030-1「お兄ちゃんって、どういう時にお空を飛びたくなるの?」
空の美しさを心に刻めば、自分の心の醜さが浮き彫りになる。
鳥の声に耳をすませば、自分の喉から声が出なくなる。
きっと私はいつだって空を飛ぶ鳥を、いつまでも羨み続けるのだろう。空から降ってくる羽根はまるで、遠くにいる事を……、私がたどり着けない事を比喩してるかのようだ。
夢の中の彼はいつもうなだれていた。
『私はどうしてあんなことを』
その表情は後悔に塗りつぶされ、絶望を彩っていた。真っ暗な彼の闇はいつしか 彼の心を蝕み、修復ができないほどに刻まれていた。
『愛していたのに』
そう つぶやく彼の視線の先にはいつだって追い出した彼がいた。愛なんて 不確かなものを真剣に語る彼に手を差し伸べたくなった。
大丈夫。もうすぐだよ。
そう伝えたいのに 私の言葉は音として漏れ出ることはない。せめて彼の冷たさを 私の体温で癒してあげたい。そう思うのに私の手は彼の背中を透き通って触れることすらできない。
大丈夫。大丈夫だよ。
私は目が覚めるまでひたすら 祈りを捧げた。
「うっわぁ…………」
この世の終わりかと思うような、絶望じみた声が耳に届く。背中に感じる暖かい温もりに対して冷たい声は刺さるように頭の横を突き抜ける。
「…………」
けれども、抗いがたい睡魔に襲われた瞼は目を開ける事を拒否する。
「…………ハァ」
全てを諦めたかのような投げ捨てたため息は不思議と温かい。
普段より硬い、けれども柔らかい布団は少し寝心地が悪い。普段の布団とは違う少しさっぱりとした匂いは嫌いではない。朝の目覚めにはぴったりの匂いだろう。
背中に置かれた優しい手はゆっくりと上下する。まどろんでいた意識がさらに深く落ちていくのを感じる。
「…………」
最後に感じた頭への温もりは消える事なくずっと残り続けた。
布がこすれる音で深く沈んでいた意識が少し浮上する。先ほどと同じく優しく暖かい手が背中に置かれたままだ。久しぶりの熟睡に不思議と頭が重たく感じる。
うっすらとまぶたを開ければ、暖かい太陽の光が直接肌に差し込んだ。眩しさに目を閉じれば大きな手が私の顔を覆った。
「覚めたか」
静かな神楽の声が耳に届いた。どうやら神楽はあのままここで寝たようだ。けれど不思議なのが、私が神楽の上に乗っているという事だろう。耳をすませば耳元に神楽の心臓の音が届く。落ち着いた心音は再び私の睡魔を促しそうにはなるが、光の量が少なくなった所でまぶたをゆっくりと開けた。
「お兄ちゃんおはよぉ」
「あぁ」
私が完全に目覚めた事が分かった神楽は、私の両脇を持ち、そのまま神楽の上からどかされた。まるで荷物でも扱っているかのように軽々と私を抱き上げそのままベッドへ座らせる。
神楽も起き上がり、頭を掻く。
眠くなる様子のない神楽は目が覚めて随分と時が経っているのだろう。私の目が覚めるまで動かないで居てくれたに違いない。
「よく寝たな」
神楽の声に窓の外を見れば、太陽は随分と高い所で輝いている。
「……今、朝?」
「昼」
冷酷なまでの神楽の一言に気持ちが沈む。
「…………」
静かな部屋に私のため息が漏れる。
「何だよ」
眉を顰める神楽に視線を向け、言葉を詰まらせてから、口を揃える。
「香楽さん、来てくれたのかな……」
もし来てくれていたのなら、もう帰っただろうか。私が寝ていると分かったならば帰ったのかもしれない。
「…………今の所、来たとは聞いてねぇな」
「そっか」
香楽は今日来ると言っていた。彼も変わろうとしている。逃げたりする事は無いだろう。例え遅くなったとしても、彼は来てくれる。
床に足を下ろすと、冷たい床が足を押し返す。
「寒くなってきたね」
「そうだな」
神楽の視界の先には、冷たい風に吹かれた木の葉が舞っている。
「きっと、これからもっと寒くなるね」
「そうだな」
きっと、鳥も空を飛べなくなる。私が空を求める事も減るだろう。
服を着替えれば、当然のように神楽に髪を結ばれる。高い場所で一つにくくられた髪は、まるで動物の尻尾のようだ。簡単に、だけど丁寧な結び方は神楽らしい。一見意地悪な神楽の中の優しさが透けて見える。
「お兄ちゃんって、どういう時にお空を飛びたくなるの?」
「…………急にとうした」
「なんとなく」
神楽の翼も、きっと綺麗なのだろう。
私が歩くように、彼らは空を飛ぶのだろう。何故今まで、空を飛ぶ場面をあまり見た事がなかったのか。それは恐らく、空が飛べない私への配慮だろう。私が憧れている空を居場所に出来る彼らは、私にとってはとても羨ましい存在だ。
「……さァな」
空を眺める彼は、どこか遠い。
「…………私を、連れて行こうと思わなくて良いからね」
「……急にどうした」
怪訝そうな神楽を横目に扉に手をかける。彼と夜を共に過ごしたのは初めてだ。やはり彼は、太陽が似合う。
「そう言えば、南葵は?」
変わった話題にため息をついて答える。
「南葵さんならさっき来たが、お前が寝てるっつったら、『ならそのまま寝かせてやれ』つって帰って行った」
「そっか」
それは悪い事をした。授業の準備をしてくれていたのだろうに。
「『時間はこの先いくらでもあるから、気にするな』つってたぞ」
「……うん」
無限とも思える有限な時間はいつか終わる。それを知っているからこそ、大切にしなければならない。けれども、今は神楽と南葵の優しさに甘えたい。
「つーか、どこ行くんだ」
神楽の手を握りながらドアの取っ手を握る。
「昨日のとこ」
香楽との約束だ。たき火にあたりながら彼を待つのも良いだろう。
私は秋刀魚を上手く焼けないけれど、二人がいるなら、大丈夫。
「…………今日も、親父が来るのか」
疑問の投げかけ、というよりは確認だろう。
「来るよ」
香楽は秋刀魚を持ってくると言った。だからきっと大丈夫だ。
「来なかったら緑弥さんに秋刀魚を持ってきてもらお」
そして神楽と一緒に採った焼き芋も焼けばいい。
「…………わざわざ、緑弥さんを動かさせるくらいなら俺が取りに行く」
呆れた様な優しい顔は、私の好きな神楽の顔だった。
冷たい風が吹き抜ける庭は明るい太陽に照らされ、春のような明るさだ。
灰茶と白茶の葉が、私のワンピースの裾をさらう。
今日の空には白い雲が浮かんでいる。雨が降りそうにない、鮮やかな雲だ。まるで白い翼のように緩やかに空を流れていく。
「……お腹減ったぁ」
ここに来るといつも美味しいものがある。私のお腹がそれを覚えているのか、音は鳴らないものの空腹を訴えてくる。
「さっきまで寝てただろォが。起きてすぐ食うと太るぞ」
「うっ。で、でも違うよっ! 食べてすぐ寝ると豚さんになるんだよ!」
「どっちでもいいだろ。つーか、何だよ豚って。」
「えーっ、豚さん知らないの?」
二人で木の枝を集めながら会話をする。話をしていると神楽が緊張しているのが分かる。言葉はいつもと変わらないのに、声色が少し大人しい。いつものトゲトゲしさが無い。空を眺める神楽は、きっとすぐにでも飛んでいけるのだろう。神楽はいつだって香楽の元へとんでいく事が出来た。けれども彼は今まで一度もそうしようと思った事はなかった。それは何故なのか。
きっと彼の中で答えが出ているのだろう。彼は今までいくらでも帰る手段があった。家に戻ろうと考えなかったはずはない。香楽に会いに行こうと考えなかったはずがないのだ。
両手に溢れるほどの枝を持つ。出来るだけ水分が含まれていないものを選んだが、燃やしてみなければ分からない。燃えなければそれまでだ。雨も降っていないから、水分が大量に含まれているという事はないだろう。
「おい、もう十分だ」
集め終わった枝を床に置きもう一度集めに行こうとした所で声がかかる。
夢中で集めていたが、普段燃やしているのと同じ量だ。このまま毎日のように焚き火をしたならば、枝を全て燃やし尽くしてしまうのではなかろうか。そうなれば自然への影響もどうなるのだろうか。などと現実逃避じみた事を考える。
「今日は七輪で焼かないの?」
「…………ああ。今日は、これでいい」
秋刀魚を焼く事に対しては肯定的だ。集めた小枝と大きな石を円形にしていく。真ん中に空洞が出来た所にまた小枝と落ち葉を置いていく。その上に大きな網を乗せた。
「この上で秋刀魚を焼くの?」
「ああ。……昔は、よくこうやって焼いていた」
神楽の言う昔が一体いつをさしているのかは分からないが、香楽と一緒に焼いたのだろうか。
「七輪よりこうやって焼いた方が美味しいのかな?」
手間で言えば、七輪の方がいくらか楽だろう。手間だからこそ、時折にしかこの焼き方をしないのだろう。
「いや、七輪のほうが上手く焼けるから美味い」
「……?」
ならば何故、この様な焚き火で焼くのだろうか。七輪の方が美味しいのならば、それで焼けば良いものを。神楽の気分と言う理由を除けば、香楽への嫌がらせという考えしか浮かんでこないが、わざわざ嫌がらせをする為だけにこの様な手間をかけるのも理解しがたい。
まあ、神楽にも神楽の考えがあるのだろう。私がとやかく言う事ではない。
パチパチと小さな火が燃え上がる。手を近づければ暖かい空気が手を包む。暖かい空気を全身に求めて、さらに火の元へ近づこうとすれば神楽に「それ以上近づくんじゃねえ」と止められた。諦めて手だけを温めるが十分暖かい。まるで冷たい空気から守ってくれているかのようだ。神楽は横で座りながら空を眺めている。
「……そういえばお前は、南葵さんと何の勉強してんだ」
「お絵かき」
「はぁ?」
意味が分からないという風に神楽の視線が私へと向けられる。
「……私がお勉強好きじゃなくて、お絵かきしてるの」
「……南葵さんは何も言わねェのか」
「うん。私がお絵かきするのを見てくれる」
「……」
神楽は興味をなくしたのか再び視線を空へと向けた。けれども言葉を考えたのか空を眺めたままもう一度口を開いた。
「お前は何の為に勉強してるんだ」
「意味なんてないよ」
厳密に言えば私は今勉強などしていない。ただのお絵かきだ。神楽は善意で勉強と言ってくれているのかもしれないが、私にはそうは思えない。
「私は勉強なんて大嫌い。だから勉強なんてしないよ」
南葵としているのは勉強かもしれないが私が知っている勉強ではない。私が知っている勉強は強制的にさせられるものだ。楽しくもなんともない事を、無理やりやらされる楽しくない時間。けれど南葵は違う。南葵がしているのは私が知っている勉強ではなく、「楽しい事」であり、「私がやりたい事」だ。
けれどもあの絵を強制的に書かされるようになった瞬間、私は絵を嫌いになるのだろう。
そこまで考えて私はようやく腑に落ちた。私が嫌いなのは勉強だが、それよりももっと嫌いなものは強制される事だ。私は自由に生きたい。私は私である事を望んでいる。そこに他人から強制されるものなど必要ない。
「お前は好きなようにしたらいいが、それでもこの世界で生きていく覚悟を決めたなら妥協はしろよ」
神楽の一言がずしりと刺さる。
「生きていく覚悟」
そのようなもの、とっくに捨てた。
この世界に連れて来られてから、一度だってそのような覚悟は決めた事がない。これからだって決めるつもりはない。
だって私には帰る場所が――……。




