第4話 神殿、盛られる
神託石に「ウケる」と刻まれてから、白百合神殿は少しだけ騒がしくなった。
外ではない。
内側が、ざわつき続けている。
靴職人の娘エマが癒やされたことは、すぐに街へ広まった。聖女様が来た。病の子を癒やした。神託石が光った。
そこまではよい。
問題は、その聖女様が金髪で、肌が焼けており、神を「神ちゃん」と呼び、神から「ウケる」と返されたことである。
そして神託石は、何も弁明してくださらない。
翌朝、神官長はいつもより早く白百合の間へ入った。私も記録係としてその後ろに続く。
祭壇には白百合。香炉には清めの香。白い石床は磨かれ、柱も壁も昨日までと同じように静かだった。
いつも通りの、清らかな神殿。
そのはずだった。
「なに、ここ」
背後から声がした。ミカ様である。
神官長は静かに振り返った。
「白百合の間です。神殿でもっとも清浄な祈りの場でございます」
「いや、知ってる。昨日も来たし。圧強くない?」
神官長は黙った。私も黙った。
圧。また新たな語である。
「白いし、広いし、静かすぎるし。初見だと入りづらくない?」
「神殿とは、俗世の騒がしさから離れる場所です」
「それは分かるけどさ。子どもとか、怖くない?」
神官長の眉が動いた。
「神を恐れる心は、大切です」
「怖がらせるのとは違くない?」
短いのに、刺さる。
ミカ様は祭壇の花を見た。
「あと、花少な」
「祭壇には白百合が」
「一種類だけ?」
「白百合は清浄の象徴です」
「でも神ちゃん、花いっぱいあった方が嬉しくない?」
神託石が淡く光った。
――よい。
神官長が目を閉じた。
ミカ様は笑った。
「ほら」
ほらではない。
その日の午後、白百合の間には白百合以外の花が持ち込まれた。赤、黄色、薄桃。街の花売りから買ったものだという。
費用はどこから出たのかと神官長が尋ねると、ミカ様は言った。
「うちのストーン、ひとつ売った」
本人は「デコの余り」と言っていた。
「聖女様の所持品を売るなど」
「だから聖女じゃないって。あと、花いるじゃん。かわいい方が、人来やすくない?」
白百合の隣に、赤と黄色が並ぶ。
神殿の空気が変わった。清浄さが失われたわけではない。ただ、少しだけ人の気配が増えた。
そこへ、昨日癒やされたエマが母親に手を引かれて現れた。まだ足取りは弱いが、顔色は昨日よりずっとよい。
祭壇の花を見て、目を丸くする。
「お花、ふえた」
「かわいいっしょ?」
「うん」
エマが笑った。
それだけだった。
神官長は、花を片づけろとは言わなかった。
足の悪い老女は、壁際の椅子に座って最後まで祈れたと礼を言った。
若い母親は、救護室の淡い布を見て、子どもが前より怖がらないと思うと小さく笑った。
そうしているうちに、神殿のあちこちは少しずつ変わっていった。
壁際には椅子が置かれた。救護室の布には淡い色が混じり、付き添いのための椅子も増えた。寝台の間には簡素な仕切りまで吊られた。
神官長はそのたびに頭を押さえた。
今までなかったのは、不要だったからではない。
必要だと、誰も口にしなかっただけなのかもしれない。
大きく変わったのは、入口だった。
白百合神殿の正面扉は大きい。高く、重く、子どもが一人で立つには立派すぎた。
「入口、怖っ」
ミカ様は言った。
「神殿の正面でございます」
「いや、門番みたいになってんじゃん。圧やばいって」
また圧である。
「ここにも花置こ」
「祭壇ではありません」
「入り口に花あると、入りやすいじゃん」
「神殿に入る者は、まず心を整え」
「整える前に帰っちゃう人いるっしょ」
神官長は、また黙った。
入口の両脇に、小さな鉢植えが置かれた。
その日の昼、神殿の前でいつも引き返していた少年が、中を覗いた。服は古く、靴には泥がついている。
彼は鉢植えを見て、少しだけ足を止めた。
リナが扉を開ける。
「お入りになりますか?」
少年は迷ってから、小さく頷いた。
白い石床に、泥の跡がついた。神官の一人が反射的に布を持とうとした時、ミカ様が言った。
「あとでよくない? 先に、この子でしょ」
ミカ様は少年の前にしゃがんだ。
「寒くない?」
少年は驚いた顔をし、それから小さく首を振った。
その日の泥の跡は、夕方まで残っていた。
白い床に、泥。
以前なら、すぐに消すべきものだった。
だが、その跡は、誰かが神殿に入ってきた証でもあった。
次は、神像だった。
ミカ様は祭壇を見上げて、しばらく考え込んでいた。
「今度は何でしょうか」
神官長はすでに疲れた顔をしている。
「神ちゃんさ。首元、さみしくない?」
「はい?」
ミカ様は自分のケイタイについていた飾り紐を外した。金色で、透明な玉がいくつも付いている。
「これ、つけたらかわいくない?」
白百合の間が凍った。
「さすがに、それは」
「なんで?」
「神像です。主の御姿です」
「だから、かわいくしたいんじゃん」
神託石が光った。
――よい。
神官長がその場で固まった。
ミカ様は脚立を借り、リナに支えられながら神像の首元へ飾り紐を掛けた。
神官たちは誰も止められない。神が、よいと仰せになったからである。
金色の飾り紐は、白い神像に妙に目立った。あまりにも場違いだった。
だが、朝日を受けて透明な玉が光ると、神像の表情が少し柔らかく見えた。
気のせいだと思いたい。
「神ちゃん、盛れてんね~」
神官長が、もう何かを諦めた顔で神託石を見た。
光るな。頼む。光るな。
神託石が、今日一番強く光った。
――まじ、よい。
大司教が座った。
昨日置かれた椅子に。
役に立ってしまった。
翌朝、神殿は少しだけ変わっていた。
祭壇には花が増えた。壁際には椅子がある。救護室の布は一部が淡い色になった。入口には鉢植えが置かれ、神像の首元には金色の飾り紐が揺れている。
子どもが花を見て笑う。老女が椅子に座る。若い母親が救護室の仕切り布を見て、ほっとした顔をする。泥靴の少年が、入口の鉢植えの横から中を覗く。
白百合神殿は、以前より少しざわついていた。だが、不思議と騒がしくはない。
人の気配がした。
祈りに不要なものを遠ざける。我々は、そう教わってきた。
だが、人の気配まで遠ざけていたのだとしたら。
それでは何のための祈りなのか、私は少し分からなくなった。
ミカ様は神像を見上げた。
「神ちゃん、今日も盛れてる」
神託石が光った。
――まじ、よい。
神官長は目を閉じた。
私は記録用紙の余白を見つめた。
主は、応用を始められた。
それだけは、もう疑いようがなかった。
記録四 まじ、および盛るについて
まじとは何か。
主はこの日、「まじ、よい」と神託された。
ミカ様によれば、まじとは強調であるらしい。ゆえに「まじ、よい」は、「かなりよい」以上の強い肯定と思われる。ただし、神官長はこの解釈に強い難色を示している。
次に、盛る。
盛るとは、髪、爪、衣、道具、空間などに装飾を加え、テンションを上げる行為である。
しかし今日、神殿そのものが盛られた。
花が増えた。椅子が置かれた。救護室に色と仕切りが加わった。入口には鉢植えが置かれた。神像には金色の飾り紐が掛けられた。
結果、これまで神殿の外にいた者たちが、中へ入り始めた。子どもが笑い、老人が座り、母親が息をついた。
これは単なる装飾なのか。
閉じていたものを開くための術なのか。
正直、もう少し様子を見たい。
ただし、主は「まじ、よい」と仰せになった。
なお、ミカ様はこの一連の変更を「魔改造」と称された。文字面だけを見れば、ただちに異端審問を開くべき案件である。
しかし、主は否定されなかった。
それどころか、まじ、よいと仰せになった。
なお、大司教は、しばらく横になられた。




