第4話 あははははははははははははははは①
最初に異変が報告されたのは、山間部の小さな町だった。
「笑いが止まらない?」
交番勤務の高瀬巡査部長は、無線から聞こえてきた言葉を思わず聞き返した。
『そうです。複数人が道路上に集まって、ずっと笑っているそうで。頭にキノコが生えているという話もあります』
「……キノコ?」
『通報が何件か重なっています。ひとまず現場の確認をお願いします』
高瀬は助手席の後輩と顔を見合わせた。
悪質ないたずらだろうか。だが、通報が複数あるというのは気になる。
指定された場所へ向かうと、カーブを抜けた先で数台の車が停まっていた。軽トラックが二台と、普通乗用車が三台。路肩に寄せられた車の周囲に、十人ほどの男女が集まっている。
車内まで笑い声が聞こえてきた。何かの集まりかと思ったが、近づいても会話らしい言葉が聞こえない。
互いに顔を見合わせたり、腹を抱えたりしながら、ただ笑い続けている。
「あっはっはっはっは!」
「ふふっ、あはははは!」
パトカーが停車しても、笑い声は止まらなかった。
高瀬が車から降りると、一人の男がこちらを振り向いた。
「ああ、お巡りさん! はっはっは! ご苦労さまです!」
「どうも。何かあったんですか?」
「何かって、いやあ、もう、あっはっはっは!」
男は笑いながら高瀬に近づいてきた。
作業服を着た五十代ほどの男だった。顔は紅潮し、目尻には涙が浮かんでいる。
そして、頭に小さなキノコが生えていた。
髪の間から伸びた白い柄の先に、親指ほどの傘がついている。
「……頭のそれ、どうしたんですか?」
「ああ、これですか? さあ、いつの間にか生えちゃいましてねえ!」
男は自分の頭に手を伸ばし、指先でキノコをつついた。
「いやあ、参りました! はっはっは!」
参っているようには見えなかった。
周囲の人々も同じだった。全員の頭に大小のキノコが生え、誰一人として笑うのをやめようとしない。
高瀬は後輩に目配せした。
「皆さん、ここで何をしているんですか?」
「みんなで集まってるんですよ」
「何のために?」
「そりゃあ、みんなで楽しくするためでしょう!」
男はさも当然のように答えた。
そのとき、停車していた乗用車のドアが開いた。
中から若い女性が転がるように降りてきて、高瀬の腕をつかんだ。
「助けてください! 夫が急におかしくなって……!」
女性は泣いていた。
「山道を走ってたら、急に笑い出したんです! 車を停めたと思ったら、あの人たちのところへ行っちゃって! 私が何を言っても聞いてくれないんです!」
その背後で、三十代ほどの男が笑っていた。
「何をそんなに心配してるんだよ。ほら、こっちに来いって。すごく気分がいいんだぞ」
「いや! 近づかないで!」
男は妻に向かって歩き出した。
高瀬が間に入る。
「ちょっと待ってください。奥さんが嫌がっていますから」
「大丈夫ですよ、お巡りさん。すぐに楽しくなりますから」
男は笑顔のまま、高瀬を押しのけようとした。
高瀬は両腕で制止したが、相手は足を緩めない。後輩が駆け寄り、二人がかりで押しとどめようとしても、じりじりと後退させられてしまう。
「おい、落ち着け!」
「あっはっは! もう、何してるんですか!」
男は楽しそうに笑っている。二人の警察官を押し返していることなど、まるで気にも留めていなかった。
その頭から、白い粉のようなものが舞い上がる。
高瀬は反射的に顔を背け、女性をかばって後ずさった。男を押しとどめていた後輩も、たまらず手を放す。
周囲でも、笑っていた人々が動き始めていた。
停車中の車へ向かう者。道路の先へ歩き出す者。まだ車内にいる人間に、窓越しに呼びかける者。
つい先ほどまで、ただ笑っていただけの集団だった。それが突然、示し合わせたかのように動き始めたのである。
「……何なんだ、こいつら」
高瀬は無線機を取った。
「こちら高瀬。現場に到着しました。複数名に異常な興奮状態が見られます。応援を――」
『ああ、高瀬さん!』
無線から、聞き慣れた同僚の声が返ってきた。
『そっちはどうですか? こっちはもう大変ですよ、あっはっはっは!』
高瀬の手が止まった。
『いやあ、何だか楽しくなってきちゃいましてねえ!』
その向こうで、何人もの笑い声が重なっていた。
* * *
三日目には、原因不明の集団感染として全国に報道されていた。
当初は山間部の限られた地域で確認されていた症状が、近隣の市町村へ広がり、さらに都市部でも相次いで報告されるようになった。
共通するのは、頭部に発生する小さなキノコと、止まらない笑いだった。
感染者の大半は強い幸福感を訴え、疲労や痛みも感じていないという。
そして、医療機関では別の異常も確認され始めていた。
「……もう一度、確認してもらえますか」
病院の診察室で、医師の中村は検査画像を見つめていた。
目の前には、七十代の女性が座っている。
末期の肺がん患者だった。
すでに積極的な治療は終了し、昨日まで酸素吸入を受けながら病床に伏していた女性である。
ところが今は、背筋を伸ばして椅子に腰掛け、楽しそうに笑っていた。
「あっはっは! 先生、もう帰ってもいいですかねえ!」
酸素吸入も必要としていない。それどころか、先ほど病棟から自分の足で歩いてきたという。
中村が見ている検査画像には、昨日まで確かに存在していた腫瘍が映っていなかった。
別の画像を開き、患者名と撮影日時を確かめる。
結果は同じだった。
「先生……」
付き添いの娘が、震える声で尋ねた。
「母は、治ったんでしょうか」
中村は答えられなかった。
画像を取り違えたのではないか。検査機器の故障ではないか。考えられる可能性は確認した。
だが、女性の身体から、がんが消えているという結果は変わらなかった。
「少なくとも、今の検査では異常が確認できません。ただ、何が起きたのかは……」
「ああ、よかった!」
娘が母親の手を握った。
泣きながら、何度もその手をさする。
「お母さん、よかったね。本当に……!」
「だから言ったじゃない。もう大丈夫だって。あっはっはっは!」
女性は笑いながら娘を抱き寄せた。
その頭には、小さな白いキノコが三つ生えていた。
中村は机の上に積まれた報告書へ目を向けた。
骨折で歩けなかったのに、廊下を走り回る患者。数十年患っていた病気が消えた患者。重い外傷が、短時間のうちに痕跡もなく治癒した患者。
どの患者も、頭にキノコが発生してからの急変だった。
「先生、ありがとうございました!」
女性が立ち上がった。
「お母さん、待って。まだ帰っていいって言われてないでしょう?」
「大丈夫、大丈夫! ほら、あなたも一緒に行きましょうよ!」
女性は娘の手を引いた。
その力があまりに強く、娘の身体が椅子から引き起こされる。
「痛い! 放して!」
「あらあら、ごめんなさいねえ! あっはっはっは!」
女性は笑いながら謝ったが、手を放す様子はなかった。
中村は立ち上がった。
「待ってください。まだ診察は終わっていません!」
「先生も一緒に来ませんか? みんなにも教えてあげたいんです!」
女性は笑顔で振り返った。
娘が身をよじっても、女性はその手を引いたままだった。
女性の頭から、細かな白い粉が舞い落ちた。
中村は診察机を回り込み、娘の手首をつかんでいる女性の手に触れた。指をほどこうとしても、びくともしない。そのとき、廊下から複数の笑い声が聞こえてきた。
扉が開き、看護師が顔を出す。
「先生、大変です! あははっ! 患者さんたちが、みんな起き上がっちゃって!」
看護師の頭にも、小さなキノコが生えていた。
中村は廊下へ出た。
車椅子の患者が立ち上がり、松葉杖をついていた男がそれを放り出す。病室から次々と人々が出てきて、笑いながら廊下を歩いていた。
中には、昨日まで意識のなかった患者もいた。
誰もが元気だった。
病室へ戻るよう求める職員の声も、笑い声にかき消されていく。
廊下の奥では、数人の患者が非常口へ向かっていた。
「待ってください! 外には出ないで!」
中村が呼び止めたが、誰も振り向かない。追いかけようとすると、別の患者たちが笑いながら道を塞いだ。
「先生、もう働かなくていいんですよ!」
その一人が、嬉しそうに言った。
「みんなで外へ行きましょう!」
非常口の扉が開いた。
外の明るい光が廊下へ差し込み、人々が次々と出ていく。
列の中に、先ほどの母娘が見えた。母親は娘の手をしっかり握り、笑いながら外へ出ていく。娘は振り返って何かを叫んだが、その声は周囲の笑い声にかき消された。
中村は患者たちに行く手を塞がれたまま、開いた非常口を見つめていた。




