第8話 唐橋の戦い
天正10年6月7日、昼。近江国、瀬田城。
信長の狙い通り、この日も雨が降っていた。瀬田川の水かさは増し、容易に渡ることはできなかった。大軍が進むには、唐橋を使うのが最も確実であった。
「上様! 明智軍の姿が見えました!」
物見からの情報をいち早く届けたのは、蘭丸だった。
「ついに来たか。それで、兵力はどれほどじゃ?」
「敵は2万弱。対する我らは、4000ほどにございます。」
その内訳は、蒲生親子が率いてきた2000人、近隣の国衆や百姓から集めた1500人、そして信長直属の兵500人であった。
「やはり少ないのう。じゃが、時を稼ぐには十分じゃ。」
信長はそう言うと、兵たちを鼓舞するため、前線へと向かった。
「皆の者、聞け!」
信長の声が響き渡った。
「まずは、よくぞ集まってくれた。礼を申す。」
そう言うと、信長は兵たちに向かって深々と頭を下げた。
「上様! どうか頭をお上げくだされ!」
兵たちから声が上がるまで、信長は頭を下げ続けた。
やがて顔を上げると、再び口を開いた。
「中には、わしらの要請に応じてくれた勇敢な百姓たちもおろう。生きて帰った者には、望む褒美を申してみよ。できる限り用意してやる。」
百姓たちから大きな歓声が上がった。
「ただし、日の本が欲しいというのは勘弁してくれ。わしもまだ、日の本を治めておらぬのでな。」
たちまち、兵たちの間に大きな笑い声が響いた。
「よいか! この戦は、ここで十兵衛を討ち取るためのものではない! 援軍が来るまで、時を稼ぐための戦じゃ!」
信長は声を張り上げた。
「無意味な突撃をして命を落とすことは、決して許さぬ! 何としても生き延びるのじゃ! よいな!」
「おおおっ!!」
「では、各々支度にかかれ!」
「おおおっ!!」
兵たちの鬨の声は、少し離れた明智軍のもとにまで届いていた。
その頃、光秀のもとにも斥候からの報告が届いていた。
「殿。信長軍は、この先の唐橋に兵を集め、我らを迎え撃つ構えにございます。」
利三が報告した。
「そうきたか。」
光秀は、信長が唐橋で迎え撃つか、瀬田城に籠城するかのいずれかだろうと予想していた。
「敵の兵は、我らの半分にも満たぬであろうな。」
「はっ。およそ4000との報告が入っております。中には百姓も混じっているとか。」
「やはりな。ところで、川の水かさはどうじゃ?」
「ここ数日の雨で増水しており、とても大軍が渡れるような状態ではございませぬ。」
「そうか…。」
光秀はしばらく考え込んだ。
すると、利三が珍しく冗談を口にした。
「殿が『あめが下しる』などという句を詠まれるから、雨が降り続くのでしょうな。」
「何を申す。今は梅雨じゃぞ。」
光秀は微笑みを浮かべ答えた。
戦を目前にしていたが、2人には不思議と落ち着きがあった。
なぜなら、信長の狙いは、おおよその見当がついていたからである。
光秀は兵たちの前に出ると、声を張り上げた。
「皆の者、聞け! この先の唐橋にて、信長軍が我らを待ち構えておる!」
兵たちは静かに耳を傾けた。
「じゃが、案ずることはない! 我らは2万弱、対する信長軍はわずか4000ほどじゃ!」
その言葉を聞き、兵たちの表情に安堵の色が浮かんだ。
すると、前列にいた兵の1人が声を上げた。
「では、橋へ総攻めを仕掛けるのですな!」
「いや、違う!」
光秀は即座に否定した。
「今は攻めぬ。 雨がやみ、川の勢いが弱まるのを待つのじゃ。」
「よいか! わしの命令があるまで、何があろうと動くでない!」
「ははっ!」
光秀は兵たちを見渡し、強く命じた。
しばらくして、瀬田川を挟んだ両軍の睨み合いが始まった。
信長の元に弥助がやってきた。
「テキ、ウゴカヌ。」
「何じゃ、弥助。」
カタコトの弥助に代わって、蘭丸が説明した。
「上様。敵軍に動く様子はありませぬ。」
「さすがは十兵衛じゃ。先に動けば不利になることを、よく分かっておる。」
「いや、感心している場合ですか。」
蘭丸は呆れた表情で言った。
「蘭丸は堅いのう。弥助、蘭丸。しばらくこの場を任せるぞ。」
「オマカセヲ!」
弥助は胸を叩いて答えた。
「上様、どちらへ行かれるので…。」
「そのうち分かる。」
そう言うと、信長はどこかへ行ってしまった。
一方、明智軍は光秀の命令を守り、臨戦態勢のまま待機していた。
「いつでも動けるようにしておけ。じゃが、今は決して動くでないぞ。」
光秀の命令は、前線の兵たちにも繰り返し伝えられていた。
しかし、思わぬ出来事が起きた。
「おい! 2万も兵がおって、橋1つ渡れぬのか!」
「よほどの腰抜けどもと見えるな!」
「はっはっは!」
対岸にいた織田軍の百姓たちが、明智軍を挑発し始めたのである。
「おのれ、百姓風情が!」
明智軍の兵たちは怒り、今にも動き出そうとしていた。
しかし、光秀はすぐにそれを制した。
「落ち着け。敵の策じゃ。挑発に乗るでない。」
光秀の命令によって、兵たちはひとまず落ち着きを取り戻した。
ところが、その時だった。
「織田信長である!」
対岸から大きな声が響いた。
兵たちが目を向けると、そこには信長本人が立っていた。
「この信長の首が欲しければ、取りに来るがよい!」
信長は堂々と言い放った。
その姿を見た明智軍の前線では、再び騒ぎが起きた。
「信長じゃ! 信長がおるぞ!」
「討ち取れば大手柄じゃ!」
「待て! 殿から動くなと命じられておる。」
しかし、もはや一部の兵たちは耳を貸さなかった。
信長の首を取ろうと、我先に唐橋へ駆け出したのである。
統率の取れない明智軍の兵たちが、次々と橋へ押し寄せた。
その様子を見て、信長は静かに笑った。
「ふっ…愚かな。」
ただ、その笑みにはどこか曇りがあった。
橋へ向かってくる兵の中には、かつて自分とともに戦場を駆け抜けた者もいるはずである。
それでも、今は敵であった。
「鉄砲隊、放て!」
信長の号令とともに、一斉に火を噴いた。
鉄砲の音が琵琶湖に響き渡った。橋へ押し寄せた明智軍の兵たちが次々と倒れていった。
その頃、光秀のもとへ伝令が駆け込んできた。
「申し上げます。前線の一部が命令を無視し、唐橋への攻撃を始めてしまいました。」
「何じゃと!? あれほど動くなと申したのに…。」
光秀にとっても想定外の事態であった。
「直ちに兵を引かせよ。統率を立て直すのじゃ!」
「ははっ!」
光秀はしばらく戦況を見つめた。
(…こうなっては仕方あるまい。敵の守りを探る機会と考えるか。)
光秀は兵の配置を改め、唐橋への攻撃を命じた。
こうして、瀬田の唐橋を巡る激しい戦いが始まったのである。
戦いの中で、信長は自ら最前線に立ち、矛を振るった。
「皆の者! わしに続け!」
信長が先頭に立つと、兵たちは奮い立った。
一方、光秀は後方から戦場全体を見渡し、兵を指揮していた。
「負傷者を下がらせよ!無理に橋へ押し込むでない! 後続の兵は退却する者を援護せよ!」
光秀は常に戦況を見極め、兵たちを鼓舞し続けた。
信長は自ら戦場に立つことで兵を奮い立たせ、光秀は冷静な指揮によって軍勢を支えていた。
こうして一進一退の攻防戦は、昼夜を問わず5日間続いた。
信長自ら矛を振るったこともあり、兵たちの士気は高く、信長方の優勢だった。
さらに、唐橋での戦いを聞きつけた近隣の国衆や百姓たちも少しずつ合流し、兵力を補っていた。
一方、明智軍は橋を突破できず、織田軍を上回る損害を出していた。しかし、光秀は負傷者を早めに後方へ下げ、兵の交代を徹底することで、死者を最小限に留めていた。
両軍とも決定的な勝利を得られぬまま、時だけが過ぎていった。
しかし、天はいつまでも信長に味方するわけではなかった…。
5日間降り続いた雨が、静かにやみ始めたのである。




