第9話 神様、フィルターとは何ですか
だべり場の壁に、プロフ帳の写しが増えた。
赤い髪紐と焼き林檎が好きなリナ。黄色い花と窓辺の茶を好む老女。固いパンと濃い青、それから乾いた羽根ペンを選んだ私。
神官長の紙には、東通りの蜂蜜パンと書かれている。
本人からは「食物の好みを壁へ掲示する必要があるのか」と異議が出たが、主へ判断を仰いだところ、
――親しみ、大事。
との神託が下った。
写しは今も、そのまま掲示されている。
その日の午後、ノアが老女のプロフを見上げていた。
「おばあちゃん、どれ?」
隣にいたエマが、黄色い花の描かれた紙を指さす。
「これ」
「字じゃ分かんない」
ノアは文字を習い始めたばかりで、自分の名前と猫という文字しか読めないらしい。
「顔も描けばいいのに」
窓辺で茶を飲んでいた老女が、困ったように笑った。
「私の顔など、残すようなものではありませんよ。肖像は、立派な方が残すものですから」
「なんで? おばあちゃんも立派だよ」
「そうでしょうか」
「蜂蜜パンくれるし」
老女はしばらくノアを見たあと、口元を手で隠した。
ノアの視線の先には、白百合の間へ続く廊下がある。壁には歴代の大司教や高位神官の肖像が並び、重い衣をまとった顔が、誰一人として笑わずこちらを見下ろしていた。
いつから立っていたのか、ミカ様もその肖像を眺めている。
「リナのは?」
「ございません」
「救護係さんも、おばあちゃんも?」
「神殿へ肖像を残すのは、歴代の大司教や神官長、聖女など、大きな功績を残された方に限られます」
ミカ様は廊下から、だべり場へ顔を向けた。
リナが茶器を片づけ、救護係はエマの薬包を結び直している。ノアは床へ落ちた蜂蜜パンの欠片を拾い、老女の皿へ戻そうとして止められていた。
「でも、ここ作ってんの、この人らじゃん」
「建物を造営した者については、別に記録が残されています」
「そういう話じゃないし」
ミカ様は、眉間に深い皺を刻んだ初代大司教の肖像を見上げた。
「みんなで撮ればよくない?」
「撮る、とは何でしょう」
「プリ。写真撮って、みんなで写って、かわいく盛るやつ」
通りかかった神官長が足を止めた。
「肖像へ落書きをするのですか」
「落書きじゃなくて、盛るの」
「肖像は後世へ正確な姿を伝えるものです」
「正確すぎて、全員怖いじゃん」
「威厳です」
「圧でしょ」
神官長はそれ以上答えず、初代大司教と視線を合わせた。
神殿には、祭礼の記録などに使う小型の肖像具がある。
白い感光板の前へ立ち、装置へ魔力を通すと、写った姿が薄い紙へ焼き付けられる。高価な品で、普段は保管庫に収められていた。
運び出された肖像具を見て、ミカ様はだべり場にいた者を手招きした。
「いる人、みんな入って」
神官長、老女、リナ、ノア、エマ、救護係。それから私。
リナは周囲を見回し、一歩後ろへ下がった。
「私は準備がございますので」
ミカ様がその袖を掴む。
「リナもここにいたじゃん。準備はあとでいいって」
リナは掴まれた袖と白い板を交互に見てから、老女の隣へ入った。
私は肖像具の後ろへ回る。
「では、私が操作します」
「記録係さんも入るんだけど」
「誰かが魔力を流さなければ撮影できません」
ミカ様は白百合の間を振り返った。
「神ちゃん、これ勝手に撮れないの?」
遠くで神託石が光る。
――可能。
肖像具にも光が走り、台座の一部がひとりでに動いた。感光板がこちらへ向き、装置の中央に光が集まっていく。
私は操作役を失った。
「記録係さん、こっち」
ミカ様が自分の隣を叩く。
「私は端で構いません」
「端は神官長さんで埋まってる」
「なぜ私が端なのですか」
姿勢を正したまま、神官長が尋ねた。
「顔かたいから。もっと笑って」
「肖像に笑顔は必要ありません」
「蜂蜜パン思い出して」
「その必要もありません」
老女の肩が揺れた。
神官長がそちらを向き、リナが口元を押さえる。
ノアは両手を頭の上へ立てた。
「猫」
エマも真似をして、細い指で耳を作る。
私はミカ様に肩を引かれ、リナとの間へ押し込まれた。
「もっと寄って。入ってないし」
「十分に近いです」
「まだいけるって」
肩同士が触れたところで、肖像具の中央が白く弾けた。
薄い紙が台座から滑り出す。
ミカ様が真っ先に拾い、全員がその手元を覗き込んだ。
姿は確かに写っている。
ただし、神殿の肖像具が本来残すものとは、明らかに違っていた。
リナの赤い髪の周りには、細い髪紐が舞っている。老女の肩には黄色い花が咲き、ノアとエマには三角形の猫の耳がついていた。
救護係の周囲には薬草の葉が浮かび、私の手元には濃い青の羽根ペンが描き加えられている。
神官長の両脇には、蜂蜜パンが三つずつ並んでいた。
「誰がこれ描いたん?」
ミカ様が紙を裏返す。
肖像具を運んできた神官が首を振った。
「誰も紙には触れておりません」
神官長は爪を立て、蜂蜜パンだけ剥がそうとした。しかし絵は紙と一体になっており、表面が少し傷ついただけだった。
白百合の間から鐘が鳴る。
神託石に、一語が浮かんだ。
――フィルター。
「ふぃるたぁ? 何それ」
――撮影した像へ、効果を加えるものである。
「うちら、自分で落書きしてたんだけど。勝手につけるやつじゃなくない?」
――自動。
石の光が少し強くなった。
主はまた、ミカ様の知るものと、よく似た別の文化を取り入れられたらしい。
神官長が肖像を掲げる。
「主よ。この蜂蜜パンも、そのフィルターによるものですか」
――本人らしさ、大事。
「パンが私らしさなのですか」
ミカ様が肖像を横から覗く。
「結構、上位っぽいけど」
「上位ではありません」
老女が、肖像へそっと手を伸ばした。
神官長は蜂蜜パンを指で隠しながら、紙を渡す。
黄色い花の中で、老女はリナとノアに挟まれて笑っていた。
「皆と一緒なのですね」
老女の指先が、紙の中の一人一人をなぞっていく。
リナもその横から覗き込んだ。
「私も、神官長様と同じ大きさです」
神官長が肖像へ目を戻した。
正式な肖像では、最も位の高い者が中央に立つ。使用人や下働きが共に描かれる場合も、後方へ小さく配置されるのが通例だった。
今回の紙には、その区別がない。
老女も、下働きのリナも、神官長も、一枚の中で同じ大きさに収まっている。
「これ、壁に貼ろ」
ミカ様がプロフ帳の隣を指さした。
「本来、肖像は保管庫で保存するものです」
「しまったら、誰も見れないじゃん」
「劣化を防ぐためです」
「また撮ればよくない?」
神官長は紙を受け取り、写っている顔を順に見た。
主の判断を仰ぐことなく、長く息を吐く。
「休息所の記録として、一枚のみ掲示を認めます」
「だべり場の記念ね」
「記録です」
肖像は、だべり場の壁へ掛けられた。
歴代大司教のものよりずっと低く、ノアが背伸びをすれば、自分の猫の耳へ触れられる高さだった。
翌日、救護室へ通っている母親と幼い娘が、その肖像の前に立っていた。
「私たちも、撮っていただけるのでしょうか」
母親が神官長へ尋ねる。
神官長が口を開くより先に、リナが肖像具を抱えてきた。
「だべり場へ来られた方でしたら――」
そこまで言って、神官長を見る。
「よろしかったでしょうか」
神官長は肖像具ではなく、壁に掛かった一枚目を見た。
黄色い花の下で、老女が笑っている。
「一日一組までです」
「ありがとうございます」
リナが親子を感光板の前へ案内すると、娘は母親の服を握ったまま俯いた。
ノアが隣に立ち、両手を頭の上へ伸ばす。
「こうすると猫になるよ」
娘は少し迷ってから、同じ形を作った。
光が弾け、新しい肖像には三人分の猫の耳がついていた。
それから、だべり場の壁へ小さな肖像が増えていった。
エマと母親。老女とノア。救護係と、傷の治った患者たち。
誰かが誰かを連れてきて、隣へ立った。
一人で写った神官長の肖像もある。
両脇には、やはり蜂蜜パンが並んでいた。
「主よ。これは外せないのですか」
――好評。
「誰にですか」
答えの代わりに、だべり場から笑い声が上がった。
数日後。
白百合の間へ入ると、神託石の前に小さな肖像が置かれていた。
写っているのは、光を放つ神託石である。
周囲には白百合と星、それからいくつものハートが散り、上部には大きく、
神ちゃん。
その下に、
#盛れた
#ズッ友募集中
と書かれている。
ミカ様は肖像を拾い、神託石と見比べた。
「神ちゃん、これ自分で撮ったん?」
石に文字が浮かぶ。
――自撮り。
「また知らん言葉出てきた」
――自らを撮影すること。
「ふーん」
ミカ様は神ちゃんの肖像を持ってだべり場へ戻り、壁の中央に掛けた。
「神ちゃんも一緒がいいっしょ」
白百合の間から差し込んだ光が、壁に並ぶ肖像を明るく照らした。
### 記録九 フィルター、および本人らしさについて
フィルターとは、撮影された像へ装飾や効果を加える異界の技術である。
ノアに猫の耳はない。
リナの周囲に赤い髪紐が浮かぶこともなく、神官長の両脇へ常に蜂蜜パンが存在するわけでもない。
したがって、フィルターを用いた肖像は、正確な記録とは言い難い。
しかし、プロフを読んだあとでは、何も加えられていない肖像よりも本人らしく見える。
事実にはないものを加えた結果、その者へ近づく。
記録係としては、扱いに困る現象である。
これまで神殿へ残されてきた肖像は、立場と功績を示すものだった。
中央に立つ者が誰であるか。
どの衣をまとい、どれほどの威厳を備えていたか。
その点については、現在のだべり場にある肖像より、はるかに正確である。
だが、壁に掛けられた肖像を受け取った者は、自分の姿より先に、隣に誰がいるかを確かめる。
これまでの肖像では、あまり見られなかった反応である。
肖像が、その者一人を残すものではなく、誰と共にいたかを残すものになったためだと考えられる。
なお、主はフィルターに続き、自撮りという文化を導入された。
こちらもミカ様の知らない言葉であった。
主が異界のどの時代を参照されているのかは、依然として不明である。
ただし、主ご自身の肖像には、星とハートが過剰に使用されていた。
かなり気に入っておられるらしい。
神官長は、自身の肖像から蜂蜜パンを除去するよう三度申請された。
すべて却下されている。
主は、本人らしさを重視されている。
本人は否定している。




