027-1「ぜっーーたい、嫌」
「勉強しよう」
朝、起きた私の横で仁王立ちになっている南葵がそう言った。
やけに朝日が眩しいと思えば、なかなか起きない私に痺れを切らしたのか南葵がカーテンを開けていた。
何故南葵がここにいるのかも分からないし、何故急に勉強しようと思ったのかも分からないし、何故たくさんの教材が机の上に置かれているのかも分からない。
けれど私の答えは既に決まっていた。
机に載っている本はまさに悪魔の書。あれ程までにに分厚い教材である事も意味が分からないし、文字がぎっしり書いてある意味も分からない。
何より私が勉強しなければならない意味も分からない。
「ぜっーーたい、嫌」
私の頬は膨れていた。南葵の方は見ずに、窓の方ばかりを向いていた。だからこそ南葵がどんな表情していたのかも分からない。
元の世界にいた時から勉強は好きではない。勉強が楽しいと感じていた時期もあったかもしれないが、今ではそれを感じ取る事も出来ない。何故嫌いになったのか。それを思い出すだけでお腹の中に黒いものがたまりそうだ。
南葵が何かを言おうとする気配を察し、言わせるものかと、我先に叫んだ。
「…………絶対に、いやっ!」
私はそれだけ言うと部屋から飛び出して行った。
「っおい!」
南葵が私を止める声がしたけれど、それを聞く事なく走って逃げた。
晴れていたはずの空はどこか陰っており、雲が空を覆い始めた。
「っはあ……」
必死に走る廊下も、普段と少し違う色に見える。まるで全てに靄がかかったような、水の中に落ちたような。どこがはっきりとしない景色の中を全力で走る。年上とはいえ南葵は私よりも少し背が大きい程度だ。私が全力で走っているのを追いかけるのは苦労するだろう。とはいえ私より歩幅も大きい南葵が私に追いつくのも時間の問題だろう。
あぁ、どうすれば逃げ切れるだろうか。いつか捕まると分かっていたとしても、どうしても必死に逃げたい理由がある。一度足を止めてみれば遠くの方からかけてくる足音が聞こえる。
確証はないが、恐らく南葵のものだろう。私が通ってきた道の方からその足音が聞こえてくるのだから。
隠れる場所もない。逃げる場所もない。まるで悪魔にでも追いかけられてるような感覚に心がすくむ。決して南葵が怖い訳ではない。南葵に捕まった時にもたらされるであろう勉強が怖いのだ。
どうしてこういう時ばかりは、南葵の方向音痴が発動されないのだろうか。目的があれば迷わないという特殊な魔法でもかかっているのだろうか。実に便利な事だ。
「……っ」
だんだんと腹も痛くなってきて、走る事も億劫になってくる。
そこでふと視界に入ったのは、南葵の研究室。けれども、そこに入るのは『飛んで火にいる夏の虫』というものだろう。
「績。ここに聖女様が来なかったか」
息を切らせた南葵が慌てたように医務室に入ってくる。とても焦ったような声だ。今出ていったのならば、とても大きな声で叱られそうだ。
「いいえ、来ていませんが。……どうかしたのですか?」
績はただ事ではない南葵の声に眉をしかめながら状況を尋ねる。
「……勉強しようって言ったら逃げられた」
「なるほど、分かりました。それでは聖女様を見かけたら、お部屋に戻るように伝えておきますね」
「頼む」
南葵はそれだけ言うと、すぐに部屋の外へと出て行った。遠くへ向かって行く激しい足音が、医務室の中まで響き渡る。それが聞こえなくなった頃に漸く私は息を吐く事が出来た。
「…………もう出てきてもいいですよ」
績のその言葉に、私は漸く隣の部屋の扉を開けて出てくる事が出来た。
「…………」
私は何とも言えない表情で績を見る。私はここに来た理由を績に話してはいない。ノックもせずここを訪ねて、「助けてっ!」そう言い、無断でベッドがある隣の部屋に飛び込んだのだ。
績の返事も待たずにその扉へと駆け込んだものだから、績が本当に助けてくれるかどうかの確証はなかった。けれども理由を話せば、績は呆れて私を助けてくれないかもしれない。そう思いどうしても話す事が出来なかった。
気まずさから、自身の服の裾を掴み、俯く。績がどのような表情をしているのか分からない。呆れているかもしれない。もしくは面倒に思っているのかもしれない。将又、怒っているのかもしれない。
何も言わない紬は、ゆっくりと私の方へと近寄ってくる。ここからどのような行動に出るのか。それが全く予想出来なくて、ビクリと体を震わせる。服を握りしめる手が痛い。
「聖女様」
はっきりとした声とは異なり、績の声はどこまでも優しかった。
「……」
そして績の顔も、とても優しいものだった。
「……怒らない?」
「怒る理由がありません」
私の手を取った績の手はとても暖かかった。そこで漸く私は自分が寝巻で裸足のまま走り回っていた事に気がついた。
ソファに連れて行かれ、績が毛布をかけてくれた事で、自分の体がとても冷えてる事にも気がついた。
ぶるりと震える足を擦り合わせる。
「今日はどうしてこちらまで?」
南葵から聞いているにも関わらず、績は、何も聞かなかった事にして私に問いかける。恐らく私の口から話して欲しいのだろう。
「……南葵がね、お勉強しようって言うの」
績は先を促すように、何も言わない。手を擦り合わせ、足が意味もなく何度も床を擦る。
数十秒ほど迷ってから、感じた事をそのまま口にする。
「朝起きたら机いっぱいに本があって……、それがすごく怖くて。どうして勉強するのか分かんなくて、それがすごく怖かった」
績は一度言葉を飲み込むと、また、静かな声で尋ねた
「……本が怖いのですか?」
その言葉には、「何故?」という意味が込められているのだと分かった。
「……だって、本、当たったら痛いもん」
あの角が当たると、本当に痛い。重ければ重い程、力が強ければ強い程、頭にくる衝撃は大きくなるのだ。
それについては、績は何も言わなかったけれど、別に感想を求めていた訳ではない。ただ、績は何かを言葉にしようと迷っている様子だった。その何かは分からないけど績がそれを言葉にするのならば待とうと思いしばらく静かにしていた。けれどその何かが績の口から語られる事はなかった。
代わりにと言ったように績の口からは私が答えにくい質問が飛び出した。
「勉強が嫌いなのですか?」
この言葉にも「何故?」という疑問が透けて見えていた。
「……だって、お勉強好きじゃない」
績の答えになっていないと分かってはいるけれど、これ以上説明のしようがない。勉強が好きではないただその一点のみだ。
「聖女様は以前、各国王に贈り物のお礼の手紙を書いていましたよね?」
「うん」
「文字を書くのは嫌だったのですか?」
あの時は、黎翔の手前、頑張ったけれど。自分の名前を書いた事もあったけれど、あれは必要だったからやっただけだ。
「……本当はね、あんまり書きたくなかったの。でもあの時はちゃんとお礼したかったし……」
「でもあの時も、失敗しちゃったの」
「失敗ですか?」
「上手に書けなかった」
自分が書いた汚い字を好き好んで他人にあげようとは思わないだろう。だからこそ本当は書きたくなかった。けれどもどうしても嫌だとは言えなかった。
「お勉強は文字以外にもありますよ。この国についてとか、お金についてとか。日常生活に必要なものもたくさんあるんですよ」
「…………」
そんな事は重々分かっている。勉強が必要な事だというのも分かっているし、この国についてももっと知る必要があるという事は分かっている。けれども、どうしても『勉強』というものが好きになれない。どうしても拒絶してしまう。
績はこれ以上言葉を重ねても無理だと思ったのか、温かいミルクティーを淹れてくれた。
それを飲んだ事で、荒れていた心が少し穏やかになった気がした。




