天使様、平和じゃない日に足を踏み入れる
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フローラ月(3月)特有の、まだ少し冷たさの残る夜風が、ロドエル魔導学院の初等部男子寮の窓をカタカタと揺らしていた。
レオンは、自室の机に向かい、開いた魔導書に視線を落とすが、その内容は頭に全く入ってこない。彼は数分おきに、壁に掛けられた時計へとチラチラと目をやっていた。
時刻はすでに、消灯時間を過ぎようとしている。
「……遅いな」
レオンはぽつりと呟き、本を閉じた。
週に一度、エイド曜(休日)。メイドでありクラスメイトでもあるルチアは、母エレナの付き添いのもと、王都にある魔道士ギルド「ルーンの塔」へと通っている。ルチアの特異体質である魔素過多症を制御し、彼女が無意識に行っている『魔力圧縮』の技術を安全な形に整えるための、特別な訓練と研究のためだ。
普段であれば、夕食の時間を少し過ぎた頃には寮に戻ってくる。そして、必ずレオンの部屋をノックし、「レオン様、お疲れ様です」と温かいハーブティーを淹れてくれるのだ。その後、明日の制服の準備や部屋の簡単な整頓をしてから、「おやすみなさいませ」と自分の部屋へ戻っていくのが、二人の大切な日課となっていた。
しかし、今日は、いくら待っても、あの控えめなノックの音は聞こえてこない。
最初は「母様のことだから、研究に熱中して時間を忘れているのかな」と楽観視していた。エレナは研究オタクだ。ルチアの規格外の魔力圧縮データに見入り、ついつい引き留めてしまっている可能性は十分にある。
だが、それにしても遅すぎる。ルチアは生真面目な性格を考えれば、遅くなるなら、ギルドの使いや伝書鳥を使って、必ずレオンに一報を入れるはずなのだ。
「……何か、あったのかな」
レオンの胸の奥に、ざわざわとした不安の波が広がり始める……
『レオン様、どうしたのー? そわそわしてるね』
足元の影から、白いモフモフの塊――使い魔のモリィが、不思議そうに顔を出した。精霊の使い魔である彼は、主の感情の揺れを敏感に察知する。
「モリィ……。ルチアが、まだ帰ってこないんだ。母様と一緒にギルドへ行ったきりなんだよ。いくらなんでも遅すぎると思わない?」
『んー、確かに遅いね。お腹すいてどっかでご飯食べてるのかな?』
「ルチアはそんなことしないよ。……ねえ、モリィ。お願いがあるんだ。王都にある僕たちの別邸に、母様が帰っているか見てきてくれないかな?」
『わかった、行ってくる!』
「誰にも見つからないように、影の中を通ってね。気をつけて」
『まかせてー!』
モリィは短い返事をすると、再びするりと影の中へと溶け込み、音もなく部屋から消え去った。
モリィの帰りを待つ間、レオンは部屋の中を落ち着きなく歩き回っていた。窓の外を見下ろしても、ガス灯がポツポツと道を照らすだけで、人影はない。
(何事もなければいいんだけど……)
十数分後。床の影が揺らぎ、モリィがひょっこりと顔を出した。しかし、その表情はいつもの呑気なものではなく、どこか緊迫していた。
『レオン様!大変だよ!』
「モリィ、どうだった!?母様は?」
『エレナ様、別邸に帰ってきてないって!お屋敷の中、すっごくバタバタしてた!カミラさんたちが怖い顔して、騎士の人たちを集めて探しに出ようとしてるところだったよ!』
「え……!」
レオンの顔から、さっと血の気が引いた。母も、帰っていない。しかも、あの常に冷静沈着なメイド長のカミラが、騎士を集めて捜索を始めている。それはつまり、侯爵家の別邸においても、エレナとルチアの未帰還が「異常事態」として認識されているということだ。
「……二人に、何かあったんだ!」
レオンはクローゼットを開け、夜風を凌ぐための暗い色の外套を羽織った。
「僕も探しに行く!モリィ、一緒に行こう!」
『うん!』
レオンは、寮監の目を盗み、風魔法で足音を消しながら、素早く寮を抜け出した。向かう先は一つ。二人が向かったはずの魔道士ギルド「ルーンの塔」だ。
◇
夜の王都セレフィア。昼間の喧騒は鳴りを潜め、学問区の石畳の道には冷たい夜霧が漂っている。レオンは、足早にギルドのある商業区へと向かっていた。
(母様は、クリムゾン級の称号を持つ凄腕の魔道士だ。そう簡単に事件に巻き込まれるとは思えないけど……)
悪い想像ばかりが頭を駆け巡る。焦る気持ちを抑えきれず、レオンが無意識に風魔法で歩みを速めようとした、その時だった。
「……おい、そこのチビ。こんな夜更けに一人で出歩くなんて、感心しないな」
前方から、聞き覚えのある、少し気怠げな声が降ってきた。ハッとして顔を上げると、ガス灯の淡い光の下に、見慣れたプラチナブロンドの髪が揺れていた。
「ユリ兄様!」
そこにいたのは、次兄のユリウスだった。彼は中等部の制服の上に、魔道士ギルドの意匠が施されたローブを羽織っていた。秋に最年少でギルドの試験に合格して以来、彼は頻繁にギルドへ出入りし、自身の氷や風の魔法の研究、そして「そろばん事業」や「ケーキ事業」の裏工作に勤しんでいるのだ。
「なんだ、レオンじゃないか。寮を抜け出すなんて、お前らしくない不良ぶりだな。アデル兄さんが知ったら、卒倒して王都の海に身を投げるぞ」
ユリウスはニヤニヤと笑いながら近づいてきたが、レオンの蒼白な顔と、切羽詰まった瞳を見て、すぐにその笑みを消した。
「どうした、レオン。何かあったのか?」
「ユリ兄様!ルチアが……母様とルチアが、ギルドに行ったきり帰ってこないんです!」
「なんだと?」
ユリウスの瞳が、一瞬にして鋭い光を帯び、その言葉だけで事の重大さを理解する。
「別邸には?確認したのか?」
「モリィに見に行ってもらいました。別邸にも帰っていなくて、カミラさんたちが捜索に出るところだったそうです」
「……母さんが、連絡もなしに帰らないなんてあり得ない。ましてや、ルチアを連れているんだ」
ユリウスは舌打ちをし、自身のギルド証を握りしめた。
「俺は今、ギルドから寮に帰るところだったんだが……母さんたちの姿は見ていない。よし、レオン。ギルドに戻るぞ。門番に直接確認する」
「はい!」
頼もしい兄の存在に、レオンは少しだけ心強さを感じながら、ユリウスと共に巨大な石造りの塔――魔道士ギルドの本部へと駆け出した。
◇
「ルーンの塔」の入り口は、夜間であっても厳重な警備が敷かれていた。二人の屈強な魔法士が、門番として立っている。
「失礼。俺はユリウス・フォン・グレイスフィールドだ」
ユリウスがギルド証を提示すると、門番たちはわずかに目を見張ったが、すぐに恭しく一礼した。
「これは、ユリウス様。夜分にどのようなご用件でしょうか?」
「実は、母であるエレナ・フォン・グレイスフィールドと、同伴していたメイドのルチアの行方を探している。今日、二人はこちらに訪れていたはずだが、何時に退館したか記録は残っていないか?」
門番の一人が、手元の魔導記録板を確認する。
「エレナ様ですね。少々お待ちください……ああ、記録にございます。エレナ様とルチア嬢は、本日の夕刻、日が落ちる少し前には退館手続きを済ませておられますよ」
「夕刻に?確かに退館したんだな?」
「はい。間違いありません。お帰りの際は、ギルドが手配した迎えの馬車ではなく、すでに待機していた辻馬車に乗って帰られたと、他の職員から報告を受けております」
「待機していた辻馬車……?」
ユリウスが怪訝そうに眉をひそめる。侯爵家の夫人が、迎えの馬車を待たずに辻馬車に乗るなど、不自然すぎる。
レオンの心臓が、どきりと嫌な音を立てた。夕刻にギルドを出ている。しかし、夜になっても別邸には着いていない。途中でどこかへ立ち寄るにしても、カミラに連絡を入れないはずがない。
その事実が意味すること。
(……二人は、ギルドを出た直後に、何者かに連れ去られたんだ)
その瞬間、レオンの脳裏に、ある忌まわしい記憶が蘇った。
――初等部1年の夏休み。七不思議の調査で訪れた、塔の最上階『天象儀の間』で。そこに現れた、ヘイムダール侯爵家の紋章を胸に付けた魔術師。あの男は、ルチアの顔を見るなり、ねっとりとした声でこう言ったのだ。
『……おまえ。魔術師ギルドへ「魔力圧縮」の件で相談に来ていた平民の娘だな』
そして、男はルチアを「実験台」として攫おうとした。アデルとユリウスが駆けつけなければ、ルチアとモリィはあの男に連れ去られていたはずだ。
(あの時も、ルチアの『魔力圧縮』の才能が狙われた……!)
レオンたちが開発した『グレイスフィールド式・三位一体魔力圧縮法』。その鍵となるルチアの規格外の魔力制御技術は、母エレナがギルドで安全な理論として体系化しようと研究を続けている。だが、その力は、軍事バランスをも覆しかねない危険なものだ。ヘイムダール侯爵家のような、禁術すら厭わない狂信的な魔導研究者たちが、その力を喉から手が出るほど欲しがっていることは、父マルクも懸念していた。
「誘拐……!?」
レオンの口から、震える声が漏れた。
「ユリ兄様!きっと、ヘイムダール侯爵家です!ルチアの魔力圧縮を狙って、母様ごと攫ったんだ!」
「チッ……!あの時の薄汚い魔術師の残党か、それとも本腰を入れてきやがったか!」
ユリウスもまた、ギリリと奥歯を噛み締めた。クリムゾン級の魔道士であるエレナを無力化して連れ去るには、相当な手練れが複数、あるいは強力な魔道具が使われたに違いない。
「ユリ兄様、どうしよう!早く助けに行かないと!」
レオンがパニックになりかけた、その時。
「――レオン!!ユリウス!!」
夜の静寂を切り裂くような、切羽詰まった絶叫が響いた。振り返ると、王都の石畳を蹴り飛ばさんばかりの勢いで、一人の少年が猛烈なスピードで駆けつけてくる。
「アデル兄様!」
金髪を振り乱し、息を切らせて到着したのは、長兄アデルだった。その後ろには、影から飛び出したモリィが『アデル様、すっごく速かったよー!』と息を弾ませてついてきている。モリィがアデルを呼びに行ったのだろう。いや、あるいはアデルの常軌を逸した『弟センサー』が、レオンの危機的感情を感知して飛んできたのかもしれない。
「ハァッ……ハァッ……!レオン、無事か!?怪我はないか!?」
アデルはレオンの肩をガシッと掴み、その体を隅々まで確認する。
「僕は大丈夫です!でも、母様とルチアが!」
「……ああ、聞いている。カミラから急報を受けた。母上と、ルチアが戻ってこないと……」
「…あぁ…今、魔道士ギルドの門番に聞いたところ、夕刻に辻馬車に乗って行ったらしい…」
「辻馬車!?あんな母でも、侯爵夫人だぞ?そんな……まさか、誘拐?」
アデルの端正な顔が、怒りによって修羅の如く歪んでいく。彼の体から、青白い炎のような魔力が立ち上り、周囲の空気がジリジリと熱を帯び始める。
「許さん……!我が家族に手を出す愚か者がいるとは!王都を灰にしてでも、必ず見つけ出し、万死をもって償わせてやる!!」
「落ち着け、兄貴!」
ユリウスが、今にも暴走しそうなアデルの前に立ち塞がった。
「ここで王都を燃やしても母さんたちは戻ってこない!相手は計画的に辻馬車を装って二人を連れ去ったのは間違いないだろう。足取りを掴むのが先だ!」
「では、どうしろと言うのだ!今この瞬間にも、ルチアが……母上が、恐ろしい目に遭っているやもしれんのだぞ!」
「分かってる!だからこそ、頭を冷ませ!」
ユリウスの鋭い一喝に、アデルはハッとして、ギリリと拳を握りしめながらも魔力を抑え込んだ。
「……すまない。取り乱した」
「いいか。母さんたちが最後に接触したのは、このギルドだ。そして、ギルドの出入り口付近には、必ず魔力痕跡を記録する防犯結界が張られているはずだ。辻馬車に偽装した魔法や、二人を眠らせたかもしれない薬効の痕跡が、絶対に残っている」
ユリウスは、ギルドの門番たちへと向き直った。
「門番殿。俺のギルド所属資格と、ここにいるアデル・フォン・グレイスフィールド侯爵家嫡男の権限において、魔道士ギルド長への緊急面会を要求する。我が家の当主夫人誘拐という国家レベルの事件だ。夜間だろうが関係ない。今すぐギルド長を叩き起こしてこい!」
ユリウスの理路整然とした、しかし凄まじい威圧感を伴った要求に、門番たちは顔を見合わせ、すぐさま青ざめた顔で「は、ただちに!」と塔の中へ駆け込んでいく。
そして、夜のルーンの塔に、三兄弟と一匹の使い魔が、静かに、しかし確かな怒りと覚悟を胸に足を踏み入れるのだった。
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