第9話 父と子
天正10年6月11日、近江国。瀬田城、唐橋。
唐橋での戦いが始まって、5日が経とうとしていた。
戦況は信長方が優勢であった。しかし、5日目にして、それまで降り続いていた雨がやみ始めたのである。
「一大事です! 雨がやみ、少しずつ川の水かさが減っております!」
休息を取っていた信長のもとへ、最前線にいた氏郷が報告に来た。
「なんじゃと。」
この年の梅雨は、例年に比べて雨が少なかった。ここ数日の雨で増していた瀬田川の水も、徐々に引き始めていたのである。
「蘭丸、権六は今どこにおる。」
※権六…柴田勝家
「加賀の小松あたりに着く頃かと思いまする。」
現在の石川県小松市付近である。
「小松か…。何としてでも、あと3日は耐えるのじゃ。水かさが減ろうと、鉄砲隊がおる限り、そう容易には渡れまい。」
そこで、景隆が口を開いた。
「鉄砲の弾はまだ余裕がございます。城内にあるものも、すべてお使いくださいませ。」
「うむ。ありがたい。」
信長は再び戦況に目を向けた。
川の水が引けば、敵が攻勢を強めることは分かっていた。だが、信長にはまだ、打つべき手が残されていた。
こうして5日目は、戦況が厳しくなる場面もあったものの、何とか耐え抜いたのである。
翌日、6月12日。
朝は霧が出ていたが、空は快晴であった。
瀬田川の水かさは、さらに減っていた。
川の流れはいまだ速く、容易に歩いて渡れるものではなかった。しかし、川岸の浅い場所を探り、小舟などを使って対岸へ迫ろうとする明智軍の兵も増え始めていた。
雨こそやんだものの、信長軍の鉛玉の雨は途絶えていなかった。
それでも、多勢に無勢。
明智軍の攻勢は次第に激しくなり、少しずつ戦況は悪化していったのである。
「上様! 右翼が押されております!」
蘭丸から一報が入った。
「そうか。わしは左翼の救援へ行く。」
「分かりました。お供します。うん? 今、何と…?」
蘭丸は戸惑った様子で聞き返した。
「左翼じゃ。右翼が劣勢なのは分かっておる。右翼は大丈夫じゃ。」
蘭丸は一瞬考え込んだが、やがて景隆とともに立てた策を思い出し、ようやく理解した。
「なるほど…。そういうことでしたか。」
信長は小さくうなずいた。
「弥助はおるか。」
「ハッ、ココニ。」
「景隆に、頃合いじゃと伝えてこい。」
「カシコマリマシタ。」
弥助はすぐさま駆け出していった。
前線に戻った信長は、兵たちを鼓舞した。
「皆の者! 恐れることはない! お主らの背後には、常にこの信長がおる!」
「存分に戦うがよい! わしが必ず支えてやる!」
信長の言葉に兵たちは奮い立ち、再び明智軍を押し返し始めた。
「そろそろかのう。」
信長がそう呟いた、その時だった。
橋の方から、景隆の声が響いた。
「火矢を構えよ! …放て!」
一斉に放たれた火矢が、あらかじめ油を染み込ませておいた唐橋の木材に突き刺さった。
たちまち炎が燃え広がり、橋の上にいた明智軍の兵たちは混乱に陥った。
「熱い! 助けてくれ!」
「橋が燃えておるぞ!」
「川へ飛び込め!」
逃げ場を失った兵たちは、次々と瀬田川へ飛び込んだ。
しかし、安堵したのも束の間だった。
「大筒、構え。 …放て!」
轟音が響き渡った。
大筒から放たれた弾が、炎に包まれた橋脚に命中した。
橋が大きく揺らぎ、ついに唐橋の一部が崩れ落ちたのである。
「うわあああ!」
橋上に残っていた兵たちは、崩れ落ちる木材とともに川へ投げ出された。
さらに、流された橋の残骸は、下流で渡河を試みていた明智軍の兵や小舟にも襲いかかった。
右翼の明智軍は大混乱に陥った。
「景隆め…橋の柱に弾を当ておったか。」
橋を渡ろうとしていた明智軍の進撃は止まり、右翼に迫っていた敵にも大きな打撃を与えることができたのである。
「上様。これなら今日も守りきれそうですな。」
蘭丸が安堵した様子で言った。
「馬鹿者。そういうことは、日が暮れてから申せ。」
「はっ。申し訳ございませぬ。」
「まったく…。お主は余計なことを申す天才じゃな。」
「…褒められておりますか?」
「褒めておらぬ。」
夕方。
唐橋が落ちたことで、両軍は睨み合いが続いていた。
琵琶湖の西の空には、夕日を遮るように不吉な黒い雲が広がり始めていた。
「上様、黒い雲ですな。また雨が降るかもしれませぬ。」
蘭丸が空を見上げながら言った。
「それじゃとよいのだがな。」
信長はそう答えたものの、どこか胸騒ぎを覚えていた。
長年、幾多の戦場を駆け抜けてきた信長である。橋を落とし、敵の進撃を食い止めたというのに、どうにも安心できなかった。
その時だった。
「敵襲! 敵襲にございます!」
右翼を守っていた氏郷が、慌ただしく駆け込んできた。
「氏郷、どうした!」
「琵琶湖の方角より敵の別働隊が現れました!その数、およそ2000!」
「なんじゃと!?」
「現在は父上が兵を率いて食い止めておりますが、長くは持ちませぬ!」
信長は一瞬、琵琶湖の方角へ目を向けた。
「…十兵衛め。そう来たか。」
すぐさま蘭丸に命じた。
「蘭丸!全軍に瀬田城への撤退を命じよ。城に籠もり、権六の到着を待つ!」
「はっ。」
信長の決断は早かった。
それもそのはずである。
信長軍は瀬田川に沿って陣を長く伸ばし、正面から攻め寄せる明智軍を迎え撃つ布陣を取っていた。
しかし、その分、側面からの攻撃には弱かったのである。
しかも、唐橋は自ら落としてしまった。もはや橋を利用して兵を動かすこともできない。
「それにしても…なぜ2000もの兵に気づかなかったのじゃ。」
信長は少し考え、ふと今朝のことを思い出した。
「…霧か。」
今朝、琵琶湖には深い霧が立ち込めていた。
「なるほどのう。十兵衛め、あの霧を利用したか。」
「蘭丸よ。お主が余計なことを申すから、本当に敵が増えたではないか!」
「私のせいなのですか!?」
「冗談じゃ。早う撤退の命を伝えてこい。」
「は、ははっ。」
蘭丸は慌てて駆け出していった。
光秀は、もとより唐橋を正面から突破することだけを考えていたわけではなかった。
雨がやみ、晴れ間が広がれば、翌朝には琵琶湖に霧が立ち込めるかもしれない。
光秀はその可能性を見越し、密かに船を集めていたのである。
そして今朝、深い霧に紛れて2000の兵を船に乗せ、琵琶湖へと送り出した。
船団は沖合に身を潜め、日が傾くのを待った。
黒い雲が空を覆い、辺りが薄暗くなった頃、別働隊は唐橋の北側から湖岸へ上陸した。
正面の唐橋に気を取られていた信長軍にとって、思いもよらぬ方向からの奇襲であった。
その頃、別働隊の先頭には光秀の姿があった。
「皆の者、聞け!」
光秀は兵たちを振り返り、大声で叫んだ。
「相手が織田軍であろうと、恐れることはない!」
光秀は刀を抜き、前方へ向けた。
「皆の前には、常にこの明智日向守光秀がおる!」
「わしの背を追え! ただひたすらに進むのじゃ!」
そう言い放つと、光秀は自ら先陣を切った。
「進めえええ!」
その号令とともに、明智軍の別働隊は一斉に織田軍へ襲いかかったのである。
明智軍の勢いは凄まじかった。
賢秀の軍勢によって一時は足止めすることができたものの、その勢いを殺すに至らなかった。
「引け! 瀬田城へ戻れば、まだ立て直せる! 今はとにかく引くのじゃ!」
賢秀は早々に撤退を決断した。
少なからぬ損害を出しながらも、兵を率いて瀬田城へと退くことができた。
奇襲によって陣形を乱された景隆の軍勢も、これに続いて撤退を始めた。
しかし、信長軍には大きな問題があった。
明智軍に背を向けて撤退しなければならなかったのである。
そして、その好機を光秀が見逃すはずもなかった。
「追え! 敵を城へ入れるでない!」
明智軍は勢いを増し、撤退する織田軍へ襲いかかった。
その時だった。
「敵襲! 正面より織田軍が迫っております!」
明智軍の前方に、突如として新たな軍勢が現れた。
その先頭に立っていたのは、織田信忠であった。
信忠は少し上流に陣を構え、少数の手勢とともに周辺を警戒していた。
しかし、父の本陣が奇襲を受けたと知るや、直ちに救援へ駆けつけたのである。
「皆の者、よいか!」
信忠は兵たちを振り返った。
「父上や皆が瀬田城へ戻るまで、我らが敵を食い止めるのじゃ!」
「おおおお!」
信忠の兵たちは奮い立った。
数では明智軍が圧倒的に勝っていた。しかし、信忠の軍勢は一歩も引かず、激しく敵へ斬り込んでいった。
その勢いは凄まじく、明智軍の先鋒を押し返すほどであった。
そして、信忠はついに光秀のいる場所へと迫った。
「城介殿。」
光秀の瞳には信忠を捉えていた。
「明智日向守光秀である。織田信忠殿であられるな。勝負願いたい!」
「いかにも。織田信忠である。その勝負、受けて立とう!」
両者は刀を構えた。
「ご立派になられましたな。」
光秀が静かに言った。
「十兵衛。わしはお主を信じておった。」
信忠は光秀をまっすぐに見つめた。
「それだけに、残念じゃ。」
「…申し訳ございませぬ。」
一瞬、沈黙が流れた。
「いざ、勝負!」
両者は同時に地を蹴った。
刃が交わり、鋭い金属音が響いた。
次の瞬間。
血飛沫が舞い、兜が地面へと転がった。
信忠の身体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
光秀は刀を下ろし、倒れた信忠を見つめた。
その表情に、勝者の喜びはなかった。
やがて、光秀は刀を高く掲げた。
「織田信忠! 明智日向守光秀が討ち取ったり!」
その声が、夕暮れの戦場に響き渡った。
「信忠!!」
離れた場所から一部始終を見ていた信長が、叫んだ。
「信忠! 信忠!!」
信長は刀を抜き、単身、息子のもとへ駆け出そうとした。
しかし、その腕を弥助がつかんだ。
「ウエサマ ダメ」
「離せ! 信忠が! わしの息子がまだあそこにおるのじゃ!」
「上様。どうかお気を確かに。行かれては、城介様の覚悟が無駄になります!」
蘭丸も必死に信長を引き止めた。
「離せと申しておる!」
それでも弥助は腕を離さなかった。
「ウエサマ イキル」
その言葉に、信長は一瞬、動きを止めた。
やがて蘭丸と弥助に支えられ、信長は瀬田城へと撤退した。
織田信忠。
史実では、本能寺の変に際して二条御所に籠もり、父の後を追うように村井貞勝らとともに命を落とすはずであった。
しかし、この世界では違った。
貞勝と同じく、信忠もまた、信長を守るために命を落としたのである。
父を生かすために戦った2人の忠義と覚悟は、後世まで語り継がれることになる。




