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ポンコツ女王の投資戦記  作者: 未知(いまだ・とも)


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8/10

第6話「暴落の夜」

今日のお話は、投資家なら一度は経験したことのある、

『株価の下落に精神的に追い詰められた夜』のお話です。


もしもあなたが同じような心境になった時、そっと心に寄り添えるように……


そう思って書きました。

夜も九時を過ぎた頃。


フィナンツェでは一日が終わろうとしていたが、大西洋の向こうでは、米国市場がまだ活発な動きを見せていた。


王城の廊下は月光に照らされ、濡れたように光っていた。

燭台の火も小さくなり、窓の外には深い藍色の夜空が広がっている。


女王は寝衣の裾を握りしめたまま、軍師の私室の前に立っていた。


そして、控えめに扉を叩く。


「……軍師〜? 起きてる?」


少しの間を置いて、内側から穏やかな声が返ってきた。


「陛下ですか。どうぞ」


聞き慣れた声に、女王の胸の奥に詰まっていた不安な気持ちが、少しだけ和らいだ。


「入っていい?」


「ええ。

 本来なら扉を開けてお迎えしたいところなのですが、少々体が動かなくなりまして……」


「まあ、大丈夫? 入るわよ」


女王は扉を開けた。


「軍師、大変なの。米国株が急に——」


用件を言いかけたが、目の前の光景に、女王は言葉を失った。


軍師は、寝台の上に横たわって体を休めていた。

青銀の長い髪を寝具の上に流し、素肌に白いシャツを羽織っただけの姿で、片手には古い装丁の本を持っていた。


シャツの胸元はゆるく開き、窓から差し込む月明かりを受けた肌が、やけに白く見える。


いつものかっちりとした軍服も、完璧に整えられた策士の仮面もない。

そこにあったのは、寝る前にひとりの時間を過ごしていた、無防備な男の姿だった。


挿絵(By みてみん)


「きゃっ!」


女王は固まった。


「……陛下?」


軍師がわずかに首を傾げる。


「い、いえ。違うの。……なんでもないの!」


「何が違うのですか」


「その……そんな格好だとは思わなかったから……」


女王は咄嗟に、寝衣の袖で熱くなった顔を隠した。


軍師は横になりながら、いつもよりすこし弱々しげな顔で女王を見た。


「すみません。この錬金素体(からだ)の稼働限界が来てしまったようで……

 しばらくはこのままで失礼いたします」


「い、いいわ、そのままで」


軍師は本に栞を挟み、気だるげな仕草でゆっくりと身を起こした。

長い髪が肩から流れ、白いシャツの襟元で月光を弾く。


「——それで、米国株がどうされました?」


その一言で、女王はようやく本題を思い出した。


「見て! 急に下がったの。

 NASDAQも、半導体株も、全部マイナスよ……私、どうしたらいいのか分からなくなって」


端末(スマホ)を握りながらも、声が震えている。


「ねえ、これ売ったほうがいい? それとも耐えたほうがいいの?」


「女王……」


「私、また判断を間違えるんじゃないかって、不安でたまらなくなって……」


「それで、そんな薄手の寝衣で、夜分に若い男性の寝室を訪れたと?」


「えっ?」


意外な答えに、女王は戸惑った。


「女王、あまりに警戒心が無さすぎます」


「で、でも、あなたの部屋だし……」


「確かに私は、今はこのような体ですが」


軍師は自分の錬金素体の体を見た。


「そんな事情を知らない人が見たら、どう思うとお考えですか?」


「!」


女王は、黙って俯いた。


「どなたかに、見られはしなかったでしょうね?」


「うん、大丈夫だと思うけど……」


「それならいいのですが……。

 不埒な噂でも立てられたら、私は貴女のお側にいられなくなるかもしれないのですよ」


「ご、ごめんなさい……」


軍師はそれ以上は責めなかった。


「では……扉は少し開けたままで。どうぞ、こちらへ」


そして、寝台の端を軽く叩いた。


「えっ」


女王の心臓がドキンと鳴った。


「一緒に貴女を苦しめているものの正体を確認いたしましょう。恐怖は放置すると増殖します」


「う、うん」


女王はおずおずと近づき、寝台の端に腰をかけた。


だが視線をどこに向ければよいのか分からず、しばしさ迷わせ……

結局、軍師の手元の本を見た。


「……何を読んでいたの?」


「戦史です」


「え、寝る前に?」


「ええ、敵がなぜ負けたのかを読み取るのが面白いのですよ。

 悪手の記録ほど、よく眠れます」


「まあ、性格が悪いわね」


「陛下の軍師ですので」


その軽口に、女王は少しだけ笑った。


軍師はサイドテーブルに置かれた小さな端末を手に取り、画面を一瞥する。


そこには女王のいう通り、大幅なマイナスを示す数字が並んでいた。

けれど彼の表情は変わらない。


「夜の急落で最も危険なのは、下落そのものではありません」


「じゃあ、何?」


「孤独です」


「孤独……?」


女王は顔を上げた。


「含み損が増え、孤立無縁で敗戦場に取り残されたように思える。

 でも、慌てて撤退——損切りの命令を出した時ほど、朝になって後悔するものです」


軍師は静かに言った。


「資金という兵を動かすのは、冷静な判断力がある時でないといけません」


「でも、何もしないのは怖いわ」


軍師は、ゆっくりと首を振った。


「何もしないのではありません。今は、命令を保留するという命令を出すのです」


女王はハッとして、軍師の顔を見た。

その言葉は、胸の中にすうっと沁みて行った。


「そっか……そうよね」


部屋の隅で、蝋燭の灯りがゆらりとゆらめいた。


「この銘柄——」


軍師は端末を操作して、目の前にホログラムを展開した。


「直近で悪材料は出ておらず、業績にもなんの翳りもありません」


「うん」


「製品の需要も伸びているし、むしろ供給が追いついていないほどですね」


「そう……みたいよね」


「ならば」


軍師は女王の瞳を覗き込んだ。


「今は心配することはありませんね」


「うん……」


女王は、耳に残る軍師の低い声に安らぎを覚える自分に気づいた。


「ねぇ、軍師」


「はい?」


「私ね、投資の相談に来たんじゃないのかもしれない」


「と、言いますと?」


女王は少しはにかんでから、答えた。


「……あなたの声を、聞きに来たのかも」


言ってから、女王はしまったと思った。

顔が熱くなる。


軍師は一瞬考えるような仕草をすると、柔らかくうなずいた。


「でしたら、今夜の判断は正解です」


「投資判断として?」


「いえ」


軍師は本を閉じた。


「女王、貴女の精神防衛として」


窓の外で、夜風が梢を揺らす音がする。


株価の下落は変わらず、市場は女王の不安などお構いなしに動き続けている。

けれど、さっきまで女王の胸を押しつぶしていた恐怖は、少しずつ軽くなっていた。


女王は軍師の横顔を見る。


薄手の白いシャツ。

喋るたびに上下する喉仏。


眠る前の、誰にも見せないはずの姿。


「……女王」


「なあに?」


「もう少し、こちらへ」


「えっ」


女王は、少し体をこわばらせた。


「それとも、私の方から近寄っても?」


「な、何をするの……!?」


軍師は腰を浮かせると、ゆっくりと女王の方に近づいた。

そして、右手をそっと持ち上げる。


体温と、息づかいが感じられる距離。


女王は緊張のあまり、きゅっと目を瞑った。


やがて……。


軍師は女王の頭に手を置いて、優しくぽんぽん、と叩いた。


「……!」


女王が目を開けると、そこには限りなく優しい軍師の微笑みがあった。


「よく眠れる、おまじないですよ」


「軍師……」


「さあ、これで安心して眠れますね」


女王も、ふっと笑みをこぼした。


「……不思議ね」


「?」


「小さな頃、お父さまも同じように、よく私の頭を優しく叩いてくれたわ。

 なぜか安心するのよね……」


軍師の指先が、ぴくり、と止まった。


「……それは、よろしゅうございました」


いつも通りの声。

だが彼の瞳には、女王も気づかないほどの、心の揺らぎが映し出されていた。


「さあ、今度こそご自分の寝室にお戻りください」


「うん、ありがとう……」


女王が部屋を出ていくのを見届けて、軍師は軽くため息をついた。


重い体を起こして寝台から立ち上がり、窓を開けた。

涼しい夜風が室内に吹き込んでくる。


ふと夜空を見上げると、そこには一際輝く星が、彼を見守るかのように輝いていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


私も誰にも投資の相談ができずに、こんな孤独な夜をたった一人で耐えたことがあります。

そんな時に、頼れる軍師がそばにいてくれたら……。


あんな悪手を打ったり、無駄な損切りをしなくて済んだかも(笑)。


投資家は、みんなこのような辛い経験を抱えて、一人前になっていくものなのかもしれません。

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