第15話 神様、推しとは何ですか
指示コメがよくないと神託されてから、リナの朗読練習は静かになった。
正確には、静かすぎた。
「泣く者のそばに膝をつく者を、主は遠ざけぬ」
だべり場にはノアとエマがいて、老女も窓辺に座っている。少し離れた場所では、神官長が聖典を開いていた。
誰も口を挟まない。
「飢えた者へ手を伸ばす者を、主は忘れぬ」
次の一節で語尾が少し揺れ、神官長の眉が動いた。
それでも何も言わない。
ノアも何か言いたそうに口を開きかけて閉じ、エマに至っては両手で自分の口を押さえていた。
「寒き者へ布をかける者を、主は友と呼ぶ」
リナが読み終えて顔を上げても、誰もすぐには口を開かなかった。
「あの……終わりました」
「うん。ちゃんと聞こえた」
ノアが言う。
「私も。今日は途中で分かんなくならなかったよ」
エマもようやく口から手を離し、老女が微笑んだ。
「とても聞きやすかったですよ」
リナは少し安心したように息を吐いたあと、神官長を見る。
「神官長様は、いかがでしたか」
「改善できる点はいくつかあります」
全員の視線が神官長へ集まり、白百合の間で神託石が一度光った。
神官長はしばらく黙ってから、聖典へ目を戻す。
「……今日は申しません」
指示コメという言葉の正確な意味は、いまだ誰も知らない。
しかし、神官長にはよく効いていた。
リナは小さく笑い、また頁へ目を落とした。
練習を始めた頃より声は通るようになったが、まだ時々つかえ、人が増えると頁を持つ手にも力が入る。それでも、途中で本を閉じることはなくなっていた。
聖典の隣には、いつも寄せ書きが置かれている。
リナはその日も続きを読んだ。
途中で、救護室から戻ってきた母親が足を止め、少し離れたところで聞き始めた。花を替えに来た娘も手を止め、回廊を通っていた若い神官まで壁際へ寄る。
誰も声はかけなかった。
頁をめくった時、リナがようやく顔を上げた。
聞いている者が増えている。
一瞬だけ声が小さくなり、視線が寄せ書きへ落ちた。
あなたが読む言葉は、もう届いています。
神官長の文字が淡く光る。
リナは一度息を吸い、また続きを読む。
そのまま最後まで読み終えると、聞いていた者たちはそれぞれの仕事へ戻っていった。
救護室へ戻ろうとした母親だけが、リナの前で足を止める。
「ありがとうございました」
「え?」
「久しぶりに、ゆっくり聖典を聞けました」
小さく頭を下げて去っていく背中を、リナはしばらく見送っていた。
数日もすると、今度は神殿のあちこちで声をかけられるようになった。
「リナさん」
朝、正面扉を掃除していたところを、一人の女性が呼び止める。
神殿では何度か見かけたことがあるが、だべり場へ来る者ではない。
「何でしょうか」
「朗読をなさる日は、もう決まりましたか?」
リナの箒が止まった。
「朗読……ですか」
「皆さんの前で聖典を読まれると聞きました」
「どちらで、その話を」
女性が少し離れたところを指さす。
鉢植えへ水をやっていたノアと目が合った。
「言ったよ」
「まだ日も決めていないでしょう」
「でも読むんでしょ?」
「それは……そのつもりですが」
女性が困ったように笑った。
「決まりましたら、教えてください。聞きに来たいので」
「私の朗読を、ですか?」
「ええ」
そう答えて、女性は聖堂の方へ歩いていった。
その日の昼には別の者からも尋ねられ、夕方には救護係までやってきた。
「患者のご家族が、朗読の日を知りたいそうです」
その頃には、リナはだべり場の机へ突っ伏しかけていた。
「どうしてでしょう……」
珍しい姿だった。
ミカ様が隣の椅子を引く。
「何が?」
「どうして、皆様が私の朗読を聞きたがるのか分からないのです」
「リナが読むからじゃない?」
「そこが分からないのです」
リナは顔を上げた。
「聖典を聞きたいのでしたら、神官長様に読んでいただく方がよいでしょう。発音も正確ですし、聖典の意味も私よりずっとご存じです」
少し離れたところにいた神官長が顔を上げる。
「技術について言えば、その通りです」
「自分で言うんだ、それ」
ミカ様が言う。
「事実ですので」
リナは神官長を見る。
「でしたら、やはり神官長様が」
「私は読みません」
返事が早かった。
「私の朗読なら、いつでも聞けます。皆が聞きたいのはあなたの朗読なのではないのですか」
それでも納得できないらしく、リナは眉を寄せた。
その横で、ノアが鉢植えから顔を上げる。
「僕に最初に読んでくれたのはリナなんだよ」
「最初?」
「僕が、これ何って聞いた時」
ノアは机の上の『やさしい解説』を指した。
「リナが読んでくれた」
エマも隣から口を挟む。
「私、リナの声好きだよ」
「神官長様のお声も立派でしょう」
「神官長は……怖い」
神官長が咳払いをすると、老女が茶器を置きながら小さく笑った。
「私は、リナさんが聖典を手に取るようになった頃から見ていますから」
「私を、ですか?」
「ええ。最初は少し読んでは、誰かに見られていないか気にしておられました」
リナの顔が赤くなる。
「そんなところまで」
「人が集まって、途中で本を閉じてしまったこともありましたね」
「……覚えていらっしゃるのですね」
「覚えていますよ。だから、今度は最後まで聞いてみたいのです」
リナは返事をせず、膝の上で手を重ねた。
ミカ様が頬杖をつく。
「上手い人が見たいんじゃなくて、リナが見たいってことでしょ」
白百合の間から鐘が鳴った。
すでに光っていた神託石の表面に、文字が浮かんだ。
――それ、推し。
誰もすぐには意味を掴めなかった。
「推し」
神官長が復唱する。
私にも分からない。
ミカ様だけが少し首を傾げた。
「推し?」
「ご存じなのですか」
「推しメンとかなら聞いたことあるけど」
「推しめん」
「好きな人っていうか、応援してる人っていうか」
神託石が光った。
――だいたい、そう。
神官長が石へ向き直る。
「主よ。推しとは、どのような存在なのでしょうか」
神託石には、短い言葉が一つずつ浮かんだ。
――見たい。
――応援したい。
――うまくいってほしい。
最後に少し間を置いて、
――そう思う相手。
神官長は並んだ文字を読み返す。
「友とは異なるのでしょうか」
――似ているが、違う。
「どのように」
そこから先は何も浮かばなかった。
「主よ」
光まで消える。
「説明を途中で止めないでください」
「神ちゃんも、ふいんきで言ってるだけなんじゃない?」
「その可能性は、否定したいのですが……」
リナは、文字が消えた神託石を見ていた。
「では、皆様は……私を推してくださっているのでしょうか」
「そうなんじゃない?」
ミカ様が答える。
リナは少し迷ってから口を開いた。
「でも、私より上手に読める方はたくさんいます」
「じゃあ、ノアは、上手いからリナがいいの?」
急に聞かれ、ノアが首を振る。
「違う。リナだから」
「おばあちゃんも?」
「ええ」
ミカ様はもう一度リナを見る。
「ほら。上手いか下手かじゃないんだって」
リナが何か言おうとして、結局口を閉じる。
神官長も手にしていた聖典を閉じた。
「少なくとも、誰を応援するかを決めるのは、応援する側でしょう」
ミカ様がそちらを見る。
「神官ちょーは誰推しなん?」
「おりません」
神官長の言葉は明らかにミカ様の言葉を遮っていた。
神託石が少し光った。
神官長は見なかったことにしたらしい。
「で、いつ読むの?」
ノアに聞かれ、リナの肩が跳ねる。
リナは手首のミサンガに触れたあと、机の上の寄せ書きへ目を向けた。
ノア、エマ、老女、神官長、ミカ様。
そこから白百合の間へ視線を移し、顔を上げる。
「三日後にします」
ノアが目を丸くした。
リナは一度息を吸った。
「三日後の午後。祈祷が終わったあと、ここで読ませてください」
「分かった。僕来る」
「私も聞く」
エマが続き、老女も微笑んだ。
「楽しみにしております」
神官長はすでにだべり場を見回している。
「では、椅子を少し増やしておきましょう」
白百合の間から鐘が鳴り、神託石に文字が浮かんだ。
――予定、把握。
「神ちゃんも来んの?」
少し間を置いて、
――いる。
「ずっといるじゃん」
ミカ様が笑った。
神託石は否定しなかった。
その日の夜、リナは一人で寄せ書きを広げ、紙の端に「三日後」と小さく書いていた。
書き終えてからもしばらくその文字を見つめている。
頁をめくる指が、僅かに震えた。
「緊張してんの?」
後ろから声をかけられ、リナが振り返る。
「ミカ様。いつからいらしたのですか」
「今来たとこ」
ミカ様は隣の椅子を引いた。
「三日後だね」
「日を決めたら、急に怖くなりました」
「逃げたい?」
リナは少し考えた。
「……少しだけ」
「そっか」
それ以上何も言われないため、リナの方からミカ様を見る。
「止めないのですか」
「何を?」
「逃げないように、と」
「逃げたいなら、逃げればよくない?」
「そうなのですか?」
「でも、リナ読みたいんでしょ?」
リナは寄せ書きへ目を落とした。
「……読みたいです」
ミカ様はそれ以上何も言わず、隣の椅子に座っていた。
やがて寄せ書きの端が淡く光り、何もなかった余白に新しい文字が浮かんだ。
――我も、リナ推し。
リナが文字を見たまま固まる。
ちょうど回廊を通りかかった神官長も足を止める。
「主が、特定の一個人を推しとされたのですか」
「応援してるだけなんだったらいいんじゃないの?」
リナは浮かんだ文字と白百合の間を何度か見比べていたが、やがて少しだけ笑った。
「……では、三日後」
寄せ書きを胸元へ寄せる。
「最後まで、聞いていてください」
白百合の間から、淡い光が届いた。
### 記録十五 推しについて
推しとは何か。
本日の神託によれば、
見たい。
応援したい。
うまくいってほしい。
そのように思う相手を指すらしい。
友と似ているが、同じではないとのことである。
ここまでは、まだ理解できる。
問題は、その後である。
主ご自身が、
――我も、リナ推し。
と表明された。
神官長によれば、神が特定の一個人を「推す」という状態が、従来の神学において何に分類されるのかは不明とのことである。
「主より特別な加護を受ける者、という意味では、聖女や勇者に近いのでしょうか」
「リナが勇者?」
「そうは申しておりません」
「でも今言ったじゃん」
「分類上の可能性を検討しているだけです」
私も考えた。
主が見たいと思う。
応援したいと思う。
うまくいってほしいと思う。
これは、神の寵愛に含まれるのだろうか。
あるいは、加護の一種なのか。
しかし、リナが勇者というのは、やはり何か違う気がする。
そもそも、本人は三日後に聖典を読むだけである。
ミカ様は、
「別によくない?」
との見解であった。
現在、特に問題は起きていないため、分類については保留とする。
朗読の日は三日後となった。
現在、参加を希望している者は七名。
主を数に含めるべきかについては協議中である。
なお、本日、私は神官長へ尋ねた。
「神官長にも、推しはいらっしゃるのですか」
「おりません」
神託石が光った。
――いる。
「主よ」
続けて文字が浮かぶ。
――解像度、まだ低い。
「存在しないものの解像度を測らないでください」
ミカ様が横から神官長を見る。
「また神官長さんが知らんこと、神ちゃんだけ知ってんじゃん」
「何もありません」
神官長の推しについては不明である。
本人は存在そのものを否定しているが、主は否定していない。
主には何が見えておられるのか。その答えはいずれ分かるのだろうか。




