008-1「位置についてぇ よぉい どん!」
「ここは聖女様の家だから好きなように出歩いて構わない」
霙にそう言われて、私は早速この建物を探索してみる事にした。とはいえ、私はここに来てから自分の部屋と、医務室と風呂場にしか行った事がない。その他の場所は、通った事もない場所が多い為、目的がない限りどこかに行きたいとも思わない。
けれども、霙の言葉からすると、ここは私の家らしい。自分の家を自分がよく知らないのはどうだろうかと思い、探索をしてみる事にした。
間違いなく迷う自信がある。本当なら霙と白鴎を連れて行きたい所だけれど、2人は今ここにはいない。2人は毎日私に1人の時間を作ってくれるから、今もそう思って部屋にいないのだろう。一日中誰かと一緒にいるのは疲れるから、その気遣いが嬉しい。
迷ったら近くの人に声をかけるか大声で叫ぼう。
部屋を出て、まずは右側に向かってみる。左側はお風呂とかで行った事があるから、探索するのはまた今度。
とりあえず部屋を出てから右側に向かうけれど、探索をするにあたって迷わない為にしておかないといけない事がある。それは、道順を覚える事だ。私は、まず部屋を出てから右側に行った。そして、ただひたすらまっすぐ進んだ。今のところはこれだけだから大丈夫。通り道に扉があったりはするけれど、何の部屋か分からないから勝手に開ける訳にもいかない。何より、中に人がいたら気まずい。
この景色はよく見慣れたものだ。真っ白の廊下にい真っ白扉。初めてここに来た日に見た光景と同じのものだ。この道を通ったのか、それとも違う道だけれど同じような作りになっているのか。どちらが正解か私には分からないけど、見慣れた景色に何となく不安と安心が入り乱れる。
「まっしろ……」
どこもかしこも真っ白なその空間は、どこか暖かい。今まで会った人たちの髪色を連想させる色だ。
「……」
前々から思っていたけれど、この場所はいったいどれだけ広いのだろうか。霙は、ここは私の家だといったけれど、果たしてここは家といっても良いのだろうか。家と呼ぶには余りにも広すぎるし、大きすぎる。歩いても家の端にたどり着けない家なんて行った事があるだろうか。いやあるわけがない。
「……なんだか」
雑巾がけが大変そう。とっさに思ってしまった事はなんとも庶民的な考えだった。この家を掃除しようと思ったら一体どれぐらいの人数がいるのだろうか。少なくとも歩いていくだけでなかなか家の端につかない私が掃除だなんて出来るはずもないし、やろうとも思えない。
でも、ここでなら出来るのではないだろうか。思いっきりの全力ダッシュ。家の中では絶対出来ないような事だけれど、こんなに広い家だったらそれもきっと可能だ。
「位置についてぇ」
走るポーズをとって
「よぉい」
せーの
「どん!」
全力ダッシュ!
先程から全然人とすれ違わない。誰かにぶつかる心配もないだろう。決して早いとは言えないスピードで私は廊下を駆け抜ける。思いっきり走ったのは久しぶりだ。普段は走る事もない生活をしているし、私は家の中にいたから外で走るなんて事もしなかった。だからだろう。私は数十秒走ると、既に疲れて地面に伏せって肩で息をしていた。
「はぁはぁ」
自分の体力の無さに愕然とする。今まで自分の体力の限界を試した事は無かった。こんなに体力が無かったなんて知らなかった。けれども、走るというのはこんなにも気持ちが良い事なんだ。初めて思いっきり走ったけれど、疲れているはずなのに自然と口角が上がってくる。ただ一言言うならば楽しかった。
はぁ、喉が乾いてきた。走ったから当然だ。
探索というよりも、これは散歩だ。探索と言っても何を見たら良いのか分からない。同じ景色がどこまでも続いているのだから。取り敢えず部屋から出て右に行ってから、ひたすらまっすぐ進んで来たけれど、どこかに曲がり方でもあっただろうか。もしかすると変な所に変な曲がり角があるのかもしれない。ここは仕掛け屋敷ではないのだから、進んでいけばどこかに廊下の曲がり角はあるだろう。
それにしても。
「広すぎぃ……」
こんなに沢山歩いても全部を見て回れない。それに景色も全然変わらない。
花でもあったらいいのに。一番最初にここに来た時には花を見たけれど、あれはここではなかったのだろう。別の廊下か。
「すきっぷ~」
なんて出来ないから超絶不格好な飛び跳ねで飛んでいく。
「ぴょんぴょんうさぎ~」
今度はスキップじゃなくて上にジャンプ。手は頭でうさぎ耳。
こんな事してたらいつまでたっても着かない。もう1回。
走る準備は出来た。
「位置について、よぉい」
よし、行こう。
どん!
つるん!
「ふぇっ?」
ビターン!
走り始めようとした瞬間、私は服の裾を踏んで転んでしまった。いくら膝丈のワンピースだといっても、しゃがんでしまえば関係ない。少し膝が痛いけれど、手をついたからそこまでの衝撃はなかった。ただ。
「ふぇっ」
驚いた。思わず涙が出そうになるけれど、泣いてはいけない。少し目が潤んで来た気がするけれど、流したらいけない。
「よいしょ」
立ち上がり、服をパッパッと払うけれど、綺麗にされていたのか埃なんて1つも付いていなかった。服で涙も拭う。
それならもういちど、位置について……?
「?」
走り出そうとした瞬間、何かが鼻に届いた。
「くんくん」
匂いのした方に足を進めれば進めるだけ匂いが強くなる。
「くんくんくん」
良い匂い。とても良い匂いがする。これは、ご飯の匂いだ。
「こっち!」
疲れていたのなんて知らない。思いっきり廊下を走り、良い匂いのした方へ全力疾走する。
「えっと、次はこっち!」
匂いを辿って廊下を走っていくと、驚く事に曲がり角が登場した。先程までまっすぐな道しかなかったというのに、匂いに夢中になって、遠いところまで来たという事だろうか。
いい匂いが更に強くなっていく。何の匂いだろう。ご飯の匂いである事に間違いはない。
曲がり角を曲がると、そこからは一気に扉が少なくなった。というよりも、むしろ、扉がなくなった。扉は突き当たりにたった一つだけだ。いい匂いがするのも恐らくこの扉の向こうからだ。
さすがに勝手に入るのは良くないだろう。
だが、ここって私の家らしいし、家の扉を開くのはいけない事ではないと思いたい。
それに。美味しい匂いがするもの。
「お邪魔しまぁす……」
扉に手をかけてこっそりと中を覗く。中は大きなキッチンがあって、仕切りの奥には机と椅子が置かれている。そこには椅子に腰掛けて本を読んでいる短髪の男の人がいた。今は休憩中だろうか。見ると本はレシピ本のようだから休憩中のようでいて仕事中なのかもしれない。
後ろ姿は真剣に見えて声をかけていいのか迷う。
ちらりと近くにある鍋を見ると、中身を見る事は出来ないけれど、美味しそうな匂いが漂ってくる事だけはわかる。これは何の匂いだろうか。
「……」
じゅるり。たらり。
今日は朝から何も食べてない。飯の食事の時間はもう少しだろう。先程までお腹は空いていなかったのに、すっかり空腹だ。
燃費の悪い身体になってしまった。これが良い事なのか悪い事なのかわからない。
このままだとお腹がなりそうな気がする。足音を消して男の人の側まで歩いて行ってみる。どうやら本に集中しているようで私の存在には気づいていないようだ。
ちょんちょん、と男の人の服の裾を引いてみる。
「ん?」
私が服を引いた事で、男の人は視線をこちらに向ける。
「こんにちは」
私が声をかけるとキョトンとしたように目を丸くしてから
「ああ、こんにちは」
同じように挨拶を返してくれた。いうまでもなく、この人も、白い髪に金色の瞳をしている。白いコック服を着ているこの人は、間違いなく料理人だ。この洋服に染み付いているニオイは間違いなくここに来るまでに漂っていたスープの匂いだ。あのスープは間違いなく彼が作ったものだ。それに彼に見覚えがある。恐らく初日にもご飯を持ってきてくれた人だ。
じゅるり。たらり。
思わずさっきよりも強く、彼の服を握る。
「どうした?」
「おなか、すいたの……」
私の口から出た言葉は、私が思っていたよりもずっと悲壮感漂うものだった。まずは自己紹介をするべきだろうに、私は自分の欲を優先させてしまった。
男の人はそんな私を見て吹き出すように笑った後に。
「ちょっと待ってろ」
と言ってキッチンの方に行った。
男の人が行ってしまったところで、私はさっきまで彼が座っていた場所に座ってみる。椅子が高かったから登るのに少し苦労した。けれど、座ってみるとなんとも視界が良い。机の上には先程まで彼が読んでいたレシピ本があった。美味しそうな料理がたくさん書かれたそれをペラペラとめくってみる。
「……」
じゅるり。
美味しそうなものが沢山載っている。今それを味わう事が出来ないと思うと、眉も下がる。ハンバーグも美味しそうだし、オムライスだって美味しそうだ。中には見た事がないような料理もたくさんある。一体どんな味なのだろうかと考えるけれど、想像もつかない。けれど、見た事がない料理の中にはおままごとで見たような料理もあった。このレシピ本を見ていたという事は、彼はそのうちこの料理を出してくれるのではないだろうか。とても楽しみだ。
このレシピ本は料理だけではなくてデザートも載っている。これは見た事がある。アイスクリームというやつだ。家で作れるものなのだろうか。店でしか作れないものだと思っていた。なんだかフルーツも乗っていてとても豪華だ。こんなものが家で食べられるはずがない。一体いくらかかるというのだろうか。この間食べたクッキーも載っている。あのクッキーもとても美味しかった。出来る事ならば、また食べたい。あんなにサクサクでフワフワなクッキーは初めて食べた。
「……!」
先程まで漂っていたスープの匂いが更に濃くなった。蓋を開けたのだろうか。匂いを嗅いだら余計にお腹がすいてきてしまった。近くに行って何をしているのか見に行きたいけれど、邪魔だろうと思ってこの場に我慢して座って待つ事にした。我ながら英断だ。
「おーい」
私を呼んでいる声がしたので、「はーい!」と返事をする。仕切りから顔を出した彼は、手にお玉を持っていた。
「トマトが嫌いなんだろ? トマトのスープって食えるか?」
「とまとのすーぷ……」
どうしてこの人は私がトマトを嫌いな事を知っているのだろうか。それは置いとくとして、トマトのスープ。トマトの原型を思い出し
口と目が中央に寄る。
「分かりません……」
トマトのスープなんてものを食べた事がない。トマトが丸ごと入っていたりするのだろうか。全然想像が出来ないけれど、おそらく食べられるのではないだろうか。
世の中のトマト嫌いの人たちは生のトマトが苦手でもケチャップなら食べられると言うし、きっと私も同じ感じではないのだろうか。
「それじゃあ試しに食べてみるか」
「そうします」
何でもかんでも食べず嫌いは良くないもの。




