第5話 本能寺の変
天正10年6月1日、夜。京、本能寺。
信長は明日の予定について蘭丸と話していた。
「明日、本能寺を発ち備中へ向かう。秀吉め首を長くして待っているだろう。」
「上様が直々にご出陣されれば、秀吉様も心強いでしょう。」
蘭丸は続けて信長に尋ねた。
「ところで、日向守様から28日の書状を最後に、連絡が途絶えています。何かご存知ありませぬか。」
「そうじゃったのか。それは心配じゃ。」
普段は事細かに書状を書いては、送ってくる光秀からの連絡が途絶えていたことを聞くと、信長は心配になった。
「じゃが、十兵衛のことじゃ。連絡が来ないと言うことは行軍が順調と言うことだろう。」
「きっと、そうに違いございませぬ。」
この時、光秀が備中ではなく京へ向かっていることは、誰も知らなかったのだ。
「弥助はおるか!」
「ココニ。」
「お主は闇夜に…」と信長が言おうとした時、弥助は信長の話を止めて言った。
「ソレ、マエモ、キイタ。」
弥助はふてくされた顔をしていた。
「すまぬ。またからかってしまったわ。ところで250人の兵の様子はどうじゃ。」
「ヘイ、ミナ、ヤルキアル。ヤスケモオナジ。」
「それはよき知らせじゃ。」
弥助に預けていた兵の士気は高く、武功を上げようと今晩も鍛錬していた。
その知らせを聞いた信長は安心して少し早く床に就いた。
天正10年6月2日未明。京、本能寺。
この日が信長の運命を変えることになるのは、説明するまでもないだろう。
蘭丸が信長を起こしに走ってきた。
「上様。起きてください!」
「なんじゃ。まだ未明じゃろう。騒がしいのう。」
「謀反であります。」
「謀反だと?城介が別心か…。」
城介とは信長の嫡男、信忠のことである。『三河物語』でも信忠の謀反を最初に疑ったとされる。
つまり、そのくらい、謀反は信長も予想にしていなかった異常事態であったのだ。
「いえ、それが違うのです。桔梗紋が見えました。」
「そうか、十兵衛が…。」
そう言うと信長は、かつて桶狭間の戦いの前に舞った『敦盛』の一節を口にした。
「人間50年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。」
「句なんか詠んでる場合ですか!しかも人間50年だなんて縁起でもない。もう上様は50近いのですぞ。」
蘭丸は何の躊躇も無く言った。
「若き頃、この一節を何度も舞ったものじゃ。じゃが、今ここで死ぬつもりはない。」
そういうと、蘭丸を見つめて、蘭丸に言った。
「生きて帰るぞ!安土へ。」
「ははっ。」
蘭丸は勢いのある声で返事をした。信長は貞勝と弥助を呼び、命令を出した。
「弥助はこれを妙覚寺にいる信忠に届けよ。」
「ハハッ。」
それは急いで書いた、書状だった。信忠はこの時、本能寺から少し離れた妙覚寺に宿泊していた。
「お主は体力もあり、闇夜に隠れるのが得意だからな。頼んだぞ、弥助!」
この時の弥助は引き締まった顔をしていた。
「オマカセクダサイ。」
続けて蘭丸に尋ねた。
「敵は何人おる。」
「本隊から別れた別動隊で3000ほどはいるかと。」
「うむ、3000か。」
史実でも、光秀が何人の兵で本能寺を包囲したのか、正確な人数は定かではない。ただ、わずかな手勢しか連れていなかったことは確かである。蘭丸のほんの些細な一言が運命を分けることになった。
「上様。抜け道を使っては。」
蘭丸は提案した。普段から信長が宿泊する本能寺には抜け道が数多くあったのだ。
「バカを申せ。相手が十兵衛なら抜け道くらい知っておる。」
奥から誰かが走ってくる音が聞こえた。
「上様、辺りを見て参りました。」
足音は貞勝だった。続けて話した。
「京の道は狭く、大軍が移動するには時間がかかっている様子。いまだ包囲網は完全ではありませぬ。」
「そうか。手薄な場所はあるか。」
「東はまだ手薄かと…。」
「東か…我らに馬は何騎いる。」
蘭丸が答えた。
「30騎ほどかと。」
信長は少し考えて決断を出した。
「よし、東から打って出る!わしら含めて30人は馬に乗れ。」
「打って出るのですか。」
蘭丸は尋ねた。
「そうじゃ。ここにいてもどうせ後は見えておる。ならばわしは賭けたいのじゃ。」
「かしこまりました。」
そう言って急いで準備を始めると、日承と一言交わした。
「日承殿。一緒に安土まで逃げようぞ。」
日承は答えた。
「私は貫首です。ここを離れるわけには行きますまい。」
「何を言うか。寺などいずれわしが再建する。ここにいてはお主の命は無いかも知れぬのだぞ。」
「ご安心なされ。光秀様が狙っているのは、あなた様の首です。この年老いた僧侶の命など取りますまい。」
信長は何も言い返せなかった。
「安土に着いたら連絡をくだされ。道中のご無事をお祈りしまする。」
「ああ。感謝申し上げる。」
これが日承と信長が交わした最後の会話となった。日承は本能寺の奥へと戻って行った。この後、日承はどうなったのか知る者はいない。
一方その頃、妙覚寺には弥助が到着していた。
「ノブタダサマ、ウエサマカラ。」
「弥助か、夜更けにどうした。」
信忠はそう言って、弥助の持っていた書状を読んだ。
「何!? 父上が十兵衛に襲われているだと!」
信忠は思わず立ち上がった。
「父上を助けに行く。」
「オマチクダサイ、ウエサマ、キョウヲデヨト。」
助けに行こうとした信忠を弥助は止めた。信忠が書状を読み直すと、次のように書かれていた。
一、直ちに妙覚寺を発ち、京を脱出すること。
一、足の速い馬を集め、数十人の騎馬隊を編成すること。
一、騎馬隊以外の兵は京に残し、脱出を優先すること。
一、近江国の瀬田城に向かい、山岡景隆のもとで態勢を立て直すこと。
一、わしも京を脱し、道中もしくは瀬田城にて合流する。
一、絶対に死んではならぬ。
以上。
書状を読み終えると信忠は騎馬隊の編成を指示した。
「弥助はどうしたい。」
「ウエサマカラ、ノブタダサマ、マモレト。」
「わかった。ならばついて参れ。」
「ハハッ。」
こうして信長より先に、信忠は弥助と共に京を脱出した。
物語は本能寺の信長に戻る。
「貞勝はどこに行ったのだ。」
信長の周囲に貞勝が見当たらなかった。
「上様。ここです。」
すると、息を切らして貞勝が走ってきた。
「おー無事だったか。どこに行っておったのだ。」
「すみませぬ。厠に行っておりました。」
信長は唖然とした。
「厠に行ってる場合か!」
しかし、この貞勝のおかげで、大きな笑いが起き全員の緊張がほぐれた。
外にいた敵兵は中から聞こえてきた笑い声に戸惑った。
信長は兵に檄を飛ばした。
「皆聞け!我らは決死の突撃をかける。大将首を取った兵ではなく、安土まで生きて帰ったものに褒美をくれてやる。」
皆が声を上げた。
「おおー!!」
「よし、その意気じゃ。東門を開けろ!狙うはただ一点のみ。」
信長による決死の突撃が始まった。敵もまさか、相手から打って出るとは予想していなかったため、大混乱が起きた。
兵も信長が弥助に預けていた精鋭揃いであった。しかし、多勢に無勢。奮戦するものの、突破口はなかなか開かなかった。
そんな時だった、敵の背後を急襲する部隊が現れた。
「上様!お助けに参りました。」
それは信忠の兵だった。信忠は残した部隊を信長の救出へ向かわせていた。
「父上を助けてくれ。父上のことだ間違いなく突撃をかける。その背後を突け。ただ危なくなったら逃げろ。」
そう兵に伝えていたのだ。背後を突かれると、光秀の軍は統率が取れなくなり再び大混乱になった。
信長はこの機を逃さなかった。
「そこだ!押せ!!」
すると、敵の包囲を突破することができた。
「よし! 騎馬隊はわしに続け! 残りの者は散り散りとなって京を脱せよ! 目指すは安土じゃ。必ず落ち合うぞ。」
信長は30騎を率いて東へ向かった。包囲を突破できたとは言え、追撃が終わったわけではなかった。
「上様! 後方より敵兵が迫っております!」
「わかっておる! とにかく馬を走らせよ!」
信長たちは入り組んだ京の道を利用して、何度も進路を変えながら逃走を続けた。
だが、敵の数は圧倒的である。いくら道を変えても、追っ手は次々と現れた。
「上様、このままではいずれ追いつかれまする。」
蘭丸の言葉に、信長は険しい表情を浮かべた。
そんな時、貞勝が口を開いた。
(…頃合いじゃろ)「私に案があります。」
「なんじゃ。申してみよ。」
そうすると、貞勝は信長に耳打ちした。信長は思わず聞き返した。
「本気で申しておるのか。」
「後は私にお任せくだされ。もう手配はできておりまする。」
信長は少し考え、口を開いた。
「貞勝には苦労をかけたな。」
「いえ、とんでもない。京を任されたのも名誉なことでした。」
「蘭丸、上様を頼んだぞ。」
蘭丸は何となく察しがついた。
「はっ。必ずや安土まで無事にお供いたします。」
「上様、ご立派になられましたな。」
それは長年、文官として信長の元に仕えた貞勝だからこそ言える言葉だった。
「何を言うか!わしもそろそろ50じゃ。」
「そうでありましたな。どうかご無事で…。」
「貞勝、死ぬでないぞ。必ずや戻ってこい。」
「元よりその気はありませぬ。お忘れですか。これでも私は文官ですぞ。」
貞勝はいつも通りの笑顔を見せると、数名の兵を連れて京の町へと姿を消した。
本能寺を脱出してから、しばらく時間が経っていた。
「上様、そろそろ瀬田城です。追っ手がなかなか参りませぬな。」
「そうじゃな。…貞勝め。うまくやっておるのか。」
信長は京の方角を振り返った。
その時、蘭丸が東の空を指さした。
「上様、ご覧ください。夜明けにございます。」
信長は昇り始めた朝日を見つめた。
「いや、わしの夜はまだ明けておらぬ。」
「上様?」
「この日の本が1つとなるまで、天正は未明のままじゃ。」
信長は再び馬を進めた。




