LAST・クロッキーとボールと
眼が覚めたときには昼だった。
昨日の嵐の存在を忘却させるように、窓からは痛いほどの光が部屋を射している。
俺は昨日虚ろな頭でなんとか自宅に辿り着き、シャワーを飲むように浴びた後部屋のベッドに倒れ込んだ。
…目覚ましぐらいセットしておくべきだった。俺は上着を羽織るように着込むと、階段を滑るように下りた。
待て、彼女のクロッキー帳を忘れるところだった。Uターンし分捕るよう小脇に抱え再び戸を開ける。雨で濡れた靴のかかとを踏み付け病院へ向かって駆け出す。
背に母の小気味良い罵声が飛び込んで来たが、向かい風の音に掻き消され俺にはほとんど聞こえなかった。
日中の太陽に焼かれながら、俺は病院へと辿り着いた。
晴れた日の姿は昨日のものとは違い、カラッとした印象を受ける。ドアにぶつかるよう駆け込み、春野 朋香の病室へと向かった。
四階のエレベーターの近く。確かそうだったはずだ。俺は四階廊下を鼠のように駆け回る。
しかし、どこにも『春野 朋香』の文字は無かった。
(まさか…――いや、そんなはずないだろう?)
自分の脳内で生成される嫌な想像を消去する為、必死に消しゴムをかけながら走り続けた。止まりかけたトカゲの尻尾のように息が切れる。白い壁に背を預け、不安をなんとか掻き消そうと汗を拭った。
そのとき、俺の隣で高い電子音と共に病室の扉が開いた。
いや、それは病室ではなく、上がって来たエレベーターだった。その箱の中から見知った顔が現れる。
一瞬、春野 朋香本人かと思ったが違うようだ。昨日逢った彼女の母だった…。俺の顔を見ると一瞬眼を丸くし、その後逸らすように寂しげな視線に変わる。
増強される嫌な靄を押しやりながら…、俺は意を決して彼女に訊ねた……―――。
春野 朋香の母の後ろに続き、俺は三階の病室に足を踏み入れた。
昨日と同じ殺風景な白い個室、そこに彼女『春野 朋香』の姿はあった。彼女は母親の顔を見つけると何かをせがむように、ベッドに横になったまま手を伸ばす。
「あう…だぁ~………」
彼女の母は優しく微笑み、彼女の上半身を支えるように起こしてやる。
先程、四階の自動販売機で購入したオレンジジュースのプルタブを開け、ゆっくりと飲ませてやった。時折零れるジュースをハンカチで拭いながら頭を撫でる。
俺の存在がかなり場違いなものに思えた…。
先程、春野 朋香の母から聞かされた言葉。
『手術は成功…、もう命の危険を心配する必要は無くなったわ…』
それを聞いて俺は大きく安堵の息を吐く。しかしそれも束の間だった。
記憶喪失…――。
日常生活では聞き慣れない言葉だった。自分の名前や出生などを忘れるあれだろうか。そんな疑問を問うてみる。
『そんなドラマみたいなものじゃないの…。今のあの娘は、赤ん坊と同じなのよ…――』
医師の話によると、春野 朋香の記憶が戻る可能性は『無いとは言えない』という事だ。『在るとも言えない』と言う意味なのだろか。いつも負の方面に考える自分の思考に、すこぶる憎らしさを覚えた。
俺は勧められた丸椅子にうなだれるように腰掛けた。春野 朋香の母は気遣うような視線を俺に向ける。そして娘がジュースを飲み終えると、空になったアルミ缶を手に退室した。
部屋には春野 朋香と俺だけになる。
「朋香…」
しばらく胸中で頭を抱え込んだ後、救いを求めるように俺は彼女にクロッキー帳を手渡す。彼女はきょとんとした顔でそれを受け取った。
「憶えてるか…?君が描いたんだ」
新しい玩具とでも思ったのだろうか、ばさばさと両手でそれを虚空で泳がせる。その後上下逆さまに膝の上に置き、ぱらぱらとページをめくり始めた。
その様子を見ながら、俺は公園での彼女の姿を思い出していた。
しかし…けたたましく響いた引裂くような音によって、俺はすぐ現実に引き戻された。
そして眼前の光景に絶句する。
それは彼女がクロッキーのページを破る音だったのだ。公園の風景が画かれたそれを、彼女は楽しげにおにぎりを握るようぐしゃぐしゃと丸め始める。
「な…何やってんだ!!!」
自分の怒声に驚きながらも、俺の手は丸められたスケッチを彼女から荒々しく分捕っていた。
玩具での遊戯を中断された彼女は、丸い眼で俺を見る。顔をくしゃくしゃに歪め、泥酔したしゃっくりのような嗚咽を漏らし始めた。
「う…うぇあぁぁああああ~~っっ!!!」
トマトが潰れたように泣き出した。
その声に呼ばれたかのように、彼女の母親が扉を開け駆け込んで来る。俺に向けられた視線は、嘆きを誘発させた事に対して責めるふうでもなく、ただ悲しげな色をしていた。娘を抱き寄せ崩れるように膝をつく。
「朋香…朋香ぁ……」
震える背中に軽く会釈し、俺は割かれるような思いに悲鳴を上げながら病室を後にした。
公園に倒れるように駆け込み、またいつものベンチに座る。
黒い鳩が数羽、俺の視線を横切ってゆく。公園の秋景色は熱い日光によって調和を崩されているようだった。
ふと自分の手を見ると、彼女が丸めたスケッチを潰すように握り締めていた。クロッキーは置いて来た…が、これは持って来てしまったらしい。
しわくちゃに丸められた絵を手で延ばしながら…気付くと俺はぼろぼろと涙を零していた…。
外国へ高飛びするような気分で、俺は久々に学校へ向かった。
秋でも鬱陶しい教室で、子守唄のような授業を聞いていた。幕を下ろしかけた眼を擦りながら、俺は教室の窓際へ視線を向ける。無論、春野 朋香の姿は無い。
あの状態で退院は可能なのだろうか…。たとえそうであったとしても…普通に登下校し、授業を受け、窓からの風景に思いを馳せる事はもう不可能だ。そんな事ばかりが頭を埋める。
いつの間にやら、俺は硬い教科書を枕にまどろんでいた。
沈んだ夢の中、公園で鉛筆を走らせる彼女の姿がぼんやり見えた…。
五日間…俺は日常を取り戻すように、学校へ足を向かわせていた。
彼女『春野 朋香』の思い出から逃げるように…。
だが、喰いこんだ鈎爪はもう取り除けそうになかった。
彼女への想いは公園で再会するまで忘れてしまっていたはずだ。
一度忘れて、思い出したものを、再び忘れ去る。拾ったものを元の位置に戻すというだけの事が、こんなにも困難なものだとは思わなかった。
捨て犬や捨て猫を連想する自分に、俺は独り嘲笑していた…―――。
日曜日の朝、俺は靴紐を結び直し、病院へと向かった。
久々に病室をノックすると春野 朋香の母が扉を開けた。俺は軽く挨拶をする。
「…良かった…、もう来てくれないかと思ったわ…」
彼女の表情から、嫌味ではない事が狂おしいほど解る。心から安堵しているのだろう。
春野 朋香はベッドで絵本を読んでいた。俺に気付くと、初めて出会ったようなきょとんとした顔を向ける。俺は前日の気まずさを掻き消すように微笑んだ。
「最近はお散歩もさせる事にしたの。…記憶が戻るきっかけになってくれるかもしれないと思って…」
カーテンからの光を調節しながら彼女の母は語る。
その言葉に俺は救われた。いつ切り出そうかと、知恵の輪のように頭を悩ませる必要がなくなったのだ。ごくりと唾を飲み込むと、俺は春野 朋香の顔を見ながら言う。
「今日、いっしょに公園に行かないか?」
彼女は、ぱちぱちと大きな瞬きで答えた。
「行ってらっしゃいな、朋香…」
彼女の母は娘の両肩を抱き、包むように微笑む。
そんなとき俺は、部屋の隅に立てられてある春野 朋香のクロッキー帳を発見した。表紙が手垢でべたべたに汚れている。それはこの数日間で、古ぼけた遺品のように姿を変えていた。
「それじゃあ、車椅子を借りて来るわね」
そう言って春野 朋香の母が扉に手をかけたとき、俺はぼそりと細い声で訊いてみる。
「これ、持って行って良いですか?」
彼女は俺が指差すクロッキーに眼を走らせた後、ひまわりのようににっこりと微笑んだ。
春野 朋香を乗せた車椅子を、俺は後ろから押してやる。
赤子の彼女には自分で椅子を動かす事が出来ない為、こうして俺がゴーカートのように操縦しなければならないのだ。
公園までの道のりはわずかなものであったが、俺は二、三本の横断歩道をスパイのように慎重に渡った。数センチ程度の段差を睨むようにチェックしながら、椅子をゆっくり上げ下げする。
思ったよりも神経を使うものらしい。額に滲んだ汗を、囁くような風が冷やして行った。
車椅子の彼女がおとなしかった事は正直意外だった。いきなり泣き出したりしませんようにと天を仰いでいたが、彼女はただ物珍しそうな視線をあちこちに泳がせるだけだった。両手に抱えられたクロッキー帳の奴も、今日はいたぶられる事はないとホッとしているのだろうか。
いつものベンチが見えて来る。落ち葉の海が映える公園は、俺の眼にとても懐かしいものに映った。
今日は日曜という事もあり、ぽつぽつと子供や主婦の姿があった。が、俺たちの特等席はいつものように空席だった。
落ち葉の上に薄い線を作りながら車椅子を移動させる。ぴたりとベンチに付け、俺は懐かしさを噛み締めるよう彼女の隣に腰を下ろした。
改めて公園を見回してみる。久しぶりに本来の風景を眼にしたような気がする。
そうだ、俺にとっての公園の景色は、彼女の存在があって初めて一枚の絵として成立していたのだろう。そんな事を理解しながら俺は隣に眼をやった。
彼女は今まで抱えていたクロッキーを、病室で絵本を読んでいるときのようにぱらぱらとめくっていた。
俺はそれを見て心臓をばねのように跳ね上げる。
その眼は…いつもこの場所で、絵を描いているときの彼女のものだったのだ…――。
誘われるように、俺は先程病室で借りてきた鉛筆をポケットから取り出すと、そっと彼女の小さな白い手に握らせた。
「描いてみる?」
俺は新しいページを開き促した。彼女は俺の言葉に首を傾げながらも、好奇心という視線を再びクロッキーに投げ掛けた。ぐーで握った鉛筆を紙の上でぐるぐると動かし、連続した円を描き連ねる。
たとえ出鱈目で無茶苦茶な線でも、彼女がクロッキーに筆を走らせているという事実が嬉しかった。楽しそうなその眼を見ながら、俺は締め付けるような苦しくも幸せな…甘酸っぱい苺のような想いを感じ、初めて今現在の彼女の存在を愛しく思った。
今頃、自分の頬を濡らすものがある事に気付く。
恥ずかしさに頭を振ると、軽い聴き慣れた音と共に何かが俺の足に触れた。
忘れたくとも忘れられない…サッカーボールの感触に俺は顔を上げた。遠く向こうに二人組みの子供の姿が見える。兄と弟だろうか。弟と思われる半ズボンの少年が、こちらに大きく手を振っていた。
『そのボールを取ってくれ』と…。
どこかで見た光景だ。
あの日の雨音が再び俺の頭に聞こえてくる。
がちがちと足が震える。
黒い雲が覆い被さり、自軍ゴールが大きく口を開け笑う…。
石になった身体を動かそうとして、俺の身体はみしみしと悲鳴を上げる。
(また…なのか…)
俺はがくりと、絶望という暗闇に頭を垂れた。
…そのときだ…。
「あぁ…う~…」
そんな幻に包まれた俺を引きずり上げるような声が聞こえた。
俺の隣にいた、春野 朋香のものだ…。
俺の服の袖を引っ張り、心配そうに顔を覗き込む。その眼は…今にも零れ落ちそうに激しく潤んでいた。
俺の中で何かが醒めた…――。
彼女の頭を軽く撫で、安心させるように微笑む。
俺は戦場へ向かうように立ち上がった。足下のボールを指すように睨み付ける。
…よく見るとそれは、以前俺がこの公園に置き忘れたままにしていたあのボールだった。
思わず笑みが零れる。
(…ありがとうな)
自然とそんな言葉が浮かんでいた。
地を貫くよう、勢いよく左足を踏み出す。
俺は、数ヶ月ぶりにボールを蹴った……―――。
大きく季節外れの花火のように打ち上げられたボールは、ばさばさと派手に落ち葉を撒き散らし、滑り台近くの木の細腕に挟まっていた。
遠くの兄弟は、ここからでも判別できる不満気な眼を俺へ向けていた。
『シュートもパスも見当違いの方向に飛んじゃって、どっちかって言うと下手な方だったんだ』
全くその通りだな…――。
今まで拘束していた鎖を引き千切ったような清々しい気分と共に、彼女の声を思い出し独り苦笑した。
「あ…ぁ…」
背後での声に俺は振り向く。朋香は込み上げる何かを抑えるように、口元を両手で覆っていた。
しかし…やがて耐え切れなくなったのか、小刻みに身体をしゃくり上げる。
潤んだ眼からは、ばたばたと大粒の雫を零していた。
「遼平…君…――」
小さく震えるその声は、とても懐かしいものだった。
彼女はがくがくと揺らぐ足で地面を踏み締めるように、ゆっくりと車椅子から立ち上がった。秋風に押されるよう俺の身体が動く。
俺からだったのか、彼女からだったのか…そんな事は分からなかった。
気付いたときにはもう、俺は彼女の震える肩をしっかり抱き締めていた…――。
「今度二人で…サッカーしような…」
「うん…――」
俺の心の雨が、やっと上がった………――――。
【FIN】




