第3話 神様、ウケるとは何ですか
聞き取りの途中、ミカ様はリナの手首の火傷を見つけ、救護室へ連れて行った。
「お茶より手じゃん」
あまりにも簡単で、こちらが何も返せなくなる言葉だった。
救護室もまた、白く静かで神殿らしい部屋だった。
だが、ミカ様は入るなり顔をしかめた。
「うわ、白っ」
救護係の神官が固まる。
「白すぎない? 病んでる時にこれ、逆にしんどくない?」
さらに、付き添いの椅子が足りないとも言った。
付き添いは廊下で待つのが通例である。祈祷の妨げになるからだ。そう説明すると、ミカ様は首をかしげた。
「子どもとか、親いない方が怖くない?」
救護係は黙った。リナも黙った。私も黙った。
まただ。
短い問いなのに、誰もすぐには答えられない。
ミカ様はリナの手首を冷やし、薬を塗り、しばらく熱いものを持つなと言った。リナが「仕事が」と言うと、「怪我してる人に同じことさせる方がヤバいでしょ」と返した。
私はその日、記録の端にこう記した。
ミカ様、救護室の白さと椅子不足を指摘。
小火傷に薬を使用。
奇跡なし。
ただし、関係者三名、沈黙。
明確な奇跡が起きたのは、その数日後である。
朝の祈祷を終えたあと、神官長はミカ様を救護室へ呼んだ。
理由は、聖女としての適性確認である。
「また聖女って言ってる」
「では、ギャルとしての適性確認です」
「それはそれで何?」
神官長は目を閉じた。
最近、目を閉じる回数が増えた。祈りではなく、耐えるためだと思われる。
救護室には、一人の少女が寝かされていた。
靴職人の娘で、名をエマという。
夜から高い熱が続き、母親が神殿へ連れてきたのだ。小さな額に汗が浮き、呼吸は浅く、手は布の上で固く握られていた。
母親は寝台の横で何度も頭を下げている。
「どうか、この子を」
その声は祈りというより、ほとんど悲鳴に近かった。
神官長は聖典を開いた。
「ミカ様には、癒やしの祈祷を試みていただきます」
「いや、うち祈祷とか知らんし」
神官長は短くまとめた祈祷文を差し出した。
先日の反省が見える。
しかしミカ様は紙面を見て、すぐに顔をしかめた。
「字、読めない」
「では、私が唱えますので、続けてください」
「慈悲深き主よ」
「じひぶかき?」
「はい」
「やっぱ長い」
「長くありません」
「神ちゃんじゃダメ?」
「駄目です」
神官長の声が少し強くなった。
ミカ様は唇を尖らせたが、それ以上は言い返さなかった。
そして寝台の上の少女を見た。
次の瞬間、表情が変わった。
「え、熱やば」
ミカ様は祈祷文を持ったまま寝台のそばへ行った。
「水飲めてる?」
救護係が「昨夜から二口ほど」と答えると、ミカ様はすぐに母親を見た。
「お母さん、寝てないっしょ」
母親がびくりとする。
「顔やばいよ。座って」
ミカ様は、増やされた椅子を指さした。
あの指摘のあと、救護係が一脚だけ置いたものである。
母親は戸惑いながら、そこに座った。
神官長は聖典を持ったまま、何か言おうとしていた。
だが、ミカ様はすでに少女の手を取っていた。
派手な爪が、小さな手を包む。
「エマ?」
母親が驚いた顔をした。
「名前を」
「さっき聞こえたし」
ミカ様は寝台に顔を近づけた。
「エマ、聞こえる?」
少女の睫毛がかすかに震えた。
「怖いよね。しんどいよね」
少女の指が、ほんの少し動いた。
「大丈夫。お母さんここいるから」
ミカ様は母親の手を取り、少女の反対側の手に重ねた。
「握っててあげて」
母親の目から涙が落ちた。
「泣いていいけど、倒れないでね」
少し軽い言い方だった。
だが、母親はその言葉で、初めて息をしたように見えた。
神官長は、まだ祈祷文を持っている。読まれていない。一文字も。
それでも、救護室の空気はもう変わっていた。
香も焚いていない。聖水もない。神官長の許可も、まだ出ていない。
なのにミカ様は、もう少女のそばにいる。
その近さが、私には少し怖かった。
聖女とは、もっと遠くにいるものだと思っていた。祭壇の前に立ち、民の苦しみを神へ届ける者であって、泣いている者の隣に座るものではないと。
だがミカ様は、迷わなかった。
「ねえ、神ちゃん」
神官長が静かに天井を見た。耐えているらしい。
「この子、頑張ってんじゃん」
私は息を止めた。
「お母さんも、めっちゃ頑張ってるし」
神官長の指が、聖典の端を強く掴む。
「こういうの、ちゃんと見てる?」
その瞬間だった。
救護室の白い壁が、淡く光った。
最初は朝日の反射かと思った。違った。
光は寝台の周りから広がっていた。
ミカ様の手。少女の手。母親の手。
三つの手が重なった場所から、白く柔らかな光がこぼれていた。
少女の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。固く握られていた指がゆるみ、赤かった頬から熱の色が薄れていった。
救護係が慌てて額に手を当てる。
「熱が……」
母親が息を呑む。
少女の唇が、かすかに動いた。
「おかあ、さん」
母親は声を上げて泣いた。
ミカ様は、ほっとしたように肩を落とした。
「よかったじゃん」
だが、その場にいた誰も、その言葉を咎められなかった。
神官長は聖典を持ったまま立ち尽くしていた。
「詠唱なし。聖水なし。祭壇なし。正式な祈祷陣もなし」
その声は震えていた。
奇跡は起きた。
我らが長く待ち望んだ、聖女の奇跡。
だが、その形は聖典にあるどの手順とも違っていた。
その時、遠くで鐘が鳴った。
白百合の間の鐘である。誰も鳴らしていない。
「神託石だ」
我々は急いで白百合の間へ向かった。ミカ様もついてきた。
「え、なに? なんか鳴ってんだけど」
「神託です」
「神ちゃん?」
「主です」
白百合の間に入ると、祭壇の神託石が淡く光っていた。神官たちが集まり、大司教もいた。顔色は悪い。昨日からずっと悪い。
神託石の表面に、文字が浮かぶ。
古い神聖語ではなかった。
短い、見慣れない一語。
――ウケる。
誰も動かなかった。
大司教の口がゆっくり開く。神官長は聖典を抱えたまま固まった。私は記録用紙を見下ろした。
ウケる。
ミカ様だけが、神託石を見て笑った。
「あ、神ちゃんウケた?」
大司教が椅子を探した。
神官長が低い声で言った。
「……ミカ様。ウケる、とは」
「面白い、みたいな?」
「主は、今の奇跡を面白いと」
「いや、そういうんじゃなくて。なんか、いいじゃんって感じ?」
「いい」
「いや、説明むず」
ミカ様は困ったように笑った。
「でも、悪い意味じゃないよ。たぶん」
たぶん。
神託に対して、たぶん。
神官長の目が遠くなった。
ミカ様は神託石に向かって小さく手を振った。
「神ちゃん、ノリいいじゃん」
神託石は否定しなかった。むしろ、少しだけ明るくなった。
奇跡が起きたことは喜ばしい。エマが助かったことも、母親が泣きながら笑っていたことも、本当に喜ばしい。
だが。
ウケる。
主は、ウケると仰せになった。
この一語を、後世の神学者たちはどう扱うのだろう。
いや、扱えるのだろうか。
記録三 ウケるとは何か
ウケるとは何か。
主はこの日、初めて「ウケる」と神託された。
当初、私は「受け入れる」に近い神聖語の変形かと考えた。しかしミカ様によれば、「面白い」あるいは「なんか、いいじゃん」に近い意味であるらしい。
なんか、とは何か。いいじゃん、とは神学上どの程度の肯定なのか。詳細は不明である。
ただし、この神託は、靴職人の娘エマの癒やしの直後に下された。エマは高熱により衰弱していたが、ミカ様が手を握り、母親の手を重ね、主へ直接呼びかけたのち、容体が安定した。
正式な祈祷文は用いられていない。聖水もない。祈祷陣もない。香も焚かれていない。しかし、奇跡は起きた。
ミカ様は、祈るより先に病人のそばへ行った。
水を飲めているか。怖くないか。母親は寝ているか。
その問いの後に、奇跡は起きた。
我々はこれまで、神へ届ける言葉を整えることに努めてきた。ミカ様は、まず人へ届く言葉を選んだ。
この差が、何を意味するのかは分からない。
ギャルとは何か。ヘイセイとは何か。ウケるとは何か。
いまだ分からない。
ただ、主は否定されなかった。
それどころか、ウケられた。
このあたりから、記録係である私の眠りは浅くなった。




