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嫌いと言われて、壊れて


 人と会話をする時、絶対に守るべきルールがある。


──不用意に口にしないこと。

──不用意に、飲まないこと。


 相手が紅茶を飲んだのを見てから、歩乃華はティーカップを持ち上げ、香りだけを楽しむ。

 けっして唇には触れさせない。

──飲んだ"ように見せる"。


 何が入っているか分からないものを飲むほど、お人好しではないのだ。

 歩乃華は背筋を伸ばし、最も美しい角度でいることを維持する。ミリ単位の調整。


 これを教育と呼んでいた人達の顔を思い出した。

 ……あれは、地獄だった。

 思い出したくもないのに、体が覚えている。


 そんなことを考えながら、ジィルとは目線を合わせる。そして話し始めるのを待った。


「ボクらアノニマスの目的はただ一つ」


 ジィルの形のいいくちびるから言葉がこぼれる。



「無の大神『シュティレ』を

──殺すこと」



 動揺を心の中で押し殺す。


 シュティレは殺せないのでは? だってフジくん達も封印と言っていたし、先代も倒しちゃいけないって……。

 いや違う色々な思惑が重なり合って倒せないんだった。確かそう、記されていたと思う。


「理由は、単純。アレが許せないから。ネ! 送り人にとっても、シュティレのせいで来る羽目になったんだしさ、ボクらと協力してよ」


 キングを弄ぶジィル。

 その目には深い復讐心が込められていた。


「今すぐに返事することはできません。私はまだここに来たばかりですし。……それに、貴方はまだ言いたいことがあるのではないですか?」


 私が求めることは返事の延長。これさえ守れれば嫌われないために立ち回っても問題ないはずだ。

 歩乃華の答えを予想していたのだろうジィルはあまり慌てなかった。


「そうだネ。……でもそんなに焦らなくてもいいよ、良かったらチェスしない? ボクはチェスが大好きなんだ」


 並べ始めている時点で、拒否権は多分存在していないのだろう。

 どちらかというと将棋や囲碁の方が得意なのだが……。

 歩乃華は溜息を堪えて、綺麗に並べられていくのを見る。


 そして並べている間に、チェスのルールを思い出す。

 ……大丈夫、ルールは覚えてる。

 問題なのは相手──ジィルだ。


「先行どうぞ。ボクは自信があるんだ、チェス」


「初心者ですからお手柔らかに」


「もちろんさ、ボクも楽しみたいだけだから」


 にこやかな受け答えとは真逆に、二人の手は止まることを知らない。

 ぶつからないのが不思議なくらいに超スピードで。


「すごいネ、初心者とか嘘でしょ」


 よく言う、と歩乃華は思う。着実にチェックメイトへ導いている癖に。

 ちょっとずつ、ちょっとずつ逃げ場が無くなっていくのを見ながら、歩乃華は駒を動かす。


「片手で足りるほどしか経験ないですよ。それに、将棋の方が得意なんです」


 そう言って手を止める。

 これはまずい、引き分けにすら持って行けない。


 思考を続ける。このままでは3ターン後にチェックされてしまう。

 クイーン……いやナイト。……違うこれは。


「最適解がどうかは内緒。だけどボーンをクイーンにするのいいネ」


 これによって相手はキングを動かさないといけない。そうしないと次でチェックだから。


 ……おかしいな、なんか、思考が鈍い気がする。

 とりあえず違和感を感じつつも、駒を動かした。


「でもネ、君はまだ視野が狭いよ。チェック」


 そっか、そう動かしたら確かに。

 歩乃華はとりあえずキングを動かす。しかしこのままでは連続でチェックされて終わり。


「これ、詰んでませんか?」


「気づいた?」


 ただ引き分けに持っていきたかっただけなのに負けてしまうなんて。

 ……いやまて、なんで私はチェスをやっているんだ? 私はただ話を聞きたいだけなのに。


「……そろそろいっかなぁ。将棋得意なんでしょ? いいよ、次は将棋やろうか」


 ジィルはチェス盤を消した。……え?

 ただ手を開いて閉じただけで消えるなんて、これは魔法なのだろうか。

 そして瞬きをする間に将棋の準備は出来ていた。

 一切のかけもない、日本のものと全く一緒だ。ただ言語だけはやはり違う。

 一応場所で何となくわかるけど……うーん。

 この駒が王だから、それの文字を覚えて記憶と結びつけていこう。


「じゃ、初めよっか」


 暗記はしきれていない。だけれど感覚で将棋は打てると思っているから、どうにかなるはずだ。


「送り人は、今をどう思っているの」


「分かりません。だけど、嫌われたくないから」


 ……えっ。

 私、今なんて言った?


 言って……しまった?


 絶対に、誰にも知られたくなかったことを。


──自分で、自分の口から?


 歩乃華は自分の口から飛び出てきたものに驚愕した。人に対して嫌われたくない、なんて事を言うなんて、ありえない。

 それに今の話の流れで言うべきことじゃないと思う。


 今更ながらに可笑しさを感じた。


 歩乃華は将棋を指していない方の手を動かそうとする。しかし予想と反して動くことはなかった。

 金縛りになった時のように、一切動かせない。今は思考と右手のみが動く。

 そういえば、私はここに来たばっかりの時気持ち悪かった。なのに今はなんともない。


 困惑と驚愕と気味の悪さが重なって、それはもう原型を成していなかった。


「面白い回答だネ。つまり、君は嫌われないために流されながらここまで来たってこと?」


「はい。それにどうしたらいいか分からなかったから」


 それを聞いたジィルは有り得ない! とでも言いたげに天を仰いだ。

 そして頭を抱えて、確認するかのようにこちらを見る。前髪のせいで片目しか見れないけれど、その目がとても怖かった。


「なんて言う思考の放棄。それに嫌われたくなかったから? ありえない、有り得ないネ。考えられないよ」


 震えた声で呟かれていく言葉は、次々と重なって言った。


「嫌われたくないから?」

「それを理由に生きるの?」

「からっぽだよ、それは」

「自分で決められない人間に、何ができる?」


「……ボクは、君が嫌いだ」


 滝のように流れ出てくる言葉。支離滅裂で全部聞く意味なんてないと思えた。

 それなのに耳に残ってしまうのは、それが彼なりの悲鳴だったから。そして、自分にとって最も怖い言葉が聞こえてきてしまったからだ。


 嫌い。嫌い? きらい。キライ、嫌い。


 息ができない。

 体の全てから拒否反応が出てくる。ナニカ、何か、何が体から抜け落ちていく。その感覚には覚えがあった。


 歩乃華の足元から自然が広がっていく。

 しかしそれは美しい景色なんかじゃなかった。


 言葉で形容し難い、見た事もない"何か"。それは生き物みたいに蠢いて、景色を作り替えていく。

 枯れた地に折れた彼岸花。赤黒い川が流れている。

 美しいガラスのイルカも、草原も──見る影もなかった。


 荘園ノ祝福は宿主の精神に依存する。

 普段は美しい景色のみだが、荒れている時や自分すらもコントロールできない時は地獄が出来上がるのだ。


 歩乃華はいつの間にか立ち上がっていた。

 なんなら全ての器官が動かせる。だけれど、まともな足取りは出来なかった。

 ただ地面に尻もちを着いて、膝を抱えることのみ。


 嫌い、という言葉が脳を支配して警報を鳴らせる。

 歩乃華に少しずつかけられていた精神を侵す魔法も、全てから解き放たれる。


 何も聞きたくない。怖い。ごめんなさい。嫌わないで。お願いだから、嫌わないで。


「は? ボクの虚無を塗り替えているの? そんなことできるはずない! だって君は空間魔法(フィールドマジック)に囚われていたじゃないか!!!」


 空間魔法。それはジィルが使える最高峰の魔法だった。


 この空間はジィルによって作られた虚無の世界。

 本来なら、誰も逆らえないはずだった。


 ジィルの魔法が破られるなんて、存在してはいけなかった。


「ボクの空間ではまともな理なんてない! ボクだけが神で、君はただ閉じ込められた人! なのにどうして上書きできるの? これはドミル兄様に褒められた最高級の魔法なのに!」


 喚くジィルの言葉は歩乃華には届いていなかった。届くはずがなかった。今は思考に溺れているのだから。

 それに聞いていたとしても、歩乃華自身もわかるはずがなかった。


 ジィルという絶対ルールがいる時に、祝福や魔法は使えるはずがない。


 歩乃華が、送歌ノ祝福で"精霊子"を作り出さなかったら、の話だが。


 力技とはいえジィルのルールが破られた。


 ……故意的にではなく、感情の荒ぶりによる祝福の暴走のせいだったが。


 だから歩乃華には広がり続ける荘園を止めることも出来ないし、壁を壊すことなんてできない。

 ジィルからしてみても管理外の精霊子が増えすぎて、及ぼせる影響なんて減っていった。


「気絶? いや違うネ、思考に囚われていると言った方が正しいか」


 このままでは良くない予感がするジィルは冷静に分析する。

 歩乃華の暴走を止めなければ、空間は完全に飲み込まれる。そんな状態で気絶なんてされて不安定になれば、この空間はまともでいられるかすら怪しい。

 もしかしたら流されてしまう、それか一生この空間に閉じ込められる危険性すらあった。


 対処方法は二つ。


 外部から空間内に対してアプローチがあれば、残ってる力でも出ることが出来る。

 そしてもう一つは、暴走している歩乃華を殺すこと。


 一つ目は現実的じゃないし、二つ目をしてしまったら計画の練り直しが必要になるし、したくない。

 いや考えている暇は無い。


 今も尚広がり続ける空間。どんどんと飲み込まれていく。


 ジィルは虚無から鎖を取りだした。

 まずい。

 まずい、まずい、まずい!

 一刻も早くこいつを殺さなければ……!


──間に合わない!


 地面に大きく足を踏みつけ、鎖を操り歩乃華を拘束。そこから一気に締め付けて圧死させる。

 しかしできなかった。


 なぜなら"荘園"がそんなことを許すはずがない。


 少しでもついた傷は即座に治る。大怪我であっても、治る。治るスピードと傷をつけるスピードでは、比べるまでもなかった。


 それにジィルは焦りを感じていく。


 この空間にいるだけで歩乃華を傷つけたく無くなる。

 傷を付けるだけで胸が張り裂けそうになった。


「精神汚染とか……ボクが言えたことじゃないけど最悪だネ」


 抵抗の意を込めて舌を出す。


 大人しく下がってなんていられるか。


 強く強く鎖を握って覚悟を決めていると、空間に異物が混ざってきた。

 ……来たんだ。

 この気配は、間違えるはずがない。


「さぁおいで付き人。どうか彼女を止めてくれ」

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