第12話 聖女様、ミサンガとは何ですか?
リナは最近、よく聖典を読む。
正確には、読めるようになったことが嬉しいらしい。
白百合神殿のだべり場には、『白百合聖典 やさしい解説』が何冊か置かれている。正式な聖典より文字が大きく、古い神聖語には現在使われている言葉で説明が添えられていた。
なお、初期案として提出された、
『神ちゃんの言ってること、だいたいこう』
という表題は採用されなかった。
主は最後まで少し光っておられたが、採用されなかった。
その日の午後、リナは窓辺で一冊の解説書を開いていた。
隣にはノアがいる。
「これ、なんて書いてあるの?」
ノアが指さしたのは、隣人について記された一節だった。
リナは頁へ顔を近づける。
「ええと……困っている人を見た時、自分には関係ないと思って通り過ぎてはいけません」
「なんで?」
「なんで、と言われましても……そうですね」
リナはもう一度、該当する箇所を目で追った。
「困っているのを見つけたのに、知らないふりをしてはいけない、ということでしょうか」
「知らない人でも?」
「そうだと思います。知らない人でも、困っていたら声をかけましょう、と」
「神ちゃんが言ってるの?」
「はい。そういうことだと思います」
ノアは白百合の間の方を見た。
「神ちゃん、知らない人にも声かけるの?」
遠くで神託石が一度光った。
おそらく、肯定である。
「だって」
「主は便利に会話へ参加するものではありません」
通りかかった神官長が言った。
神託石がもう一度光る。
「率先して参加しておられる様に見えますが」
私が言うと、神官長は聞こえないふりをした。
リナは小さく笑い、また頁へ目を戻した。
その声を聞いていたのか、近くで茶を飲んでいた老女が椅子を少し寄せる。
「続きを読んでくださる?」
「私が、ですか」
「ええ。最近、目が疲れやすくて。よければ聞かせてほしいのです」
リナは戸惑いながらも本を持ち直した。
「でしたら……少しだけ」
読み始めた声は小さかったが、一行、二行と進むうちに少しずつ通るようになった。
以前のリナなら、聖典を手に取ること自体をためらっていただろう。自分が開くものではないと思っていたからだ。
今は、ノアが指をさせば頁を覗き込み、意味を考える。老女に頼まれれば、そのまま声に出して読む。
いつの間にか、エマまで近くへ来ていた。
「続きは?」
声をかけられたリナが顔を上げ、自分の周りに人が集まっていることに気づいた。
そこで声が止まった。
「どうしたの?」
「いえ。その……」
リナは急いで本を閉じた。
「続きは、神官様に読んでいただいた方がよいかと」
「なんで?」
「私が皆様の前で読むようなものではありませんから」
ノアが首をかしげる。
「でも、さっき読めてたよ」
「読めることと、人前で読むことは違うのです」
「何が違うの?」
子どもの「なんで」は、なかなか逃がしてくれない。
リナは閉じた本を見下ろしたまま、答えに困っていた。
窓辺に座っていたミカ様が顔を上げる。
「リナ、読むの嫌なん?」
「いえ。読むことは好きです」
返事は早かった。
「じゃあ、読めばよくない?」
「ですが、私は神官ではありません。聖典を皆様の前で読むような立場では……」
「でもさっきは読んでたじゃん?」
「それは、ノアに聞かれましたし、こちらの方にも頼まれたので」
リナは困ったように本を抱え直した。
ミカ様はしばらく、その様子を見ていた。
「ほんとは読みたいんじゃないの?」
リナの指が、本の表紙を少し強く握った。
「……いつかは」
「いつか?」
リナはそこで口を閉じ、少し迷ってから首を振った。
「いえ。何でもありません」
「そっか」
ミカ様はそれ以上聞かず、窓辺へ戻っていった。
私は、もう一度くらい、
「読みたいなら読めばよくない?立場とか関係ないじゃん」
などと言うものだと思っていた。
けれど、ミカ様は口を出さなかった。
最近ミカ様の言動が予測できるようになったかとも思っていたが、まだまだ読めない。
リナも本を抱えたまま、しばらくそこに座っていた。
午後、リナは作業室で布の補修をしていた。
神殿では、救護室の仕切り布や椅子へ敷く布が増え、それだけ直すものも増えている。
リナ本人は、
「使われているということですから」
と笑っていた。
作業台には、白、薄青、赤、黄色と、補修用の糸が並んでいる。色のある布が増えたため、以前より種類も多くなっていた。
そこへミカ様がやってきた。
「リナ、それ使っていい?」
「補修に使う分が残れば。どの糸でしょう」
「このへん」
ミカ様は赤と黄色、それから薄青の糸を何本か取った。
「そんな使わないから大丈夫っしょ」
三色の糸を指先でまとめ、その場で編み始める。
私はちょうど午後の記録を確認するため、作業室の前を通っていた。
「何を作っておられるのですか」
「ミサンガ」
また知らないものが現れた。
「みさんが、でよろしいですか?」
「うん」
「何に使用するものですか。見たところ、紐のようにしか見えませんが」
「願い事するやつかな」
私は羽根ペンを取り出した。
「願望成就用の祭具ということですね」
「祭具って何?祭り関係ないよ?」
そこへ神官長も通りかかった。
「願いを込めて、身体へ装着するのですか」
「そうそう。たぶんずっとつけとく感じ」
「願いはどのようにして叶うのですか?」
「ミサンガが切れたら、その時願いが叶うってカンジ」
神官長の顔が険しくなった。
「それは、呪具ではありませんか」
「なんでそうなんの?」
「願望を込めて身体へ装着し、自然断裂をもって成就の兆しとするのでしょう」
「難しい言い方するなぁ。まあ、あってっけど」
「では呪具です」
「アクセだし」
私は記録用紙へ書いた。
異界の装身具ミサンガ。
願望を込め、身体へ装着。
自然断裂時、願望成就。
分類については協議中。
「ねえ、その記録怖いから消してよ。呪いとかじゃないし」
「まだ書いておりません」
「うそつきー、絶対書いてたじゃん」
書いていた。
ミカ様は気にせず三本の糸を編んでいる。
「しかし、願いを込めるということは、何らかの祈祷が必要なのではありませんか」
「祈祷ってお祈りっしょ?いらないんじゃない?」
「では、どうやって願いを定着させるのです」
「え、つけるときに考えるだけでいいんじゃないの?」
「いえ、私は存じ上げませんが」
神官長が頭を押さえた。
「異界の儀礼は、なぜ毎回こう……」
「簡単でよくない?」
「簡単すぎるのです」
「願い事なんか簡単なほうがいいじゃん。難しくしても叶うか分かんないし」
神官長の手が止まった。
ミカ様はそのまま糸を編んでいる。
私も羽根ペンを紙へつけたまま、次に何を書くべきか分からなくなった。
やがて、赤と黄色と薄青の細い編み紐が完成した。
ミカ様はそれを持って立ち上がる。
「リナ、ちょっと手出して」
「手ですか?」
「うん。こっち来な」
差し出された手首へ、ミカ様がミサンガを巻く。
リナは目を瞬かせた。
「これを、私にくださるのですか?」
「そだよ。これは、リナの分ね」
「ですが、これは願い事をするものなのでしょう?」
「なんかあるっしょ。願い事くらい」
リナの視線が、作業台の端に置かれた『やさしい解説』へ向かい、すぐに戻った。
「願い事は……ミカ様にお伝えしなくてもよいのですか」
「確か、願い事は誰にも言わない方が効果あったんじゃなかったっけ。あんま覚えてないけど」
「そんな決まりがあるのですね」
「いや、たぶんねたぶん。うちも昔つけてたけど、細かいルール忘れたし」
神官長が低い声を出す。
「重要な儀礼規則を、たぶんで済ませないでください」
「だって昔だしぃ」
「では、切れた時に願いが叶うという部分も確かではないのでは」
「そこは間違わなくない?だって切れたら願いが叶うのがミサンガじゃん」
「いえ、私は存じておりませんが……」
ミカ様はリナの手首で結び目を作った。
「これでよし」
赤と黄色と薄青の糸が手首で揺れる。
リナはそれを見つめた。
「何を願えばよいのでしょう」
「それ、うちに聞く?」
「いえ。ただ、急に願ってよいと言われても、何を願えばよいものか」
「なんでもいいんじゃない?」
ミカ様は結び目を指先で整え、顔を上げた。
「まあ、今無理に決めなくてもいいし、後でもいいんじゃない?」
白百合の間から鐘が鳴った。
神官長が天井を見る。
「主よ」
最近、神官長の「主よ」は、同じ二文字でも毎回少しずつ違って聞こえる。
今回は、かなり「またですか」に近かった。
我々は白百合の間へ向かった。
光る神託石の表面へ、静かに文字が浮かぶ。
――願うこと、よい。
神官長が頭を下げた。
「主もまた、人の願いを肯定しておられるのでしょう」
「じゃあ神ちゃんも応援する?」
ミカ様が尋ねると、神託石が強く光った。
同時に、リナの手首へ巻かれたミサンガも淡く輝く。
神官長がすぐにそちらへ目を向けた。
「ミカ様。糸に主の御力が宿っています」
「へ、そなの?」
「間違いありません。僅かですが、神聖力を感じます」
私にも、糸に残る淡い光が見えた。
「願望成就の加護でしょうか」
「難しい言い方しないと喋れんの?」
「では、どのような加護なのですか」
「知らんし。うちじゃなくて、神ちゃんに聞きなよ。応援してるだけじゃないの?」
神官長は答えず、リナも自分の手首を見た。
「応援、ですか」
「神ちゃんも、叶うといいって思ってるんでしょ?」
ミカ様が神託石を見上げる。
石は一度だけ光り、それ以上は何も示さなかった。
リナはしばらく、淡く光る糸を見つめていた。
まだ切れてはいない。
何を願ったのかも、誰も知らない。
その夜、私は記録室へ戻る途中で、だべり場に明かりが残っていることに気づいた。
覗くと、リナが一人で座っている。
机の上には『やさしい解説』が開かれ、左手首には昼間のミサンガが巻かれていた。
リナは糸を指でそっとなぞる。
「……いつか、皆様の前でも、ちゃんと読めますように」
ミサンガも神託石も光らなかった。
リナはしばらく手首を見つめたあと、聖典へ目を戻した。
頁を開き直し、誰もいないだべり場で声を出す。
「泣く者のそばに膝をつく者を、主は遠ざけぬ」
一度止まり、もう一度読んだ。
今度は、先ほどより少しだけ大きな声だった。
私は声をかけず、そのまま記録室へ戻った。
今は、記録にだけ残しておく。
### 記録十二 ミサンガについて
ミサンガとは何か。
複数の色糸を編み、手首などへ装着する異界の装身具である。
装着時に願いを込め、自然に切れた際、その願いが叶うとされている。因果関係は不明であり、祈祷も術式も不要。願望を他者へ申告する必要もないらしい。
ミカ様ご本人も、詳細な規則については、
「忘れた」
とのことである。
異界文化の記録者として、もう少し真面目に覚えていてほしい。
なお、本日リナへ渡されたミサンガには、主の神聖力が宿った。
現時点で確認できる効果はない。
ミカ様はこれを、
「神ちゃんも応援してるだけ」
と説明された。
応援とは何か。
本日の事例だけでは、まだ分からない。
少なくとも、主はリナが何を願ったのか尋ねず、そのまま糸を光らせた。
願いの中身を知らなくても、
「叶うとよい」
と思うことはできるらしい。
それならば、神聖力がなくても我々にできることはあるのかもしれない。
翌朝、神官長の左手首にもミサンガが巻かれていた。
「神官長。その腕のものは」
「見れば分かるでしょう。昨日のミサンガです」
「では、何か願い事をされたのですか」
「しておりません。ミカ様が余った糸で作られたため、受け取っただけです」
そこへミカ様が現れた。
「あ、つけてんじゃん。ちゃんと願い事した?」
「していません」
「蜂蜜パン食べ放題とか?」
「そのような願いはありません」
神託石が光った。
――叶うと、よい。
神官長が白百合の間を振り返った。
「主よ。何をですか」
返答はなかった。
ミカ様は神官長の手首を見て笑っている。
「神ちゃん、なんか知ってんじゃない?」
「わ、私は何も願っておりませんよ?!」
神官長の願いについては不明である。
本人も、知らない可能性がある。
お待たせしました。
第3章開始です。
全て5話。全て執筆済みなので、最後までお付き合いいただけると幸いです
完全に番外編もございます
『聖女様、HOT LIMITとは何ですか。――主よ、夏を刺激しないでください!!』
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