第6話 村井貞勝
天正10年6月2日、未明。京、本能寺。物語は少し遡る。
「上様。辺りを見て参りました。」
貞勝は周囲を見回り、信長に報告を済ませた。しかし、気掛かりなことがあった。いくら精鋭とはいえ、300人と3000人の差は大きい。包囲を突破できたとしても追撃は免れない。信長が生きて帰れる保証はなかった。
(京の政務を任された、私にしかできぬことがあるのではないか……。)
貞勝はあることを思いつき、誰にも悟られぬよう忍びを呼んだ。
「お主らに頼みがある。上様が脱出された後、頃合いを見て噂を京中に流してほしい。」
「どのような噂でございますか。」
「上様は本能寺を脱出し、二条御所へ逃げ込まれた、と。」
「それでは明智の兵も二条御所へ集まりましょう。」
「それでよい。上様を追う兵が減れば、その分だけ安土へ逃れる望みが増す。」
「では、御所におられる公家衆は?」
「無論、逃がす。そちらの手配も頼みたい。」
「お安い御用でございます。忍びとして腕が鳴りまする。」
忍びが姿を消すと、貞勝は急いで信長のもとへ戻った。
「どこへ行っておったのじゃ。」
「すみませぬ。厠に行っておりました。」
そう、この時、厠に行っていたわけでは無かった。貞勝は密かに次の手を打っていたのである。
時は進み、貞勝が信長と別れた頃。噂はすでに京中へ広がっていた。
「聞いたか?信長様は二条御所に立て籠もっておられるそうじゃ。」
「えっ、そうなのか。そもそも、なぜ攻撃されたんや。」
「明智様が謀反を起こしたらしい。」
散り散りになっていた織田方の兵たちは、噂を頼りに二条御所を目指した。貞勝が到着する頃には、およそ700人が集まっていた。
「貞勝様!上様はどうされたのですか。」
「皆の者、聞け!京の政務を預かる村井貞勝である。よくぞ集まってくれた。上様はご無事じゃ。ただし深手を負われ、御所の奥で手当てを受けておられる。」
「ならば我らがお守りせねば!そうだな、皆の者!」
「おおっ!」
(それは私の台詞なんだが……。)
貞勝はそう思ったが、口には出さなかった。
その頃、光秀のもとに報告が届いていた。
「殿。本能寺にて信長様を討ち損ねたとのことにございます。」
「そうか……。もはや後には戻れぬ。必ず討たねばならぬ。」
光秀は努めて冷静に答えた。
「信長様は二条御所へ逃げたとの噂が京中に流れております。御所には織田方の兵も集まっているようで……。」
「噂は敵の策であろう。信長様なら安土を目指されるはず。じゃが、兵が集まっているのは気になる。」
しばらく考え、光秀は命じた。
「二条御所を攻める。」
「安土へ別働隊を出してはいかがでしょう。」
利三の問いに、光秀は首を振った。
「大きく兵を分ければ、援軍が来た時に各個に討たれる。安土への道には斥候を出すにとどめよ。」
「ですが、秀吉殿が毛利と講和すれば、いずれ大軍が戻って参ります。」
「これを毛利へ届けよ。」
光秀が差し出したのは、1通の密書だった。
そこには、訳あって主君を裏切ったこと、秀吉が『信長本隊が大軍を率いて備中へ来る』と告げて講和を迫っても、それは実現しないこと、信長は京で襲撃を受け、備中へ援軍を送れる状況ではないことが記されていた。
「これで毛利が信じましょうか。」
「すべては信じまい。じゃが、秀吉殿の言葉を疑わせるだけでもよい。わしらには時が必要なのじゃ。」
やがて明智軍による総攻撃が始まった。矢が降り注ぎ、門を巡って昼夜を問わぬ攻防が続いた。
そして、4日が過ぎた。
「申し上げます。敵の死者は300人ほど。しかし我らも、死傷者が1000人を超えると思われます。」
「……700人に4日も手こずるとは。今晩も攻め続けよ。」
光秀は焦っていた。信長を討てなければ、味方につく者は現れない。だが、焦りを押し殺して考えた時、ある疑念が浮かんだ。
(やはり、信長様は本当に御所におられ無いのではないか……。)
「利三よ。攻めた兵の中に、信長様を直接見た者はおるか。」
「聞いて参ります。」
「わしも行く。お主は東側を、わしは西側を確かめよう。」
しばらくして2人は合流した。
「わしの聞いた限り、見た者はおらなんだ。利三、そっちは?」
「こちらも同じです。ただ、信長様は深手を負って奥で療養中と、敵兵が申していたそうです。」
「本能寺で深手を負わせたという報告は?」
「ございませぬ。」
「御所では誰が指揮を執っておる。」
「村井貞勝の姿を見た者が数人おります。」
(貞勝殿か……。そういうことか。)
「くそ、やられた。」
「殿?」
「信長様は初めから二条御所にはおられぬ。貞勝殿が兵を集め、わしらを引きつけておったのじゃ。」
光秀は即座に命じた。
「2000人を残して御所を包囲せよ。打って出る者は逃すな。残る本隊で安土へ向かう!」
一方、御所の貞勝は、4日前から口数が減っていた。
(上様を救うためとはいえ、嘘をついてまで兵を死なせてよいのか……。)
「貞勝様。上様のご容態は?」
「……ご無事じゃ。」
そう答えるたび、胸が痛んだ。兵の中にも疑念が広がり始めていた。
そこへ伝令が駆け込んだ。
「申し上げます!敵が攻撃をやめ、包囲に切り替えました!」
「兵糧にはまだ余裕がございます。これは好機ですな!」
しかし貞勝には分かった。光秀が嘘を見破り、安土へ向かったのだ。
(もはや、隠してはおけぬ。)
「皆の者、聞いてくれ。……すまぬ。上様は、ここにはおられぬ。」
兵たちがどよめいた。
「では、我らは捨て駒だったというのですか!」
「違う、と言い切ることはできぬ。上様を安土へ逃がすため、明智軍をここへ引きつけた。お主らを欺いたのは、私じゃ。」
「ならば、死んでいった仲間は何のために……!」
「上様をお守りするためじゃ。」
別の兵が静かに答えた。
貞勝は頭を下げた。
「許してくれとは申さぬ。この貞勝、ここで腹を切る。首を光秀へ差し出せば、皆の命は助かるやもしれん。」
短刀を抜こうとした手を、1人の兵が押さえた。本能寺で信長と別れた場に居合わせた兵だった。
「貞勝様。上様は『必ずや戻ってこい』と命じられたはずです。」
「じゃが、わしを許す者など……。」
「許すかどうかではございませぬ。今は安土へ向かった明智軍のことを、上様に知らせねばなりませぬ。」
貞勝は周囲を見た。怒りを隠さぬ者もいた。それでも皆、武器を手放してはいなかった。
「二条御所は、本能寺より居心地がよかったな。」
「安土へ帰ったら、上様から褒美があるのじゃったな。」
冗談を口にする者まで現れた。
「……皆、すまぬ。では、包囲を突破し、瀬田城へ向かう。」
「聞いたか、皆の者!貞勝様のご命令じゃ!支度はよいな!」
「おおおっ!」
(……それも、わしの台詞なのじゃが。)
貞勝は苦笑した。だが、今度はその言葉を頼もしく思った。




