5・少女と少年と
病室の前の長椅子に俺は縮こまっていた。
もうとっくに自分の運動靴の汚れは数え終わっていた。それでも、顔を上げる事は出来ない。
俺はずっと白い廊下の一部に眼を置いていた。暗い外の世界とは正反対に、病院内では白いものしか眼に入って来ない。その純白の世界に入り込んだ自分に黒い穢れのような存在を感じ、独り押し寿司にされたような圧迫感に身を縮めていたのだ。
わずかだけ眼を上げると、病室のプレート『春野 朋香』の文字が飛び込んでくる。そう、中には勿論彼女がいる。その他に、先程入室した白髪の医師。そしてもう一人…彼女『春野 朋香』の母親も…――。
俺はさっきまでのやり取りを、ぼんやりと思い出していた。
連絡を聞き駆け着けた彼女の母親は、何度も何度も俺に頭を下げ、礼を言った。
年を余り感じさせないロングヘア、それと対をなすような野暮ったい黒スカート。薄い影を背負ったような雰囲気は、春野 朋香とよく似ていた。
俺の名を知ると、驚いた顔でまた何度も頭を下げた。娘からちょくちょく、俺の事を聞かされていたらしい。
彼女、春野 朋香は夏、クラスから消えた後ずっとここに入院していた。病気に関して『脳』や『血管』などの単語は理解できたが、詳しい事が俺にはよく解らない。彼女の母親の説明も専門的なものではなかった。
ただ、『命にかかわる重病』という最も嫌な部分は理解できた…――。
そう、彼女の病気は相当重く、三回にもわたる手術が必要となったらしい。しかもその一つ一つが成功する確率は、かなり厳しいものであったようだ。
『それでも二回の手術が終わったら、あの娘もだんだんと元気になってね…』
彼女の母は伏目がちに話す。そこには娘の姿が映っていたのだろうか。
今月頃から春野 朋香には度々外出許可も与えられた。そんな日は決まってクロッキー帳を片手に普段触れられない風を感じる為、あの公園へ繰り出していたらしい。
『本当にどうして…』
握り締めたコスモス色のハンカチで眼元を拭う。
『今日が、最後の手術の日だったのに…』
俺の心が皿を割った。
がちゃり…という音と共に、白髪の医師が考え込むような顔で病室から出た。
続いて春野 朋香の母が姿を現す。俺の姿を見つけると、引力に引かれるように下がっていた眼と眉を向け口を開いた。
「あの娘が…朋香が、あなたと話したいって…」
乾いた皮膚の上を何かが走り抜けた。
出来る事ならここから逃げ出したい。しかし懇願するような母親の眼というものに、俺は腕を引っ張られていたのだ。
軸を失った足でなんとか立ち上がる。二、三メートルの距離の間、先の霞んだ砂漠を彷徨っているような錯覚に襲われる。促されるよう、二人と入れ違いに俺は『春野 朋香』の病室へと足を踏み入れた…。
後ろ手で閉めたドアの音が、やたらと重々しく聞こえた。
八畳程度の白い部屋には大きなベッドが一つ置かれている。完全な個室らしい。
その部屋の半分だけ空いたカーテンから見える曇天のような気持ちのまま、俺は彼女のベッドへ向かう。雨音は先程よりは静かなものに変わっていた…。
彼女はベッドの大きな枕に後頭部を鎮座させていた。俺の姿を確認すると、ふっと弱々しく微笑する。
顔色は先程よりは良い…ように思えた。濡れた髪は少し乱れている。その髪に触れそうになった手を俺は誤魔化す為、傍の丸い椅子を引き寄せ腰を下ろした。
しばらく薄暗い沈黙が続いた。
「ありがとぅ…」
不意に、彼女が消え入りそうな声で呟いた。
なんに対しての礼なのだろう。俺が今日、公園へと向かった事か、それとも彼女を病院まで運んだ事か。どちらにしても、俺はもう礼を言われるような身分ではないのだ。胸中で自らの身体を引裂きながら、俺は困ったような笑顔を向ける事しか出来なかった。
そしてまた、雨の音だけがこだまする。沈黙というものはお互いの存在をかなり希薄にしてしまうらしい。この病室だけが日常から切り離された異世界のように思えてきた。
冷めた空気と時間…、俺が欲していたものはこれだったのかもしれない。しかし何故か、今はそれが心地良いものとは思えなかった…――。
「私ね…」
唐突に彼女が口を開く。ブラインドのように周囲の空気が変わったような気がした。
「本当は、賀志高校に行きたかったの…」
俺は彼女から紡ぎ出される言葉に耳を疑った。何故今こんな話をしだすのだろうか。
「でも…駄目だったんだ、合格番号に私のものは書いてなかった…」
賀志高校は芸術方面で名が知られている、我が学区ではなかなか有名な私立高校だ。
思考が一段落つく事を確認するようぼんやりと俺を見つめながら、彼女はそのまま言葉を続けた。
「それで今の高校に行く事になって…私の中で何か…、何て言ったら良いんだろ、どこかブレーカーが落ちちゃったのかな」
遠くを見るよう虚空に放たれた苦笑いは、俺の胸をきりりと痛ませた。
「私の居場所は『賀志高校の美術部』で、こんな所じゃない…なんて思ってたの。授業中も休み時間もそんな事ばかり考えてて、気付いたら放課後…なんて事もよくあったんだ…」
彼女は天井を見上げシャボン玉を作るように語る。発される内容の一つ一つを、俺は噛み締めるように聞いていた。
「そんないつもの夕暮れの放課後…私、いつものように窓から運動場を見てた…。そこではサッカー部が練習していたの」
俺の心臓はどくりと警告音を鳴らした。
「一年生が二つのチームに分かれててね…、あれ紅白戦って言うのかな…。で、私はそれをぼけーっと見てたんだ」
だんだんと水を得たような口調に変わってゆく。
「それでね、ある男の人に…私、眼を惹かれたの」
彼女は瞼の裏のスクリーンを見るように、そっと眼を閉じる。そして記憶を探るように続きを話し始めた。
「その人…はっきり言っちゃうと…そんなに上手い方じゃなかったんだ。シュートもパスも見当違いの方向に飛んじゃって、どっちかって言うと下手な方だったんだ」
彼女の話を聞きながら、俺は自分の手が震えているのに気が付いた。
「でも必死だったの…三点差、タイムはあと少し、他の人たちはもうほとんど諦めちゃってるのにね…その人だけ汗びっしょりで、必死でボールを追いかけてたの」
俺には当時それしか出来なかった、そしてそれは今でも変わらない…。いや、いつの間にか求めるという行為までもが不可能になっていたのか。
そう思いながら、無理矢理他人事のように聞き流したかった。しかし耳を塞いでも、俺を見つめる彼女の眼から聞こえてきそうな気がする。
「『ああ、素敵だな』って思った。この人は私が欲しいものを、私にないものを持ってる…」
そう言うと彼女は、風のような笑顔をゆっくりと俺に向けた。
「それからかな…また、絵を描き始めたのは…」
俺の眼頭は爛れたように熱くなる。眼の前の彼女がいじらしくも痛々しかった。
俺はそんな立派な人間では無い。必死でボールを追いかけていた?そんなもの…食物があったら食べる、飲物があったら飲む、それらと何の変わりもない。ただ、がむしゃらなだけの単純莫迦だ。そう伝えてやりたかった。だがそれは彼女の為でなく、自らの弁護に他ならない。
これ以上彼女を痛めつける理由は存在しない…いや、してはいけない。俺はただじっと暴発しそうな何かに耐えていた。
「宣誓ー…」
彼女は震える手をなんとか掲げ、動きの鈍くなった唇を眠りからもがくよう必死に開く。
「私、春野 朋香は…佐久間 遼平君の事が…」
呼吸そのもの、生命を言葉に変えるように言葉を奏でた。
「―――大好きであります…」
彼女の言葉に促されるよう、俺はその手に自分の手を伸ばす。全く自然に…元々一つであったかのようにそれは重なった。
先程の土砂降りの公園とは違う、今度は確かに…彼女の白い手は俺の中にあった…――。
「とも…――」
逃がさないよう、飛んで行ってしまわないよう、俺が呼び掛けようとしたとき、彼女の手からすっと抜け出るように力が消えた。
瞳がまた重く閉じられてゆく。
「朋香っっ!!!」
悲鳴にも似た俺の叫びが、牢獄のように冷えた病室内に響き渡った…――。
黒い雲はまだ辺りに立ち込めている。が、外見とは裏腹に、それは小雨を放つ程度の力しか残っていないらしい。先程までの嵐は悪夢のように過ぎ去ってくれたのだ。
ならば、今日の出来事もその夢の一部に含めてくれないだろうか。
春野 朋香はあの後すぐに集中治療室に運ばれた。
そのまま本日行われる予定だった最後の手術を開始するらしい。
『私達はいつでも最善を尽くします』
医師の言葉が頭でこだまする。結局最後まで、『助かる』とは断言されなかった…。
俺はその後、死刑宣告を待つような重圧に耐え切れず逃げ出すように病院を出た。外は夜のとばりが無言で蠢いていた。
傷痕のような水溜りに映るやつれくすんだ俺の顔は、さながら廃人のようだ。そんなぼろ雑巾のような身体を引きずる俺の足は、知らない内にあの公園へと向かっていた。
ちかちかと頼りなさげな外灯が、月の代理に夜の園を照らしている。ふと上げた俺の眼にいつものベンチで絵を描く春野朋香の姿が見え、俺は倒れ込むように走った。
息を切らした俺の眼前、ベンチには…彼女のクロッキー帳があるだけだった。何故そんな物を見間違えたのかよく分からない。ただ引き寄せられるように、のろのろとした動作で手に取っていた。
見た目よりずしりと重い…と感じたのは先程までの雨のせいか、それとも俺の淀んだ陰りのせいか?などとおぼろげに考えながら、ゆっくりとそのクロッキーを開いた。
一ページ目は真っ白…と、思ったが違うようだ。
彼女はこのクロッキー帳を後ろから使っていたらしい。俺はそのまま日付をさかのぼるようにページを進めていった。
美術品のようなジャングルジムが画かれている。右下隅には昨日の日付とT・Hの文字…彼女のイニシャルだろう。
次のページには一昨日、その次のページは一昨々日………毎日一ページ、日記のようにそれは描き連なっていた。その中にはいくつか俺の記憶に残っているものもある。そうして逆行して行く日付に眼を通していた俺は、ふと手を止めた。
月が十月から七月へと大幅に飛んでいたのだ。
それは一瞬頭を唸らせたが、すぐに理解できた。この間、二回の手術が行われたのだろう。
七月…という事は、彼女がまだ学校にいた頃のものだ。案の定、そこに画かれていたものは、俺も見慣れた教室からの風景だった。
…いや、待て。
その絵には、俺の眼を惹き付けて放さない妙な違和感があった。
日付の違い、公園と学校の違い…それだけではない。俺は改めて十月のものを見直し、探り取るように新たな違いを見い出した。
そう…月が進むごとに彼女の絵のタッチは、力強いものに変わっているのだ。
線は太く、濃淡は濃く…。重病人の絵がこのように変化するものなのだろうか?これは彼女が回復に向かっている証拠となるものなのか?何か引っ掛かるものを残しながら、俺はまた七月から時をさかのぼり始めた。
十五日…十四日…――。三階の教室、彼女が座っていた席の窓から覗く風景が、焦点を変化させながら綴られてゆく。それは細く流れる道路であったり、なだらかな波のような山々であったりした。
そして…淡い靄のような景色に手が止まる。
これは…――空なのか?
一瞬俺は、その画かれた灰色の空に吸い込まれそうになった。同時に、自分がこれを空だと判別できた事に驚いた。
これは空、確かにそうだ。背比べをするビル街も、横切る航空機も、横一文字に走る地平線も存在しない、この黒鉛で薄く擦られただけの絵を見て、どうして俺はこれを空だと認識したのだ?
何かを吐き出そうとするように、頭の蓋がぐらぐらと揺れる。それは鋭利なメスで割かれたような感覚と共に、俺の胸を熱くさせながら流れ出た。
七月四日…俺はこの日『春野 朋香』と初めて言葉を交わしたのだ…―――。
『春野さん…?』
夕焼け色に染められた放課後、俺は教室で彼女の姿を見つけた。
周囲を額で縁取られ、幻想的であるのに何故か見慣れた後姿。俺の声に彼女は布団から飛び起きるようこちらを振り向く。後ろ手で何か隠しながら、教室の扉の前に立つ俺に向かって、ギョッと驚いた魚のように口をぱくぱくさせている。
『あ…え…あぅ…っ』
どうやら日本語を必死に搾り出そうとしているらしい。
『な…なんでここに?』
慌てふためいた口調で、彼女はやっとそれだけ言い切った。
『手提げ鞄を取りに来たんだけど』
彼女の焦る顔がやけにおかしい。俺は込み上げる笑いを抑える為、わざと単調な口調で答え、自分の席へと向かった。
ばさん!
教室に足を踏み入れた刹那、そんな音が耳を駆け抜ける。音の方向に眼を向けると、そこにはでかいクロッキー帳が開いたまま倒れていた。
『あれ…?』
彼女は自分の足下のクロッキーを見、顔をブルーハワイに染めた。どうやら先程隠していたのはこれだったらしい。大きく開かれたページには、薄いトーンのような模様が画かれている。
『…見た?』
着替えでも覗かれたような台詞を言う。その様子に逆に戸惑う俺を横目に、彼女は諦めたようにのそりとクロッキーを拾い上げた。
そして、大きな音を響かせお供え物のようにそのページを広げたまま机に置いた。
『これは一応…空のつもりなんだけどね?』
そんな事を俺に聞かせる。毒喰らわば皿まで…という心境なのだろうか。
改めて俺はその絵を見直してみる。…なるほど、言われてみればそんな気がしてくる。薄く縁取られた雲の動きがイメージされ、俺はその絵に好感を覚えた。カラーで眼にしたら、その気持ちは数倍大きくなっていたに違いない。
『佐久間君は…サッカー好きなのよね?』
彼女が唐突に訊いて来る。
『ん…、まあね』
何故突然そんな事を?その戸惑いから俺はそんな答えしか出せなかった。
『春野さんは…絵が好きなの?』
今度は逆に俺が訊いた。彼女の質問から派生したものでは無い、絵を見ながら自然とそんな質問が口から出たのだ。
彼女はぴょこんと耳を立てるような反応を示す。少し顔を火照らせ恥ずかしそうに口を開いた。
『…うん』
俺の方をちらちらと見ながら話し出す。
『私が死んでも…私の身体が骨になっても、絵は残るもの…』
俺は深い色に変化してゆく彼女の瞳に眼を奪われていた。
『うーん、何て言うんだろ…私は…――』
そして、放たれた言葉にも…――。
『生きてた証が欲しいのかな…』
どうして忘れてしまっていたのだろうか…。
彼女のその言葉を思い出しながら、俺は自分の身体に爪を立てた。
日ごとに濃くなってゆく鉛筆の線は、まさに彼女の想いだったのだ。夢のように消えてしまわないよう…しっかりと刻み付けるように…。
掻き毟られるような感覚の中、俺は次のページを開く。
そこに描かれていたのは…風景ではなく、前のめりに走る青年…人物画だった。今までのものとは違い、人が変わったような粗いタッチが目立つ。動いている人間を描くのは相当難しいのだろう。
日付は七月三日…、その下の文字は…この絵のモデルだろうか?
俺は暗闇の中、外灯の力を借り眼を凝らした。
『佐久間 遼平君』
小さく擦っただけで消えそうな文字でそう書いてあった…。
『私、春野 朋香は…佐久間 遼平君の事が…』
『―――大好きであります…』
彼女の声が、俺の中で再び響いた。
じわっと、染み出すような想いが身体中を占めてゆく。
『『ああ、素敵だな』って思った。この人は私が欲しいものを、私にないものを持ってる…』
笑わせないでくれ…。
本戦でもない…夏のちっぽけな練習試合での自殺点。
労り、憎しみ、憐みの視線から発されるプレッシャーに耐え切れず、逃げ出すように退部届を書き綴った俺に、人が羨むような何かがあるというのか?
あの日の苦しみと恐怖を誘発させる…頭が空っぽのサッカーボールから、今も逃亡を続けている俺に対し、『素敵』などと言う言葉は似合わないを通り越して滑稽だ。
そんな俺なんかに…!
どうして、どうして、どうして…彼女は…――!?
夜の冷え冷えとした公園で独り、
俺はクロッキーを抱きしめ声を荒げて泣いていた……―――。




