025-1「人形みたい」
目を開けると、太陽が一番上にあった。夕方ではないようだが今日もしっかりと寝坊したみたいだ。
「……」
正直皆と顔合わせ辛い。昨日の私はどうかしていた。あんなに感情を出すなんて久しぶりだった。おかげで私の心にこびりついていた恐怖も解けた気がする。
私はこの世界にいられる。私がこの世界にいたいと望む限りはこの世界にいられる。神様は私の味方だ。
確証はないそれを心臓に刻み込む。
けれど私がこの世界にいたくないと望めば私はこの世界から消えるのだろう。自分がそのような事を思うかは分からないが、私があの世界にいたくないと望んでしまったからこそ、今この世界にいるのだろう。
黒い世界はいつだって、白と灰色と黒しかない。他にもたくさんの色があったような気がするが、私が思い出せるのはその3色だけだ。
でもこの白い世界は色で溢れている。人の顔にも髪にも目にも建物にも花にも生き物にも色がある。言葉や感情にだって色がある。
こんなにも全てのものに色がありふれた世界はきっとここだけだ。
窓を開けて空を見ると、躑躅色と真赭のトンボが、仲良く空高く飛んでいた。
「今日も寒いね……」
だんだんと冷たくなる空気に、少し体が震えた。もうしばらく経てば外に出るのも難しいほど寒くなるのだろう。
布団が手放せない時期になりそうだ。キッチンから飴の瓶を取り出し、一粒口に入れる。
「今日は何をしようか」
何をしても良いのだ。私がしたい事をしてもいい。私は聖女だから。ここにいるだけで良い。ここにいられるなら、好きに生きていい。
「お絵かき、しよう」
スケッチブックと色鉛筆を取り出し、窓辺に向かう。
「トンボさん、いなくなっちゃった」
けれども覚えている。水色の空を飛ぶトンボの羽は、秘色。親トンボの体は躑躅色。子トンボの体は真赭。目は浅緋。
それらを全て色鉛筆で表現する技術は私にはないけれど、私の記憶には残っている。すぐに忘れたりなんかしない。
「空は水色」
白と黄緑と水色を混ぜた空を作る。
「今日の空はいつもより少し薄いね」
寒くなってきた時期でトンボも飛びやすいのだろう。きっともうすぐしたら寒くて飛ばなくなってしまう。
「でも雲はない」
きっと今日は雨も降らない。
「体はピンクと赤」
きっとあの小さなトンボは、大きくなったら親トンボと同じような色になるのだろう。もしくはもう一匹の親トンボと同じ色をしているのかもしれない。それか2匹のトンボの色を絵の具と同じように中和してあの色になったのかもしれない。色というのは不思議だ。親の色がそのまま遺伝する訳ではないのだから。青い目や金色の髪をした親から黒目や黒髪の子どもが生まれる事もある。確か突然変異という。
「目は白と赤……」
茜色ではないトンボはそういう種類なのだろう。
「でーきた」
輝く空には太陽のみが滞在している。鳥も雲もいない。恐らく太陽の光に疲れてどこかで休んでいるのだろう。
口の中の飴はすっかりなくなった。
書き終わったスケッチブックを片付けたところでふと鏡が目に入った。
「……」
鏡の前にある椅子にそっと座る。映っているのは、黒い眉上の前髪と腰まである長い髪を垂れ流している少女だ。普段と何ら変わりはない。
「……」
そっと口角を上げてみる。
「……ほんとだ」
驚くほど上がらずに横棒のように顔に添えられている唇。両端が下に下がる事はあれど上に上がる事はない。
「全然、笑えてないじゃん……」
楽しい事を思い出しても、笑い声は出るのに口角が上がらない。
「どうやって笑うんだっけ」
長い間笑うという経験をしてこなかった。笑い方が分からない。
「人形みたい」
自分ではない誰かの意思によって動かされる退屈な人形。まるでそれを鏡越しで見ているかのようだった。どうせ人形ならば笑った状態で顔を作ってくれれば良かったのに。
「入るぞー」
鏡とにらめっこしていると、ノックもなしに南葵が入ってきた。
「どうしたの?」
「飯」
南葵の手にはお盆が乗っていた。
「ご飯食べる!」
ご飯が目の前にあると分かった途端、気にしてなかったお腹の虫が鳴り始める。
「昨日あんだけ食ったのによく入るな。燃費悪そうだな」
「それ、この間お兄ちゃんにも言われた」
机の上に南葵がお盆を置いてくれる。鏡の前の椅子から飛び降りご飯の前に座ると、南葵が蓋を外してくれる。
「おにぎり!」
蓋の中から出てきたのはお子様ランチのようなプレートだ。おにぎりにスパゲッティ、グラタンに小さなハンバーグとエビフライ。三角の白米に包まれているのは一体何だろうか。中身は食べてからのお楽しみだ。
「いっただきまぁす!」
真っ白な白米をのりと一緒に齧ると、中から出てきたのはとろりとした卵だった。
「南葵! 中に卵入ってる! とろっとしてる! 卵ご飯みたい!」
「それうまいよな。俺も好きだ」
「おいしー!」
南葵は自分が食べる訳でもないのに私が食べているそばに座り私が食べるのを見守ってくれていた。それをいい事に私は食べながら驚いた事や感想を次々と南葵に伝えていく。南葵は嫌な顔する事もなくただ私が食べるのを眺めていた。
「そういえば今日、霙さんと白鴎さんと緑弥さんは?」
普段であれば、私の食事は霙や白鴎が持ってくる。時折緑弥が直接持ってくるが、なぜ今日は南葵が持ってきたのだろうか。
「皆、城に行ってる」
「お仕事?」
「ああ」
だから今日は誰もいないのか。起こしに来る霙も白鴎も今日は来なかった。
「霙さんと、白鴎さんは起こしには来たぞ」
「そうなの?」
「ああ、まあ起きなかったがな」
「……」
どうやら私は霙と白鴎が起こしに来たにも関わらずそれを無視して眠り続ける神経の図太さを持っているようだ。
「飯食ってしまえ」
「うん」
今日はスープがなくて良かった。もしスープがあれば私の長い髪はスープに浸かっていた事だろう。この長い髪を切ってしまいたいと思う事はよくあるが、これは私が私である証であった為、本当に切る事はないだろう。けれども今はもう切ってもいいのかもしれない。
「ごちそぉさまでした!」
「ん」
南葵は、私の部屋に備え付けられていたキッチンで食器を洗う。キッチンは存在していたが、この私の部屋のキッチンは全くと言っていい程活用されていない為、そこで食器を洗うというのに違和感がある。何よりこの部屋に洗剤があった事にも驚いた。
「お片付けありがとぉ」
「どういたしまして」
本来ならば自分で片付けをしたいところだが、まだ私の背では届かないだろう。
「この後の予定は?」
食器を片付け終えた南葵は、手を拭きながらこちらへと歩いてくる。
「ない!」
暇すぎて暇と遊ぼうかと思っていたところだ。
「なら、散歩がてら俺の仕事場についてくるか?」
「……」
ここは素直に「行く!」と答えるのが正解なのだろう。けれども考えても見てほしい。彼は方向音痴なのだ。行き慣れた筈の自身の研究室ですら、「場所が変わった」と言って辿り着けないのだ。
「南葵、辿り着けるの?」
「当然だろ? 俺は毎日研究室に行っているからな」
「そうなの?」
「ああ。ここからだとだいたい1時間ぐらいだな」
「……」
それは迷ったあげくの1時間という事だろうか、それとも迷わないで行った時の1時間だろうか。前者ならば1時間歩けばたどり着くという事になる。けれども後者だった場合一体どれほどの時間がかかるのだろうか。考えるだけで恐ろしい。
「ちなみにその研究室ってどこにあるの?」
迷わずに歩いて1時間だった場合は、この建物の中にはその研究室はないかもしれない。いくらこの建物が広いとはいえ1時間も歩き続けなければならないほど遠い訳でもないだろう。
「この建物の中に決まっているだろう」
そんなに自信満々で言う事ではないと思う。という事は迷ったあげくの1時間という事だろう。1時間でたどり着けるという事に喜べばいいのか悲しめばいいのか。
「ちなみにその研究室ってこの建物のどのあたりにあるの?」
「……どのあたりにあると言われてもなぁ。強いて言えば医務室の近くにある」
「!」
これはいい情報聞けた。大体の場所が分かっているならば私がそこまで案内する事も可能だ。むしろ案内させて欲しい。
「南葵、私医務室の場所わかるよ!」
「本当か?」
方向音痴の南葵に疑われるのはものすごく心外だ。自分は決して方向に優秀ではないけれど、南葵ほどの方向音痴ではないと自負している。
「績さんのところでしょ? 大丈夫!」
ちなみに、言ってから気づいたのだが、本当に大丈夫ではないのは、医務室の隣という事自体が間違いだった場合だ。方向音痴だけでなくら何をどう間違えたか自分の研究室を績の医務室の近くと間違って認識していなければ良いのだが。さすがにこれは疑いすぎだろうか。
「じゃあ、行こうか」
「南葵! 歩く方向が反対!」
私を信用してくれたのか分からないが、ようやく南葵が足を進め始めたかと思えば、進んだ方向はまさかの真逆。いや予想通りと言うべきだろうか。確かにこれならば1時間でたどり着ける方が奇跡というものだろう。今は医務室が近くにあるという南葵の記憶を頼りに進むしかない。




