第5話 あははははははははははははははは②
五日目。
感染はすでに日本国内に留まらず、各国で同様の症例が報告されていた。
空港、駅、病院、避難施設。
人々が集まる場所で感染が広がり、各国政府は移動制限や施設の閉鎖に踏み切った。
感染者たちは封鎖された施設を開放し、未感染者を外へ連れ出そうとした。拘束しようとしても、集団で振りほどかれる。警察の手に負えなくなった地域では、軍が対応に当たり始めていた。
ヨーロッパのある都市では、市街地へ通じる幹線道路に軍が展開していた。
装甲車両を横一列に並べ、感染者の流入を防ぐための封鎖線が設けられている。
その正面に、数百人の人々が集まっていた。
最前列には老人も子どももいる。道を塞ぐ装甲車両を前にしても、その顔から笑みは消えなかった。
「これ以上近づくな!」
拡声器を通じて警告が繰り返された。
感染者たちは足を止めない。
最前列にいた女性が、兵士に向かって手を振った。
「そんなに怖い顔しないで! こっちに来ればわかるわ!」
声は陽気だった。
友人を食事に誘うような調子だった。
「停止しろ! それ以上近づけば発砲する!」
「大丈夫よ! 怖くなんかないんだから!」
女性は笑いながら歩き続けた。
やがて感染者たちは装甲車両にたどり着き、次々と手をかけた。
何人もの手が車体を押し始める。
数百人の笑い声に混じって、金属が軋む音がした。
車両が動いた。
「嘘だろ……」
兵士の一人が呟いた。
重量のある装甲車両が、じりじりと後退している。
感染者たちは少しも苦しそうではなかった。笑いながら力を合わせ、車両を押しのけようとしている。
指揮官の命令が飛び、兵士たちが銃を構えた。
警告射撃にも、感染者は反応しなかった。
車両の間に隙間ができ、そこから集団が押し寄せる。
発砲音が響いた。
先頭にいた男の胸に弾丸が当たり、身体が大きく揺れた。
それでも男は倒れなかった。
数歩よろめいたあと、何事もなかったように歩き続ける。
別の男は銃弾を受けて膝をついたが、すぐに立ち上がった。
破れた服の下に見えた傷は、瞬く間に塞がっていた。
「あっはっはっは!」
銃声が重なり、薬莢が車体に跳ねた。倒れた者もすぐに立ち上がり、集団はじりじりと距離を詰めてくる。
兵士たちは後退を始めた。
「下がれ! 車両に戻れ!」
命令が飛び交う中、一人の兵士が銃を落とした。
肩を震わせている。
「おい、どうした!」
隣の兵士が振り向くと、男は笑っていた。
「いや……ははっ……なんだか……」
その表情を見た瞬間、隣の兵士は言葉を失った。
「大丈夫だ。なんか、もう……全部、大丈夫な気がするんだよ」
男は笑いながらヘルメットを脱いだ。
短く刈り込んだ髪の間から、小さな白いキノコが伸びていた。
「お前、いつの間に……!」
「あははっ! なあ、もうやめようぜ。こんなの、何も怖くないんだからさ」
感染した兵士が伸ばしてきた手を、隣の兵士は振り払った。
その向こうでも、別の兵士が銃を下ろしていた。
装甲車両の上にいた者が降り、封鎖線を守っていた者が障害物を動かし始める。
車両を押しのけてきた感染者たちが、武器を下ろした兵士を笑顔で迎え入れる。
「隊員を下げろ! 封鎖線は放棄する!」
指揮官は叫んだ。
しかし、後方へ続く道路には、すでに感染した兵士たちが集まっていた。
笑いながら、こちらへ手を振っている。
指揮官は無線機を握りしめた。
「こちら第七封鎖線! 感染者が突破した! 隊員にも感染が広がっている! 退路を確保できない!」
周囲では、銃声が途切れ始めていた。
兵士たちが一人、また一人と武器を置く。
指揮官が無線で応答を求め続ける間にも、笑い声は近づいてきた。
振り返ると、部下の一人が目の前に立っていた。
「もういいじゃありませんか、隊長」
その男は、満面の笑みを浮かべていた。
「一緒に行きましょうよ」
* * *
七日目。
各国の緊急対策本部では、事態を把握することさえ難しくなっていた。
感染者の数を集計していた担当者が感染する。救援を求めた施設へ向かった部隊が、そのまま連絡を絶つ。感染者を隔離していた建物では、職員が自ら扉を開ける。
通信網はまだ生きていた。
だが、その向こうにいる人間が、もう信用できなくなっていた。
東京の対策本部でも、同じ問題が起きていた。
「西部の臨時収容施設から連絡が途絶えました」
「理由は?」
「確認中です。最後の報告では、収容者が一斉に移動を始めたと……」
壁のモニターには、各地の封鎖線と医療施設が映っていた。職員たちは映像の隅の時刻を確かめながら、届いた報告を地図へ書き込んでいる。
「海外の状況は?」
「欧州の複数の国で、軍の指揮系統が機能していないとの報告が入っています。北米でも主要都市の封鎖が破られたようです。ただ、現地からの情報が……」
職員が言葉を濁した。
つい先ほど届いた国外の報告には、感染拡大は沈静化しつつあると書かれていた。
資料には通常どおりの形式で数字が並び、必要な項目もすべて埋められている。
ただし、最後の欄にはこう記されていた。
『もはや対策は必要ありません。皆さんも、どうぞ安心してください』
報告を送信した担当者との映像通話では、相手は終始笑っていたという。
「……感染しても、仕事はできるんですね」
若い職員が呟いた。
隣の席からは、返事がなかった。
感染者は知識を失わない。
道具も使える。車も運転できる。無線で連絡を取り、報告書を作り、指示を出すこともできる。
ただ、その判断が、もはや本人のものではなくなっている。
頭にキノコがあれば感染者だと分かる。だが、文書や音声で連絡してくる相手の姿までは確認できない。
さらに、感染者自身が危険を感じていない。
逃げようともしない。
助けを求めることもない。
むしろ、自分からほかの人間を迎えに行く。
世界中で、それが起きていた。
「本部長。都内の警備部隊から連絡です」
差し出された受話器を、本部長は取った。
『隊員の大半が感染しています。施設内にも感染者がいて、入口を押さえている者も、もう……』
「無理に交戦するな。撤退できる者は――」
受話器の向こうで、言葉が笑いに変わった。
『ああ、もう大丈夫です。皆さんも――』
通話が切れた。
本部長は受話器を置いた。
モニターの中では、警察官が封鎖を解き、医療施設の職員が感染者を外へ送り出していた。数時間前まで必死に守られていた場所が、守っていた者自身の手で開かれていく。
「……いったい、誰がこんなことを」
本部長は呟いた。
誰も答えなかった。
感染者たちは、一つの指示に従っているように見えた。
国も、言葉も、所属する組織も違う。
それなのに、世界中で同じことが起きている。
封鎖を解き、人々を集め、感染を広げる。
その目的のために、誰もが笑顔で働いていた。
そのとき、対策本部の扉が開いた。
「本部長!」
廊下にいた警備員が、息を切らして入ってきた。
「建物内に感染者が……!」
言い終わる前に、背後から笑い声が聞こえた。
警備員が振り返る。
廊下の向こうから、何人もの職員が歩いてきていた。
誰もが顔見知りだった。
つい先ほどまで、同じ建物で対策に当たっていた人々である。
「みんな、もう大丈夫ですよ!」
先頭の男が笑顔で言った。
「外へ出ましょう。こんなところに閉じこもっていないで!」
警備員が扉を押さえた。
「来るな!」
男は足を止めなかった。
「どうして? みんな幸せになれるのに!」
その背後から、さらに人々が集まってくる。
廊下いっぱいに、笑い声が広がった。
職員の何人かが非常口へ走り出した。
本部長は机の上の無線機をつかんだ。
「こちら中央対策本部。庁舎内に感染者が侵入した。残存する全部署は、ただちに――」
言葉が続かなかった。
扉の向こうから、何かが光を受けて舞い込んできた。
細かな、白い粉だった。
天井の照明の下で、きらきらと漂っている。
本部長は口を閉じ、無線機を握り直した。
誰かが叫んだ。
机が倒れる音がした。
その騒ぎの中で、最初に笑い出したのが誰だったのか、本部長にはわからなかった。
「ふっ……」
すぐ近くで、誰かが息を漏らした。
「ふふっ……あはは……!」
笑い声が増えていく。
本部長は袖で口元を覆い、無線機に声を絞り出した。
「……誰か、応答しろ」
返事はなかった。
別の回線にも切り替えた。
応答を求める声に混じって、どこからか笑い声が聞こえた。
さらに別の回線を呼び出したが、今度は何も返ってこなかった。
本部長は無線機を下ろした。
扉が押し開かれ、職員たちが室内へ入ってくる。
楽しそうに笑いながら。
その後ろにいた者も、さらにその後ろにいた者も。
誰もが幸福そうだった。
そして、誰も彼らを止められなかった。
* * *
八日目の朝。
世界各地で続けられていた組織的な抵抗は、ほぼ機能を失っていた。
すべての人間が感染したわけではない。
まだ閉じこもっている者もいた。逃げ続けている者もいた。自分だけは正気を保とうと、必死に抵抗している者もいた。
しかし、国や組織として感染に対抗することは、もはやできなくなっていた。
都市の大通りを、人々が歩いていく。
頭には小さなキノコが生え、誰もが笑っていた。
中には、つい数日前まで病床に伏していた者もいる。
車椅子を必要としていた者も、長年の病に苦しんでいた者も、今は自分の足で歩いていた。
その顔には苦痛の色がない。
むしろ、これまでの人生で一度も味わったことのないほどの幸福を感じているようだった。
人々は笑いながら手を取り合い、まだ感染していない者を探しに行く。
どこからか、また笑い声が聞こえた。
その声に応えるように、別の場所からも笑い声が上がった。
笑い声は、いつまでも途切れることがなかった。




