第6話「暴落の夜」
今日のお話は、投資家なら一度は経験したことのある、
『株価の下落に精神的に追い詰められた夜』のお話です。
もしもあなたが同じような心境になった時、そっと心に寄り添えるように……
そう思って書きました。
夜も九時を過ぎた頃。
フィナンツェでは一日が終わろうとしていたが、大西洋の向こうでは、米国市場がまだ活発な動きを見せていた。
王城の廊下は月光に照らされ、濡れたように光っていた。
燭台の火も小さくなり、窓の外には深い藍色の夜空が広がっている。
女王は寝衣の裾を握りしめたまま、軍師の私室の前に立っていた。
そして、控えめに扉を叩く。
「……軍師〜? 起きてる?」
少しの間を置いて、内側から穏やかな声が返ってきた。
「陛下ですか。どうぞ」
聞き慣れた声に、女王の胸の奥に詰まっていた不安な気持ちが、少しだけ和らいだ。
「入っていい?」
「ええ。
本来なら扉を開けてお迎えしたいところなのですが、少々体が動かなくなりまして……」
「まあ、大丈夫? 入るわよ」
女王は扉を開けた。
「軍師、大変なの。米国株が急に——」
用件を言いかけたが、目の前の光景に、女王は言葉を失った。
軍師は、寝台の上に横たわって体を休めていた。
青銀の長い髪を寝具の上に流し、素肌に白いシャツを羽織っただけの姿で、片手には古い装丁の本を持っていた。
シャツの胸元はゆるく開き、窓から差し込む月明かりを受けた肌が、やけに白く見える。
いつものかっちりとした軍服も、完璧に整えられた策士の仮面もない。
そこにあったのは、寝る前にひとりの時間を過ごしていた、無防備な男の姿だった。
「きゃっ!」
女王は固まった。
「……陛下?」
軍師がわずかに首を傾げる。
「い、いえ。違うの。……なんでもないの!」
「何が違うのですか」
「その……そんな格好だとは思わなかったから……」
女王は咄嗟に、寝衣の袖で熱くなった顔を隠した。
軍師は横になりながら、いつもよりすこし弱々しげな顔で女王を見た。
「すみません。この錬金素体の稼働限界が来てしまったようで……
しばらくはこのままで失礼いたします」
「い、いいわ、そのままで」
軍師は本に栞を挟み、気だるげな仕草でゆっくりと身を起こした。
長い髪が肩から流れ、白いシャツの襟元で月光を弾く。
「——それで、米国株がどうされました?」
その一言で、女王はようやく本題を思い出した。
「見て! 急に下がったの。
NASDAQも、半導体株も、全部マイナスよ……私、どうしたらいいのか分からなくなって」
端末を握りながらも、声が震えている。
「ねえ、これ売ったほうがいい? それとも耐えたほうがいいの?」
「女王……」
「私、また判断を間違えるんじゃないかって、不安でたまらなくなって……」
「それで、そんな薄手の寝衣で、夜分に若い男性の寝室を訪れたと?」
「えっ?」
意外な答えに、女王は戸惑った。
「女王、あまりに警戒心が無さすぎます」
「で、でも、あなたの部屋だし……」
「確かに私は、今はこのような体ですが」
軍師は自分の錬金素体の体を見た。
「そんな事情を知らない人が見たら、どう思うとお考えですか?」
「!」
女王は、黙って俯いた。
「どなたかに、見られはしなかったでしょうね?」
「うん、大丈夫だと思うけど……」
「それならいいのですが……。
不埒な噂でも立てられたら、私は貴女のお側にいられなくなるかもしれないのですよ」
「ご、ごめんなさい……」
軍師はそれ以上は責めなかった。
「では……扉は少し開けたままで。どうぞ、こちらへ」
そして、寝台の端を軽く叩いた。
「えっ」
女王の心臓がドキンと鳴った。
「一緒に貴女を苦しめているものの正体を確認いたしましょう。恐怖は放置すると増殖します」
「う、うん」
女王はおずおずと近づき、寝台の端に腰をかけた。
だが視線をどこに向ければよいのか分からず、しばしさ迷わせ……
結局、軍師の手元の本を見た。
「……何を読んでいたの?」
「戦史です」
「え、寝る前に?」
「ええ、敵がなぜ負けたのかを読み取るのが面白いのですよ。
悪手の記録ほど、よく眠れます」
「まあ、性格が悪いわね」
「陛下の軍師ですので」
その軽口に、女王は少しだけ笑った。
軍師はサイドテーブルに置かれた小さな端末を手に取り、画面を一瞥する。
そこには女王のいう通り、大幅なマイナスを示す数字が並んでいた。
けれど彼の表情は変わらない。
「夜の急落で最も危険なのは、下落そのものではありません」
「じゃあ、何?」
「孤独です」
「孤独……?」
女王は顔を上げた。
「含み損が増え、孤立無縁で敗戦場に取り残されたように思える。
でも、慌てて撤退——損切りの命令を出した時ほど、朝になって後悔するものです」
軍師は静かに言った。
「資金という兵を動かすのは、冷静な判断力がある時でないといけません」
「でも、何もしないのは怖いわ」
軍師は、ゆっくりと首を振った。
「何もしないのではありません。今は、命令を保留するという命令を出すのです」
女王はハッとして、軍師の顔を見た。
その言葉は、胸の中にすうっと沁みて行った。
「そっか……そうよね」
部屋の隅で、蝋燭の灯りがゆらりとゆらめいた。
「この銘柄——」
軍師は端末を操作して、目の前にホログラムを展開した。
「直近で悪材料は出ておらず、業績にもなんの翳りもありません」
「うん」
「製品の需要も伸びているし、むしろ供給が追いついていないほどですね」
「そう……みたいよね」
「ならば」
軍師は女王の瞳を覗き込んだ。
「今は心配することはありませんね」
「うん……」
女王は、耳に残る軍師の低い声に安らぎを覚える自分に気づいた。
「ねぇ、軍師」
「はい?」
「私ね、投資の相談に来たんじゃないのかもしれない」
「と、言いますと?」
女王は少しはにかんでから、答えた。
「……あなたの声を、聞きに来たのかも」
言ってから、女王はしまったと思った。
顔が熱くなる。
軍師は一瞬考えるような仕草をすると、柔らかくうなずいた。
「でしたら、今夜の判断は正解です」
「投資判断として?」
「いえ」
軍師は本を閉じた。
「女王、貴女の精神防衛として」
窓の外で、夜風が梢を揺らす音がする。
株価の下落は変わらず、市場は女王の不安などお構いなしに動き続けている。
けれど、さっきまで女王の胸を押しつぶしていた恐怖は、少しずつ軽くなっていた。
女王は軍師の横顔を見る。
薄手の白いシャツ。
喋るたびに上下する喉仏。
眠る前の、誰にも見せないはずの姿。
「……女王」
「なあに?」
「もう少し、こちらへ」
「えっ」
女王は、少し体をこわばらせた。
「それとも、私の方から近寄っても?」
「な、何をするの……!?」
軍師は腰を浮かせると、ゆっくりと女王の方に近づいた。
そして、右手をそっと持ち上げる。
体温と、息づかいが感じられる距離。
女王は緊張のあまり、きゅっと目を瞑った。
やがて……。
軍師は女王の頭に手を置いて、優しくぽんぽん、と叩いた。
「……!」
女王が目を開けると、そこには限りなく優しい軍師の微笑みがあった。
「よく眠れる、おまじないですよ」
「軍師……」
「さあ、これで安心して眠れますね」
女王も、ふっと笑みをこぼした。
「……不思議ね」
「?」
「小さな頃、お父さまも同じように、よく私の頭を優しく叩いてくれたわ。
なぜか安心するのよね……」
軍師の指先が、ぴくり、と止まった。
「……それは、よろしゅうございました」
いつも通りの声。
だが彼の瞳には、女王も気づかないほどの、心の揺らぎが映し出されていた。
「さあ、今度こそご自分の寝室にお戻りください」
「うん、ありがとう……」
女王が部屋を出ていくのを見届けて、軍師は軽くため息をついた。
重い体を起こして寝台から立ち上がり、窓を開けた。
涼しい夜風が室内に吹き込んでくる。
ふと夜空を見上げると、そこには一際輝く星が、彼を見守るかのように輝いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
私も誰にも投資の相談ができずに、こんな孤独な夜をたった一人で耐えたことがあります。
そんな時に、頼れる軍師がそばにいてくれたら……。
あんな悪手を打ったり、無駄な損切りをしなくて済んだかも(笑)。
投資家は、みんなこのような辛い経験を抱えて、一人前になっていくものなのかもしれません。




