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天正未明  作者: いろ
第一章〜分岐する歴史〜
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第7話 瀬田城にて

天正10年6月2日、昼。近江国、瀬田城。

織田信長。その生還によって、歴史の歯車は新たな方向へと動き始めた。

「上様! お迎えに馳せ参じました!」

瀬田城の方から声が聞こえた。

瀬田城主の山岡景隆が、家臣を引き連れて信長を出迎えに来たのである。

その中には信忠と弥助の姿もあり、信長はひとまず胸をなで下ろした。

「父上! ご無事でしたか!」

「ああ。城介もよくぞ京を脱出したな。弥助も信忠を守り抜いたこと、大儀であった。後で褒美をくれてやる。」

「ヤスケ、タノシミ。」

弥助は無邪気な子供のように喜んだ。

「父上の書状を受け取り、急ぎこちらへ参りました。幸い、追手に遭うこともなく到着できました。」

「…そうか。」

その話を聞いた信長は、それ以上の言葉を返せなかった。

信忠が無事に逃げられたのは、貞勝が京で囮となり、明智軍の注意を引きつけてくれたからかもしれない。

しかし、そのために大切な家臣を失ってよいのだろうか。

一方で、貞勝が残らなければ、自分も信忠も討たれ、織田家そのものが滅亡していたかもしれない。

信長は、貞勝と別れてからずっと葛藤していたのである。

しばらく沈黙が続いた。

それを破ったのは景隆だった。

「上様。あまり時間がありませぬぞ。」

「……分かっておる。」

「まずは瀬田城へお入りくだされ。すでに守りは固めており、鉄壁に御座います。」

「うむ。世話になるぞ。」

城内へ入ると、信長は早速、評定を開いた。

「まずは各地へ出陣している家臣たちに書状を届けよ。光秀が謀反を起こしたこと、そして、この信長がまだ生きておることを知らせるのじゃ。」

「ははっ!」

信長は各地で戦っている重臣たちを呼び戻すことを決意した。

「徳川様にはいかがいたしましょう。」

「無論、竹千代にも書状を送るのじゃ。」

堺に滞在していた家康は、光秀の謀反をいち早く知り、すでに三河への帰還を目指していた。

「それから、蒲生にも早馬を送れ。安土の守りを固めさせたうえで、動かせる兵をこちらへ寄越すよう伝えるのじゃ。」

「かしこまりました。」

「さらに、この近隣でもできる限り兵を集めよ。国衆には援軍を求め、農民の中からも協力を募るのじゃ。」

「ここで迎え撃つのでありますか?」

蘭丸は戸惑った様子で尋ねた。

「瀬田城で決戦をするわけではない。各地から家臣たちが戻るまで、ここで時間を稼ぐのじゃ。」

「では、瀬田城に籠城するのでありますね。」

「いや、籠城はせぬ。城に閉じこもれば、いざという時に脱出が難しくなる。」

信長は地図を広げ、ある場所を指さした。

「瀬田の唐橋じゃ。ここで十兵衛の足を止める。」

京から安土へ大軍を進めるには、瀬田の唐橋を渡る道が最も都合がよかった。琵琶湖を大きく迂回する道もあるが、それでは時間がかかる。

信長は、光秀が唐橋を目指すと読んだのである。

「しかし、敵は2万弱。我らは兵を集めても、せいぜい4000ほどかと……。」

蘭丸が心配そうに言うと、信長と景隆は顔を見合わせて笑った。

「お主はまだ青いのう。」

「と申しますと?」

「ここへ来る時、唐橋を渡ったであろう。何か気づいたことはなかったか?」

蘭丸は少し考えてから答えた。

「あっ、川の水かさが増していたような……。」

「その通りじゃ。今は梅雨。川の水かさが増し、容易には渡れぬ。この時期、大軍が川を渡るには橋を使うのが最も確実じゃ。」

「しかし、それでは橋に敵が押し寄せてしまいます!」

「それでよいのじゃ。橋は大軍が一度に進むには狭い。橋の端で迎え撃てば、少数の兵でも十分に守ることができる。」

信長がそう言うと、その場は静まり返った。

「……なんじゃ。今のは笑うところじゃぞ。」

蘭丸たちは顔を見合わせた。

「上様。今はそのような冗談を言っている場合では…。」

「まったく、お主らは堅物ばかりじゃのう。」

信長は呆れたようにため息をついた。

「上様。橋は我らにお任せくださいませ。」

景隆が口を開いた。

「うむ。この地のことはお主が最もよく知っておる。兵の指揮も景隆に任せたい。」

「承知いたしました。」

「ところで、どのように守るつもりじゃ?」

「私に策がございます。」

「申してみよ。」

景隆は地図を広げ、策を説明し始めた。

その策は、次のようなものであった。

まず、川岸に簡易的な屋根を設け、鉄砲隊を一列に配置する。屋根によって火縄が雨に濡れるのを防ぎ、雨天でも射撃できるようにするのである。

次に、橋を守る兵を前後に分け、疲労がたまれば交代させる。こうすることで、長時間の攻防にも耐えられるようにする。

そして最後に、橋の守備が限界に達した場合は、唐橋を焼き落とす。あらかじめ橋の下に燃えやすい資材を仕込み、油を染み込ませておくことで、いざという時に火を放てるようにするのである。

「それは良き策じゃ。景隆、早速準備に取り掛かってくれ。」

「ははっ!」


翌日、昼。2人の武将が援軍を率いて瀬田城へ駆けつけた。

「上様! 蒲生賢秀、息子の氏郷、以下2000。参上つかまつりました!」

安土城の守りを固めたうえで、蒲生親子が援軍に駆けつけたのである。

「おお、賢秀か。それに氏郷も。頼もしいのう。」

「ははっ。それにしても、光秀殿が謀反を起こすとは、思いもよりませなんだ。」

光秀は織田家の諸将からも信頼されており、賢秀も例外ではなかった。

「わしもじゃ。いまだに信じられぬ。じゃが、起きてしまったことは事実。今は迎え撃つほかあるまい。」

「この氏郷、必ずや光秀の首を討ち取ってみせます!」

氏郷が威勢よく声を上げた。

「氏郷よ、そう簡単に申すでない。相手は手ごわいぞ。」

父にたしなめられ、氏郷はきょとんとした顔を見せた。

「ところで上様、いかにして迎え撃つおつもりでしょうか。無論、今は援軍が到着するまでの時間を稼ぐ戦になるとは思いますが……。」

「さすが賢秀じゃ。その通り、ここ瀬田の唐橋で十兵衛の足を止める。」

「唐橋にございますか。」

「うむ。景隆がなかなか良い策を考えてくれたのじゃ。」

そう言うと、信長は蒲生親子に景隆の策を説明し始めた。


天正10年6月6日、夜。瀬田城。

唐橋の防衛準備は着々と進められていた。そんな中、各地の諸将から返書が届いていた。

「上様。返書が2通届いております。」

蘭丸が書状を手にやってきた。

「誰からじゃ?」

「1通は勝家様。もう1通は徳川様にございます。」

「そうか。猿と一益からはまだか?」

「どちらも遠方に出陣中のゆえ、まだ届いておりませぬ。」

「分かっておる。まずは修理から読み上げてくれ。」

「ははっ。上様の書状を受け取り、上杉殿との講和を進めております。ただし、戦後処理に時を要するため、援軍の到着には10日ほどかかる見込みとのことでございます。」

「修理の援軍はありがたいが、10日も待ってはおれぬな。では、竹千代の返書には何と書いておる?」

「はっ。徳川様は光秀の謀反を知り、すでに堺を発たれていたとのこと。上様の書状は伊賀にて受け取られたそうです。」

「うむ。それで?」

「急ぎ三河へ戻り、軍勢を再編して援軍に向かいたいものの、道中には明智方と見られる伏兵が多く、帰還が難航しているとのことです。また、北条への警戒も必要なため、援軍として動かせる兵は限られると書かれております。」

「そうか…。まずは竹千代が無事で何よりじゃ。」

信長は安堵した様子を見せた。

「しかし、どちらもすぐには来られぬか。」

「いかがいたしましょう。」

「やはり、しばらくは唐橋で時間を稼ぐほかあるまい。」

信長は地図に目を落とした。

「勝家が来るまで、何としても持ちこたえるのじゃ。」

そう言うと、信長は改めて決意を固めた。


翌日、まだ夜も明けぬ頃、城門の方が騒がしくなった。

「頼む! 門を開けてくれ! 上様にお伝えしたいことがあるのじゃ!」

門の外には、血まみれになった数人の兵が立っていた。

「何者じゃ。まさか明智方ではあるまいな。」

「違う! 京にて明智軍と戦っておった、村井貞勝である!」

門番は驚いた。松明をかざして顔を確かめると、急いで城門を開け、信長への報告に走った。

「上様。村井貞勝様がお戻りになられました!」

「何じゃと!? 貞勝が帰ってきたのか。」

信長は急ぎ、貞勝のもとへ向かった。

「上様。村井貞勝、ただいま帰還いたしました。」

「貞勝。」

「上様のご命令は、必ず戻ってこい、とのことでしたので。」

貞勝は疲れ切った顔で、かすかに笑った。

「お主、ぼろぼろではないか! よくぞ戻った。まずは座れ。水でも飲むがよい。」

貞勝は全身に傷を負っていたものの、幸いにも致命傷は免れていた。

差し出された水を飲むと、貞勝は静かに口を開いた。

「上様…。間もなく、明智軍が参りまする。本日の昼頃には、ここも戦場となりましょう。」

「そうか。」

「申し訳ございませぬ。4日ほどしか足止めできませんでした。」

信長の目には、わずかに涙が浮かんでいた。

「何を申す。十分じゃ。お主のおかげで、わしはこうして生きておる。」

「上様。」

「ここからはわしらの仕事じゃ。お主は少し休み、夜が明けたら安土へ向かえ。」

「いえ、貞勝、もう一戦交える覚悟にございます。」

「ならぬ。」

信長は即座に答えた。

「お主は十分に働いた。安土で傷の手当てを受けよ。護衛の兵もつけてやる。」

「ははっ。ありがたきお言葉、感謝いたしまする。」

貞勝は少し間を置いて、続けた。

「正直に申しますと、私も、もう一戦はきつかったです。」

「ははっ! そうであろうな。」

信長は思わず笑った。

そして、貞勝の肩にそっと手を置いた。

「貞勝。よう帰ってきた。」

「はっ。」

その後、貞勝はしばらく信長と言葉を交わし、休息を取った。

数日後、安土へ戻った貞勝は、傷が化膿して容体が悪化、帰らぬ人となる。

史実では、本能寺の変に際して二条御所で討死した村井貞勝。

ただ、この世界では、主君を逃がすために自ら囮となり、最後までその命を守り抜いた忠臣として、後世に語り継がれることになるのである。

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