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4・甦る記憶と約束の場所と

 いける、ここでクリアし、カウンターだ。

 俺はなんとかボールに追い付く、厳しい体勢からも右足を振り上げる。


 ――何かが俺の足を掴んだ…――。


 違う…だが違わなかった。

 ぬかるんだ地面に俺は軸足を捕られたのだ。

 振り上げた右足の角度が奇妙な線を画き変化する。自分が予測したものとは違う音をさせてボールが飛んだ。

 いや、走った…。スピンをかけ鋭くカーブを画く。

 地上の全ての音が消えた。いや、俺の耳がおかしくなったのかもしれない。

 それならば…眼の方もやられてしまっていて欲しいと願った…。今見ている光景も幻であって欲しい…そう願っていた…―――。


 俺が必死の想いで蹴り出したボールは、ものの見事に自軍ゴールのラインを割ったのだ………――――。


 その日の雨は現実のものだった。

 薄暗い曇天を閉めきったカーテンが部屋を一層沈めさせる。

 壁の薄っぺらい時計は、折れそうな細腕で午後の二時を指している。バラバラとポップコーンを生成するような音をさせ、雨が窓を荒々しく叩く。

 俺は春野(はるの) 朋香(ともか)との公園での一件から、木、金、土と学校を休んだ。

 名目上は頭痛と吐き気。母は特に何も言わない。こういうときの俺には何を言っても無駄と、この十六年間でよく理解したのだろう。

 騒音以外の何者でもない雨音を遮断する為、俺は掛け布団に身を埋める。暗黒色の光景の中でまだ彼女『春野 朋香』の言葉が反芻していた。

 何故そう執拗に俺の前に現れる?

 何故そう執拗に俺の心を掻き乱す?

 彼女の事など公園で再会するまで忘れていたのに。

『おやおや、やっぱり忘れられちゃってた?残念だな~』

 当然だ。

 何度も言うが初めて公園で話した君は、俺が認識していた『窓際の女』春野 朋香とはほとんど別人だった。

 休み時間も授業中も独りで淋しげに空を見上げ、アンニュイな自分だけのテリトリーを構築し、外界とかけ離れた絵画のような女性…。

 そうだ…――、俺が惹き付けられていた彼女とは大違いだ!


(……―――え?)


 だんご虫のように縮こまった身体とは正反対に、眼は痛いほど見開かれる。

思い出した。

 俺は彼女に…『春野 朋香』に好意を寄せていたのだ。

 思い出すという事実には、忘れていたという事実が前程として成り立つはずだ。そう、忘れる程度の、ミジンコ程度の想いだったのだろう。

 だが、確かにそれは存在していたのだ。心臓…いや、身体中の臓器の音が雨音と激しく混合し俺の頭に響いて来る。血が沸騰し身体を突き破りそうだ。俺は痛いほど強い力で身体を抱きすくめた。

 落ち着け…。

 昔、彼女を気にしていたという事実は確かだ。

 だが、それがどうした?

 会話という伝達方法を所持しない彼女に対し、俺は勝手に題名を付け偉人の絵画のように鑑賞していただけにしかすぎない。

 そう、公園で俺に馴れ馴れしく話し掛け、遠慮無しに隣に座り、無言で絵を描き続ける今の彼女とは何の接点も無いはずだ。


(―――いや、…本当にそうなのか?)


 俺は必死に何かを引き剥がそうとする。しかし、次々とその何かは重みを増して行くのだ。

 そうだ、その絵のような彼女と俺は話した事があった気がする…。公園ではなく…夏休み前、学校で。

 そう、彼女が消える前に。

 何だ…何を話したんだ?正直もう彼女の事は考えたくない。彼女の存在は危険すぎる。

 だがその想いに反逆し、彼女の姿、声が頭を駆け巡る。俺の走馬燈はこんなときに限ってカラーらしい。今まで必死に築き上げてきたベルリンの壁を、アリのように細部からじくじくと崩して行く…――。


『サッカー好きなのよね?』


 がちゃりと鍵がはまった。

 公園での彼女の言葉、俺は以前にも同じ事を訊かれたのではなかったか?学校で、やはり俺と彼女は話をした事があったのだ。

 後はこの鍵を回すだけだ。だが俺にはまだ、回す方向がわからない。どちらだ?右か、左か…それとも上か、下なのか?


『サッカー好きなのよね?』


(……サッカー…――?)

 俺は蒸れた掛け布団を蹴り上げ身体を起こした。

 ひんやりとした空気に包まれながら周囲を見回す。今日までベッドでうずくまっていた為気付かなかった。

 いつも俺の半身のごとく存在していたサッカーボールの姿が無い…。

 この前…水曜日、公園に忘れて来たのか?同時に春野 朋香の声が俺の石灰色の頭に響く。


『今度二人でサッカーしよう!』

『次の日曜日、またここでね!』


 今度の日曜、今日しかありえない…。

 ごろごろと空が唸った。雨足は俺を攻め立てるよう、また激しくなる。まさか彼女はこの雨の中、本当に自分を待っているのか?

 だとしたら正気の沙汰とは思えない。このような嵐では、河童でさえ皿の破損を心配し水面から出て来ないだろう。

 だが、俺には確信があった。外れて欲しい確信ほど嫌なものはかなり少ない。俺は最低限の身支度を整え部屋の扉を押し開けた。彼女の事は関係ない、忘れたボールを取りに行くだけだ。そう自分に言い聞かせながら、履き慣れた靴に足を通す。

 彼女は一体どこまで俺を苦しめるのだろう。傘やレインコートの存在も忘却したまま、俺は暗い空の下へ飛び出していた。見慣れた道に人の姿は全く無い。世界崩壊直前というものは、きっとこんな感じなのかもしれない。

 土砂降りの雨で濡れた前髪が、走る俺の額を刺していた。




 見間違いであってくれ。

 今年も標準だった自分の視力を怨みつつ、俺は公園の緩くなった土を踏んだ。

 いつものベンチに…彼女はいた。

 自分を包むように肩を抱き、分厚いコートにくるまる彼女の姿はまるでダルマのようだった。

 何時間そうやって座していたのだろう。コートから覗く白いトレーナーは灰色に重く変わっている。せせら笑うよう雨は、俯き加減に垂れた彼女のこうべを撃ち続けた。

 ぐしゃぐしゃと靴底を沈ませながら俺は彼女の元へ向かう。何故こんなにも足が重いのだろうか。鉛のような両足を引きずるように持ち上げた。彼女を見下ろすよう立ちどまる。

「何で…――いるんだよ…」

 俺の冷え凍えた口はそんな言葉しか吐けなかった。

 我ながら情けない声だ。涙は無くとも臓器は泣いていたに違いない。

「…――」

 俺の存在に気付いたのか…彼女は、はっと顔を上げる。

 信じられない事に、その顔は…笑っていた。

「来て…くれたんだ…」

 少しでも触れると、わっと泣き崩れるガラス細工のような…、母親をやっと見つけた迷子のような…、そんな笑顔だった。俺はその眼に耐えられず、穴の開いたチューブのように声を漏らす。

「なんで、なんで…――っ」

 その後の言葉を俺は続ける事が出来なかった。崩れそうなのは俺の方だったのだと今更気付く。

 眼の前の女性は、何故こんなにまで俺の心を掻き乱すのだ。俺に何を求めているのか、俺が何を求めているのか。三六〇度全方向へ、透明のシナプスが繋がり合っては消えて行く無限の思考の中、俺はただそこに立ち尽くす事しか出来なかった。

 彼女の手がぴくりと動く。細く冷えた…薄紫色にも見える手を、ゆっくりと、祈るように…俺の方へ伸ばす。

 それに引かれるよう、俺は自らの震える手を彼女の方へ向かわせる……―――。


 そして、彼女の身体は糸が切れたようにがくんと崩れ落ちた。

 ばしゃり…と泥が俺の頬にまで跳ねた…。


「おいっっ!!」

 一瞬何が起きたか理解出来なかった俺は、蒼白な想いで彼女の上半身を抱き上げる。

 石のように重く冷たいそれは、本物の死体のようだ。何度揺すっても呼んでも反応は無い。眼は閉じられ、唇は鮮やかなまでの紫色に変色していた。

 まだ散らかったままの頭を急いで整理しながら、俺は判断力の回復の為、自分を落ち着かせる。偶然にも、ここからは電話より病院の方が近い。我が市の病院が、すぐそこにバベルの塔のごとくそびえ立っている。余り体験したくなかった事だが、これが不幸中の幸いという奴か。

 今尚激しさを増す雨水によって、細い身体からは想像出来ないほど重くなった彼女を負ぶると、俺は早足で病院へ向かった。霞みそうになる両眼を広げ、やけに遠くに見える病院の自動ドアへ足を炊きつける。歓迎するようにそれが開いた。

 ロビーの人々は一斉に、強盗でも見るような顔を俺達に向ける。それを弾き返すように俺は声を張り上げた。

「すいません!!」

 やすりで擦ったような、上品とは言えない声が院内に響いた後、二、三人の看護婦が何事かと奥から走り出て来た。

 そして先頭の一人が俺の背を見、驚きに顔を歪める。


「朋香ちゃん!!?」


 なんてこった…。

 病院が近くにあったのは偶然ではなかったらしい…――。

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