第十九夜
誰もいなくなった森の中、赤みがかった霧は嵐のように吹き荒れる。
獲物に逃げられた怒りを表すように、冷気を纏う霧は吹雪となって景色を変える。
「この程度で、儂の目から逃れられると思っているのか!」
宙に浮かぶ赤い星型から大量に霧が吹き出す。
この霧全てがルヴナンの一部であり、視覚器官でもある。
広がった霧の中は全てルヴナンの視界であり、少しでも霧が存在する場所なら瞬時に移動できる。
神出鬼没の吸血鬼、それがルヴナンの異名だった。
完全にルーセット達を見失ったが、所詮は生まれたての純血の能力。
そう遠くまでは転移できない筈。
「クソガキ共め! どこに居ようとすぐに………!」
「どうした、随分とご機嫌じゃないか」
怒り狂うルヴナンを嘲笑う声が聞こえた。
周囲を威圧するような低い声。
声の主は、赤いパーカーの青年だった。
背に赤い羽根の付いた独特なパーカーを纏った長身の青年。
フードを深く被って目を隠しており、その素顔を覗くことは出来ない。
「こうして直接会うのは何年ぶりだろうか。いつもは眷属越しに言葉を交わすだけだからな」
皮膚にはトカゲのような鱗があり、異様に長い手足を持っている。
フードから覗く口元が嘲るような笑みを浮かべた。
「なあ、ルヴナン?」
「…コカドリーユ」
ルヴナンは低い声で男の名を呼んだ。
眷属がいた時点で察するべきだった。
この厄介な男が付近にいることに。
「ん? まさか、そこに転がっているのは余のプーペか? 余の大切な相棒を壊すとは、これは宣戦布告かルヴナン?」
「…ふん、魂さえ無事ならすぐに直せるじゃろう。魂までは壊していない」
「そう言う問題じゃない。『お前が』『余の物を』『壊した』…それが事実だ」
静かな怒気を放つコカドリーユを中心に風が吹き荒れる。
フードの中でコカドリーユの目が赤く光った。
それを見て、ルヴナンは制止の声をかける。
「やめろ。純血同士の争いはプレーヌ=リュンヌの条約で禁じられておる」
「余の部下を虐殺したお前が、それを言うか」
「部下だと? 檻から出した獣を部下とは呼ばん」
周囲に広がっていた霧がルヴナンを中心に収束する。
濃度を増した霧が人型を形作った。
ルヴナンの声には、格下を相手にしていた時にはなかった焦りが見えた。
広げていた能力を集中させ、同格と認める相手を警戒しているのだ。
「最近の貴様の行いは秩序を乱している。少しは自粛しろ」
「秩序? 自粛? ハン、余の辞書にそんな言葉はない」
長い手をだらんと垂らし、コカドリーユはギラギラとした目を向ける。
口調は軽いが、発する殺意と憎悪は本物だ。
「余の辞書に刻まれているのは、頂点のみ。それが全てだ!」
コカドリーユの思想は、百年前からルヴナンとは正反対の物だった。
秩序を嫌い、混沌を好む。
平和を嫌い、競争を好む。
そして何よりも、純血主義を嫌う。
「血統も人格も関係ない。欲しい物は全て実力で奪い取るまで!」
「…ふん、変わらんのう」
呆れたような声を零すと、ルヴナンを形成していた人型が崩れた。
中心で浮いていた星型の物体も消え、ルヴナンの輪郭が空に溶けていく。
「なぁ…ッ! この、逃げる気か!」
「悪いが貴様と遊んでいる暇はない。貴様に時間を取られたせいで、裏切り者を完全に見失ってしまったからのう」
霧散して消えていくルヴナンに叫びながらコカドリーユは両手を向ける。
それがイクリプスを起動させる構えだと知っていたルヴナンは、付け加えるように続けた。
「それに、もう夜明けじゃ」
「チッ!」
霧の隙間から白み掛かった夜空が見えた。
高い不死性を持つ純血と言えども、吸血鬼である限り日光には勝てない。
悔しそうに舌打ちして、コカドリーユは両手を下した時には既にルヴナンの姿はどこにもなかった。
相変わらず逃げ足の速い奴だと、コカドリーユは呟く。
「…次は殺す」
捨て台詞を残し、コカドリーユもまた夜の闇へ消えていった。
「参ったな、もう夜が明けちまうよ」
同じ頃、ルーセットも白み掛かった空を見上げていた。
今にも崩れそうな廃墟に背を預け、困ったような顔をしている。
「不満を言うのは筋違いだと思うけど、もう少しマシな所に転移できなかったのか?」
「…仕方ないでしょう。急いでいたのですから」
同じような顔をしたヴェガが呟く。
無事ルヴナンの脅威から逃れた二人だが、逃げた先はボロボロの廃墟だった。
半壊したホテルのような廃墟を前に黄昏れていたら、いつの間にか夜明け間近。
この廃墟が今夜の棺となるかもしれない。
十年前ならいざ知らず、ホテル暮らしになれた今のルーセットには辛い。
「ま、背に腹は代えられない。あのジジイに会って命が残ったことを喜ばないとな」
「………」
気を取り直して廃墟内を物色するルーセットの後をヴェガは無言で追いかける。
ルヴナンを裏切ったことに今頃悩んでいるのかもしれない。
それに目敏く気付いたルーセットは視線をヴェガに向けた。
「色々と悩んでいるのかもしれないけど、命あっての人生。生きていればきっと良いことあるって」
「相変わらず、気楽なことを。あなたには分からないでしょう、選ぶ道の多い者の悩みと言うのは」
普段通りのルーセットにヴェガはため息をつく。
悩みのなさそうなルーセットに対する小さな皮肉が、思わず口から零れていた、
「………君にも分からないと思うよ。生きる道のない者の悩みは」
ほんの少しだけ、普段と声色の違う声でルーセットは言った。
しかし、それも一瞬のことですぐにいつもの調子に戻る。
あまりの変わり身の早さに、ヴェガはルーセットの変化に気付かなかった。
「それはそうと、これからどうするつもりですか?」
「そうだな。プーペの言っていた怪物とやらにも興味があるし、コカドリーユを探すか」
「気軽に言いますけど、相手はルヴナンと同じ純血ですよ?」
同じ純血に良い思い出のないヴェガは不安そうな顔で言う。
ルヴナンに殺されかけた直後とあっては尚更だろう。
「大丈夫だって、純血の中では一番親しみやすい奴だから」
楽観的に言うルーセット。
それを見て、ヴェガの不安は大きくなった。
この男は覚えているのだろうか、その親しみやすい吸血鬼を裏切ったのは紛れもない自分であることを。




