな連中の群れに混ざって町へ移動するなど、サンドバッグになることを志願するようなものだ。
だから俺は村に残った。
精神的な安定を最優先した、極めて合理的で冷徹な選択だった。
* * *
「トオルさま、朝食の準備ができましたよ」
思考の海に沈んでいた俺の意識を、柔らかく落ち着いた声が現実に引き戻す。
振り返ると、粗末な木製のテーブルの上に、湯気を立てる木の実と野菜のスープ、そして少し硬そうな麦パンが並べられていた。
部屋の中を満たす、焦げた小麦の素朴な匂いと、微かな塩気の香りが、俺の胃袋を静かに刺激する。
声の主は、マリアさんだ。
波打つ亜麻色の髪を後ろで緩く三つ編みに結わいた彼女は、深い琥珀色の瞳で俺を見つめ、静かに微笑んでいた。
灰色の木綿のワンピースに包まれたその細い体躯からは、未亡人となってしまった心痛と疲労が確かに滲み出ている。
だが、娘を守らなければならないという母としての本能が、彼女をかろうじて立たせているようだった。
「……ありがとうございます」
俺は短く礼を言い、木製の椅子に腰を下ろした。
隣には、父親譲りの燃えるような赤髪をショートカットにした五歳の娘、ナンシーちゃんが座っている。
彼女は大きな琥珀色の瞳を瞬かせながら、木のスプーンを小さな両手でしっかりと握りしめていた。
俺は温かいスープを一口、口に含む。
野菜の甘みと、わずかな獣肉の出汁が、冷え切っていた胃の腑へとゆっくりと染み渡っていく。
平和な現代日本の、化学調味料で味付けされた豊かな食卓とは比べるべくもない、薄味で粗末な料理だ。
だが、舌の裏側から脳髄へと直接響くような『生きている実感』が、そこには確かにあった。
血と泥に塗れた命のやり取りを経て、俺の五感は異常なほどに研ぎ澄まされている。熱いものを熱いと感じ、美味いものを美味いと感じる。
ただそれだけのことが、奇跡のように思えた。
「マリアさん」
俺はパンをちぎってスープに浸しながら、ふと、これからの行動について切り出した。
「この辺りの森に出るモンスターについて、少し教えてくれませんか」
* * *
ここで無為に時間を潰す気はない。
この異世界で一人で生き抜いていくと決めた以上、自分の戦闘能力と、この世界の生態系を正確に把握しておく必要がある。
まずは情報収集だ。
俺の問いかけに、マリアさんは少しだけ目を丸くした後、すぐに安心したような、すがるような表情を浮かべた。
「まあ……。トオルさまが、森の魔物退治をしてくださるのですか? それは、とても頼もしいですわ」
「トオルさま、モンスターと戦えるの? すごーい!」
マリアさんの言葉に重なるように、ナンシーちゃんが無邪気な声を上げて俺を見つめてくる。
その純粋な尊敬の眼差しは、普通の高校生であれば自己顕示欲を満たされ、いい気分になるものなのだろう。
俺も例にもれず、柄にもなく心が浮ついてしまっていた。
「……ええ。少し、ここで冒険者として活動しておこうかと思いまして」
適当な建前を並べながら、俺はマリアさんの説明に耳を傾けた。
彼女の口から語られる魔物の生態と、この世界の『常識』は、俺の想像以上にシビアなものだった。
* * *
「村の周囲に現れる魔物は、グリーンスライムやホーンラビット、それにフォレストウルフなどです。ですが……」
マリアさんはそこで言葉を切ると、少し真剣な眼差しで俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「どうか、ご無理はなさらないでくださいね。この辺りにいる通常サイズの魔物でも並の盗賊よりも強いのです」
だから、と彼女は言葉を続ける。
「単独で戦える人間はほとんどいません。普通は武装した数人でチームを組み、連携して仕留めるのが常識なのですから。一人で戦いに出るのであれば――念のため、村の商店でポーションも買っておいた方が良いかと思いますわ」
単独での戦闘は非推奨。
回復薬の所持と集団戦術が基本。
それが、名もなき村の一般人たちが持つ、魔物に対するリアルな認識だった。
ゲームのように、レベル1の勇者が木の棒でスライムを叩き潰して無双できるほど、この世界は甘く作られてはいないのだ。
(チームプレイ、か……)
俺は心の中で自嘲気味に呟いた。
そんなものは、俺にとって最も縁遠い概念だ。
背中を預けられる相手など、この世界には一人もいない。
あの盗賊たちの襲撃でパニックに陥り、剣を放り出して泣き喚いていたクラスメイトたちの無惨な姿が、脳裏にフラッシュバックする。
他人に期待し、他人に依存することは、己の命のコントロールを他者に委ねるということに他ならない。
俺には、チームプレイなど絶対に無理だ。
――とはいえ、悲観はしていない。
俺の手には、常時【斬撃付与】の風魔法が宿る『疾風の剣』がある。
この剣を装備すれば、敏捷が+3増える。
さらに、村長から『クエスト達成報酬』として受け取った『風のマント』を羽織れば、装備補正によって俺の【敏捷】の数値は一気に「21」へ跳ね上がる。
(二つの装備補正は重複する。元の敏捷が15なわけだから、装備補正の「+6」はかなり大きい)
俺の現在のステータスと、幼い頃、体に叩き込んだ剣術の基礎、そしてこの『疾風の剣』があれば――単独でも十分に魔物を狩れるはずだ。
だが、慢心は確実に死を招く。
ステータスの数値がほんの少し上回っているだけで勝てるほど、命のやり取りは単純ではないことを、俺はすでに盗賊たちとの殺し合いで痛感している。
「……マリアさんの言う通りですね。怪我をした場合の万一の備えとして、道具屋で物資を揃えておこうと思います」
俺は最後の一口のスープを飲み干し、静かに席を立った。
まずは徹底的な情報収集と、ポーションなどの確保だ。
傷薬一つが、生と死の境界線を分かつことになるかもしれない。
『オルト村の英雄』という身の丈に合わない重い称号と、金貨三枚という活動資金が入った袋を腰に提げ、俺は家を出るべく木製の扉へと歩みを進めた。




