019-1「ふむ。苦しゅうないです」
「ん、んぅう」
なんだか顔がくすぐったい。まるで何かに触れられているかのようだ。眠るのに迷惑だと感じつつも、不思議と振りほどきたくはない。この暖かな手をずっと感じていたい。私の頬撫でる手は、気がつけば頭を撫で髪の毛をすいていた。私の目が覚めるとこの手も離れて行ってしまうだろうか。そう思うと意識は覚醒してきているのに目を開きたくはない。
「起きたか」
しかしながら黎翔には私の狸寝入りもお見通しだったようで声をかけられてしまった。
「おき、てます」
起きて直ぐだった為、声ははっきりと出なかったが起きている事は伝わっただろう。そして私の予想通り優しい手は私から離れて行ってしまった。
「なぜそんなに不満そうなんだ」
「……もう少し頭撫でてください」
黎翔は目を見開きながらも「分かった」と呟き、撫でるのを再開してくれた。
「今度は満足そうだな」
「ふむ。苦しゅうないです」
「どこの殿様だ」
空の国の聖女様です。
「今は朝?」
「ああ」
黎翔が起きているのだから、私が寝坊したのかと思ったがそうではないようだ。
ふ
「今日はやる事が多い」
「そうなの?」
「何せ私は引っ越しだからな」
あぁ、そういえば昨日そんな話をしていたなと他人事のように思う。
「黎翔様と一緒に暮らすの楽しみです。でも黎翔様はあっちで暮らす事を思いついていたのではないですか?」
「……なぜそう思う」
「だって黎翔様はこの国で一番偉いんですよね? そんな人がすぐに住む場所を変えられると思いません。という事は前々からそういう段取りがあったのかなと」
「…………」
私の言葉を聞いた黎翔の気まずそうな表情から、やはり私の勘は間違っていなかったのだと確信した。
「どうしてもっと早くお引越しをしなかったのですか?」
「……あれは聖女であるお前の建物だ」
それを聞いて、そういえば最初の頃、それにあの建物の主人は私だけだと言われた覚えがある事を思い出す。
「主人であるお前が言い出さない事をこちらから言う訳にはいかない。何よりお前は、お前が例えそれを望んでいなかろうと私が言えば頷くだろう」
黎翔は私の事を分かっているのだ。もし私があまり親しくない頃の黎翔に「そちらへ住まわせろ」と言われて断る事が出来ただろうか。間違いなく出来ないだろう。
例えば今そのように催促されたとしても私は間違いなく許可を出す。それは強制力などではなく私の意思からの返事ではあるが黎翔からすると私が何を思ってるのか、分からないだろう。
「黎翔様、ありがとう」
彼は私の事を自分の意のままに操ろうとはしていないのだ。聖女だからというのも勿論あるだろうが、それでも私は一人の人間として見てくれているのだ。一人の人間として意思を確認してくれているのだ。それがどれだけ私の心を満たしているか彼は分からないだろう。
「それはこちらのセリフだ」
黎翔とともに朝の身支度をしているとノックの音が聞こえ鶴羽が入ってきた。黎翔が小声でやはりノックはいるな、と呟いていたのが聞こえたが、私も昨日ノックを忘れたうちの1人である為、そっと目線を逸らしておいた。
「失礼いたします」
「おはようございます。鶴羽さん」
「おはようございます。聖女様、黎翔様」
綺麗な角度でお辞儀をした鶴羽の手には、沢山の書類が収まっていた。
「鶴羽さん、お仕事ですか?」
「はい。と言っても今朝までに確認していただきたい書類が数枚あるだけですので、すぐに終わりますよ」
そうか今日は引っ越しがあるから、あまり仕事をする時間を取る事が出来ないのだろう。
「……お引越しするから、お仕事大変になる?」
黎翔をあの建物に誘ったのは、黎翔の事を思っていたようで実際は私の自己満足だったのかもしれない。明日からは書類の確認をする為に黎翔は近いとはいえ城まで出向かなければならなくなる。今までは城に住んでいた為、今のようにこの場で完結していたというのに。
「そうですね。以前よりも時間に限りがあるという点はありますが、そもそも陛下は働きすぎです。この方が良いでしょう」
「……そうなの?」
「何より聖女様がいらっしゃる間は、陛下も早く帰ろうとなさるので良い傾向です」
そういえば、霙達も以前黎翔は働きすぎだと言っていた気がする。国王である彼が休まなければ他の人も休み難いそうだ。そういった面では私は皆の為に一役を買っているのだろう。
「じゃあ黎翔様はお仕事を頑張って、私と一緒にだらだらしましょうね」
「それは良いな」
「でしょ!」
初めは無表情で怖かった黎翔だが、話すうちに表情豊かで言葉が優しい人だと気がついた。そんな彼だからこそこれからも一緒にいたいと思うのだ。
「黎翔様はなんだか私のお父さんみたい」
私の口からこぼれた発言に鶴羽は噴き出したが黎翔は頷いて満足そうだ。
「ふむ、父親か。悪くないな」
休日に一緒に遊んでくれるお父さんになるといいな。
「では、黎翔様は父親として、あとの人は?」
「えっとね、霙さんもお父さん、白鴎さんと、緑弥さんはお母さん。彩月さんはお姉ちゃんで、績さんはお兄ちゃん」
私が素直に答えると鶴羽さんはもう一度吹き出して笑った。
「彩月は姉なのですね」
「うん。だって素敵なお洋服をたくさんくれるから」
「なるほど聖女様の姉の基準はそこなのですね」
鶴羽はひとしきり笑って満足したのか書類を黎翔へと押し付けた。
「確認をお願いします」
「ああ」
立ったまま書類を確認し手早くサインをしていく姿は無性に目を逸らしにくい。仕事をする父親が格好良いというのはこういう感覚なのだろうか。
「この書類に不備がある。明日までに直して再度提出するように伝えろ」
「かしこまりました」
「こちらの事業は明日からでも取り組むように。会議にも通しているから私のこのサインさえあれば進めて行けるだろう」
「伝えておきましょう」
私はする事がなく黙って二人の話す姿を見ていたが不思議と退屈しない。
「そういえば神楽はなんと言っていた」
「怒りながらも、すごく嬉しそうに部屋の準備をしていたそうですよ」
「そうか」
黎翔の顔が一段と優しいものになった。黎翔と神楽は特別な関係であったりするのだろうか。詳細は分からないが黎翔がこのように優しく微笑むのだから悪い人間ではないのだろう。いくら私があの建物の主人と言っても私は新参者だ。彼らに受け入れてもらえるようにいい子でいなければ。
「これで全部か」
「はい。残りは後日でも大丈夫です」
「分かった」
どうやらあっという間に書類は片付いたようだ。
「さて、とりあえず向こうに行こうか」
「え?」
そんな簡単に引っ越しの準備が終わるものだろうか。
「ここの荷物を持って行かないですか?」
黎翔の部屋には黎翔が普段使っている荷物が山のようにある。引っ越すというのはそれを持っていくという事ではないのだろうか。
「まあここも一応私の部屋だからな。引っ越しと言っても向こうに帰れないほど仕事が忙しい日はこちらに泊る」
その言葉を聞いて納得した。やはり黎翔は国王である為ここに部屋を置いておく事も義務の一つだろう。
「じゃあ黎翔様がこっちに泊まる時、私も時々ついて行ってもいいですか?」
「当たり前だ。ただ忙しい日はお前の相手をする事も叶わんだろう。向こうでいい子に寝ていろ」
「はぁい」
黎翔にそう言われてしまっては頷かない訳にはいかない。少し不満を残しつつも了承の返事を送る。
「という訳で鶴羽、行ってくる」
「はい。こちらお任せください」
鶴羽の表情は少し寂しそうに見えたが、なぜか嬉しそうだった。
「もう行くのか」
城門まで行くと、門番と話している霙の姿があった。
「ああ」
「そうか。白鴎は聖女様の荷物をまとめているから後で来る」
「分かった」
どうやら霙は私たちと共に向こうへ帰るそうだ。私は自分の荷物の事を頭の片隅から外へと放り出していた。今霙に言われ、自分の手には今、くまのぬいぐるみであるみー以外は何も持っていない事に気がついた。
帰ってから白鴎にきちんとお礼を言おう。




