第16話 神様、尊いとは何ですか
三日後。
だべり場には、いつもより多くの椅子が並んでいた。
神官長が朝のうちに倉庫から出させたらしい。長椅子が二脚増え、壁際にも四脚。いつもの机は少し端へ寄せられ、その上には『白百合聖典 やさしい解説』と寄せ書きが置かれている。
祭壇も特別な祈祷もない。ただリナが聖典を読み、それを聞きたい者が集まった。
ノアとエマは一番前に座っている。窓辺には老女、少し離れて救護係と、以前朗読の日を尋ねに来た女性。救護室から来た親子や、仕事の合間らしい神官の姿もあった。
私は最後列へ座り、神官長は壁際に立っている。
ミカ様は、いつもの窓辺だった。
「こ、こんなにいらっしゃるのですね……」
入口にリナが立っていた。
胸元に聖典を抱え、左手首には赤と黄色と薄青のミサンガを巻いている。並んだ椅子を見たまま、そこから動かない。
「お、リナ来たじゃん。こっち、こっち」
ミカ様が手を振った。
リナの指が聖典の端を強く握る。
ミカ様はそれを見て、窓辺から降りた。
「無理そう?」
「……少し」
「じゃ、今日やめとく?」
リナが顔を上げた。
神官長もミカ様を見る。
「ミカ様。皆、すでに集まっております」
ミカ様は並んだ椅子を見た。
「でも、別に無理してやることじゃないっしょ。朗読だったら、またできるし」
「私はまた伺いますよ」
窓辺の老女が言った。
救護係も頷く。
「患者の家族にも、日が変わったと伝えるだけです」
神官長はしばらく黙ったあと、自分が用意させた椅子へ目を向けた。
「椅子なら戻せば済みます」
「神官長様まで」
「読むのはあなたです。あなたの思うようになさい」
リナは皆の顔を順に見た。
手首のミサンガ。
机の上の寄せ書き。
もう一度、椅子に座っている者たちを見る。
「……読みます」
小さな声だったが、最後列まで聞こえた。
「そっか」
ミカ様はそれだけ言って、元いた窓辺へ戻った。
リナはだべり場の前へ立ち、机に聖典を置いた。その隣へ寄せ書きを並べると、ノアとエマも座り直す。
神官長が何か言いかけ、そのまま口を閉じた。
リナが息を吸う。
「それでは、読ませていただきます」
少し震える声で告げ、聖典を開いた。
「泣く者のそばに膝をつく者を、主は遠ざけぬ」
まだ声は小さいが、私のいる最後列まで届いている。
「飢えた者へ手を伸ばす者を、主は忘れぬ」
次の一節は、先ほどより少しだけ大きかった。
ノアが口を開きかけると、隣のエマが肘でつつく。ノアは何も言わず、また前を向いた。
「寒き者へ布をかける者を、主は友と呼ぶ」
神官長の眉が僅かに動く。
おそらく何か思うところがあったのだろう。
それでも、口は開かなかった。
リナは続きを読む。
初めのうちは一節読むたびに寄せ書きへ目をやっていたが、やがてその回数も減っていった。
途中で、救護室から来た幼い娘が咳をした。
リナの声が止まりかける。
母親が娘の背を撫で、それからリナへ小さく頭を下げた。リナも僅かに頷き、頁へ目を戻す。
その少し後だった。
一行、飛ばした。
私は気づいた。
神官長も気づいたらしい。
そして、リナ自身も。
「……あ」
声が止まった。
リナの指が頁を辿り、飛ばした一文のところで止まる。
「すみません。一行、飛ばしてしまいました」
顔が赤くなった。
だべり場は静かなままだった。
ノアが立ち上がりかけて座り直し、エマも開きかけた口を閉じる。神官長の手も僅かに動いたが、それ以上は動かなかった。
リナは聖典を見つめている。
表紙の端へ指がかかり、少しだけ本が閉じかけた。
その時、寄せ書きが淡く光った。
失敗しても、別によくない?
ミカ様の文字だった。
リナの指が止まる。
続いて、老女の文字が光った。
急がなくて大丈夫です。
リナがゆっくり息を吐く。
最後に光ったのは、神官長の文字だった。
あなたが読む言葉は、もう届いています。
光が消えても、飛ばした一文はそのまま頁の上に残っている。
リナは目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。
それから、自分で指を戻した。
「……少し戻って、もう一度読ませてください」
誰も何も言わなかった。
ただ、次の言葉を待った。
「己の言葉のみを語る者は、隣人の渇きを知らぬ」
声が出る。
「耳を傾ける者は、その声の奥にあるものを知る」
先ほど飛ばした一文も読み、そのまま先へ進んだ。
そこからリナは、一度も寄せ書きを見なかった。
たどたどしさは残っている。時々つかえ、息を吸う場所を迷うこともあった。
それでも、自分で読み進めていた。
神官長は途中から、手にしていた聖典を閉じている。
やがて最後の頁に入った。
「泣く者のそばに膝をつく者を、主は遠ざけぬ」
「飢えた者へ手を伸ばす者を、主は忘れぬ」
リナの声が、だべり場を通る。
「寒き者へ布をかける者を、主は友と呼ぶ」
最後の一文を読み終え、リナが顔を上げた。
誰も席を立っていなかった。
ぷつり。
小さな音がした。
赤と黄色と薄青の糸が、リナの手首から床へ落ちる。
「……ミサンガが」
リナが呟いた。
ミカ様が近づき、落ちたミサンガを拾う。
「リナのお願い、叶った?」
リナは何も巻かれていない自分の手首を見た。
「私、一行飛ばしてしまいました」
しばらく手首を見ていたが、やがて小さく笑った。
「……それでも、ちゃんと読めました」
「読めた!」
ノアが立ち上がった。
「僕、最後まで聞いた!」
「私も!」
エマも椅子から立ち上がる。
「一回間違えたけど、ちゃんと最後まで聞いたよ」
「それは言わなくてもよいのではありませんか」
神官長が言った。
「でも間違えたじゃん」
「本人が最もよく分かっています」
老女は目元を押さえながら笑っている。
リナはそんな皆を見てから、聖典を胸元へ抱えた。
「最後まで聞いてくださって、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
白百合の間から鐘が鳴った。
回廊の向こうで神託石が光る。
浮かんだ文字は、短かった。
――伝わった。
リナが顔を上げる。
しばらく神託石を見たあと、胸元の聖典へ目を落とした。
「……はい」
誰に向けた返事だったのかは分からない。
その時、一人の女性が椅子に座ったまま、何とも言えない顔でリナを見ていることに気づいた。
以前、朗読の日を尋ねに来た女性だった。
「どうかされましたか?」
リナが声をかけると、女性は慌てて首を振った。
「い、いえ。リナさんの朗読は、とても素晴らしかったです」
「ありがとうございます」
「ですから、余計に……」
女性は少し言いにくそうに、膝の上で手を重ねた。
「母にも聞かせてあげたかったと思いまして」
「お母様に?」
「足が悪くて、今日はここまで来られなかったのです。昔はよく聖典を聞いていたのですが」
女性は困ったように笑った。
「ですが、朗読会は今日だけですものね」
リナが目を瞬かせた。
「今日だけ……」
「だそうですよ。リナ」
神官長の声がした。
リナが振り返る。
神官長は壁際からこちらを見ている。
「どうしますか」
リナはしばらく何も言わなかった。
自分の手首を見る。
そこにはもう、ミサンガはない。
次に、胸元の聖典へ目を落とした。
「……もう一度」
顔を上げる。
「もう一度、やらせていただけますか?」
神官長は少しだけ目を細めた。
「あなたが望むのであれば、何度でも」
珍しく、口元が少しだけ緩んでいる。
「私は止めるつもりはありませんよ」
リナの目が大きくなった。
それから、笑う。
「では、また読ませてください」
「母に伝えます」
女性も笑った。
「きっと喜びます」
「次も僕来る!」
「私も!」
ノアとエマが続けて声を上げる。
老女は何も言わず、何度も頷いていた。
ミカ様は切れたミサンガを指先に乗せ、リナを見る。
「次のお願い、もういらなそうじゃん」
リナも自分の手首を見た。
「そうかもしれません」
白百合の間から、もう一度鐘が鳴った。
神託石が、先ほどよりも強く光る。
大きな文字が浮かんだ。
――尊い。
誰もすぐには口を開かなかった。
「主よ」
やがて、神官長が神託石へ向き直る。
「尊いとは、何がでしょうか」
返事はない。
「リナの朗読でしょうか。それとも、次の朗読を自ら望んだことを指しておられるのでしょうか」
文字は増えなかった。
「主よ。対象を明確にしてくだされ」
「でも神ちゃん、答える気なくない?」
ミカ様が言った。
「神託の正確な記録のためなのですが」
ミカ様は神託石を見てから、もう一度リナを見る。
切れたミサンガ。
胸元の聖典。
まだ少し赤い顔で、先ほどの女性と次の朗読について話しているリナ。
「……でも、なんか分かるかも」
「お分かりになるのですか」
「説明はできんけど」
「では、分かっていないのでは」
「分かるけど説明できない時あるじゃん」
「ありません」
「あるって」
神託石が強く光った。
――尊い。
「主よ。繰り返せばよいというものではありません」
返答はなかった。
### 記録十六 尊いについて
尊いとは何か。
本来は、価値が高いものや敬うべきものを示す言葉である。
しかし本日、主はリナが二度目の朗読を望んだ直後、
――尊い。
と神託された。
何を指しているのかは不明である。
その少し前には、
――伝わった。
との神託もあった。
こちらについては、リナの朗読を指しているものと思われる。
実際、朗読を聞いた女性の一人は、今日来られなかった母親にも聞かせたいと申し出た。
リナは、
「もう一度、やらせていただけますか?」
と答えた。
三日前。
朗読の日を決めた時、リナは逃げたいと話していた。
本日も、始まる前には中止することを迷っていた。
途中で一行を飛ばし、一度は本を閉じかけた。
それでも最後まで読み、ミサンガは切れた。
その後、自ら次の朗読を望んだ。
以上が、本日確認できた事実である。
これらのうち、どの部分を主が、
尊い。
とされたのかは、いまだ特定できていない。
神官長は、
「一つずつ条件を切り分ける必要があります」
と言っている。
ミカ様は、
「全部じゃない?」
と言っている。
私としても、今回はミカ様の意見に近い。
ただし、正式な記録へ、
全部、尊い。
と記すわけにはいかない。
いかないのだが。
先ほどから、この記録の余白へ三度、
尊い。
と書きかけている。
二度は消した。
三度目は、神官長に見つかった。
「何を書いているのですか」
「記録です」
「今、尊いと書きませんでしたか」
「書いておりません」
「見ました」
「では見間違いです」
神託石が光った。
――尊い。
「主よ」
記録者まで用法不明の異界語に侵食されることについては、別途検討が必要である。
なお、次の朗読日はまだ決まっていない。
決まっていないだけで、次はある。
これは、記録しておいてよいだろう。
ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
3章はこれにて、完。
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