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第5話 東京公債株式分散会

黒川玄堂

架空の人物

1878年:明治11年、初夏

榊原清衡:26歳



士族の家計相談を始めて、早くも二年が過ぎようとしていた。

六月の初め、珍しく清衡と乃枝は、榊原家の事務所にも、付き合いのある武家屋敷にもいなかった。


二人は日本橋兜町にいた。


東京株式取引所の売買立会が始まる日。

清衡は、師匠である沢村俊庵や、横浜で結んだ伝手を使い、その場の片隅に入れてもらっていた。


渋沢栄一ら東京実業界の有力者が中心となって設立された東京株式取引所。

その開業初日の雰囲気は、祭りのような陽気さではなかった。

だが、ただの事務所開きでもない。


商人。

両替商。

公債売買に関わる者。

役所関係者。

仲買人。


そうした者たちが集まり、場には妙な熱気があった。

乃枝が、緊張しながらも清衡に問う。

「ここで、武士たちの公債も売られるのですか」


清衡は落ち着いて答えた。

「売られます。だからこそ、知識がある者とない者の差が広がるのです」


清衡は思う。

転生した時に脳裏に浮かんだ発想。

それを実行するための場所が、ようやくできた。

証券を読めず、損をし、家を失う人たちを助けるための取っ掛かりができたのだ。


清衡が一人、決意を固めていると、乃枝ではない別の声が掛かった。

「あんた、士族の相談屋をやっている榊原清衡だろう」


清衡が振り向く。

男は口元に笑みを浮かべていた。

「お国が開いた賭場に、あんたのような人間が来るとはな」


男は軽く肩をすくめる。

「ああ、名乗っていなかったな。俺は黒川玄堂だ。よろしく」


黒川の名は、清衡も知っていた。

リスクの高い投資を士族に紹介している男である。

彼によって家を一気に持ち直した者もいる。

そのため、清衡の客からも「同じような投資はないか」と相談されることが増えていた。


だが清衡は見抜いていた。

黒川のやり方は、一握りの勝者と、大量の屍を作る。

しかし多くの士族には、家を持ち直した勝者の姿しか見えていない。


清衡は黒川の目を見ながら言った。

「ここは賭場かもしれません。ですが、家を守ろうとする人の助けにもなる場所です」


黒川は笑う。

「賭場にせよ、人助けにせよ、値段が動けば人は賭けるものだ」


清衡は答えなかった。

ただ、兜町の熱気だけを見つめていた。


その晩、家に帰った清衡は、乃枝と話していた。


清衡は言う。

「東京株式取引所ができました。これまで温めていた計画を動かせます」


乃枝は首をかしげながら言う。

「投資……信託、でしたね。耳慣れない言葉です」


清衡は頷く。

「ですから、そのまま使うべきではないでしょう」


乃枝は少し考えてから言った。

「公債株式講、あるいは東京公債株式分散会が良いのではないでしょうか」


清衡は頷いた。

「東京公債株式分散会にしましょう」

「東京で始め、公債を中心にしつつ、株式も少し入れる」

「何より、会なら士族にも受け入れられやすい」



改めて、二人は現状の確認を始めた。

清衡は言う。

「一軒ずつ帳簿を見て助言しても、限界があります」


乃枝は積み上がった相談帳を見る。

「相談に来る者が増えています。ですが、本当に危ういのは、相談に来る前に決めてしまう方なのでしょうね」


清衡は頷く。

「はい。公債を売る者も、怪しい事業に入れる者も、だいたい相談に来る前に心を決めています」


乃枝は問う。

「では改めて、どうするのですか」


清衡は答える。

「最初から、少しずつ分けて公債や株式を持つ仕組みを作ります」


乃枝は納得して頷く。

「皆で一つのものを持つ、ということですか」


清衡は頷いた。

「一つの家では、公債一つ、株一つを買うだけで精一杯です。ですが十人、二十人で持てば、公債も株式も少しずつ持てます」


乃枝はすぐに帳面を開く。

「ならば、誰がいくら出したか、何をいくら買ったか、利子や配当をどう分けるか、すべて残さねばなりません」


清衡は頭を下げる。

「改めて、乃枝殿の協力をお願いいたします」

乃枝は静かに頷いた。


一か月後、清衡は最初の参加者を集め、説明会を開いていた。


参加者は十数人程度しか集まらなかった。

父の旧縁。

乃枝の実家。

家を売らずに済んだ相談者。

小商人。

公債を売るべきか迷っている未亡人。

そして士族を中心とした人々。


清衡が説明を始める前から、部屋のあちこちで囁き声が聞こえた。


「人に金を預けて、本当に戻るのでしょうか」

「公債だけ持っていた方が安全ではないのか」

「株など賭博同然ではないか」

「損をした時、どうするのだ」

「利子や配当は本当に大丈夫なのか」


清衡は、参加者たちを落ち着かせるように説明を始めた。

「大きく増やすとは申せません」

「損をしないとも申せません」

「ただし、一つに賭けて家を沈めることは避けられます」


参加者たちが静まる。


清衡は続けた。

「東京公債株式分散会は、五つの約束と一つのお願いで運用します」


清衡は指を一本立てる。

「第一の約束は、持分帳を作ることです」

「金を集めるなら、記録は命です」


これは乃枝が行う。

記録するものは、名前、出資額、出資日、持分、利子の受取、配当の受取、手数料、途中で抜ける場合の条件、そして証券の保有割合。

どれも重要なものだった。


清衡は二本目の指を立てる。

「第二の約束は、何を買ったかを隠さないことです」

「何を持っているか分からぬ会にはしません」


参加者には、買った公債や株式の名前、数量、価格を知らせる。

難しい言葉は乃枝が書き直す。

清衡は数字で説明し、乃枝は人に伝わる言葉にする。

これは、後の月報につながる重要な原型であった。


清衡は三本目の指を立てる。

「第三の約束は、客の金と榊原家の金を混ぜないことです」

「客の金と我が家の金は、絶対に混ぜません」


まだ信託法はない。

しかし清衡は、前世の知識から分別管理の重要性を知っていた。


清衡は四本目の指を立てる。

「第四の約束は、一つに賭けないことです」

「大きくは伸びなくても、利子を受け取り、家を守るために東京公債株式分散会はあります」

「我々が買うものは、保守的で慎重です」


具体的な内容は、次のようなものだった。

政府公債。

金禄公債の一部。

国立銀行系株式。

取引所関係の株式。

米商会所・流通関係の株式。

ごく少量の海外公債。

そして一部の現金。


清衡は海外証券の存在を知っていた。

しかし、あえてごく少量にした。

参加者の理解がまだ追いついていないからだ。

ただし将来のために、ごく少量の海外公債を混ぜる。


清衡は五本目の指を立てた。

「第五の約束は、借金で参加させないことです」

「借金で買う者は、値下がりに耐えられません」

「耐えられぬ者は、必ず安値で売ります」


そして清衡は、手を下ろして言った。

「最後に、一つだけお願いがあります」

「少額ずつ出資してください」

「ここにいる皆さんは、無理をして負けることが許されないはずです」


清衡が作ろうとしているのは、大口投資家向けの商品ではない。

小さな家を守るための仕組みであった。


説明会が無事に終わり、乃枝が帰った後、清衡は兄に声を掛けられた。

兄・直之は、分散会に反発していた。

「今度は他人の金まで預かるのか」


清衡は落ち着いて答える。

「預かるのではありません。共に分けて持つのです」


直之は納得しない。

「言い方を変えても、金は金だ」

さらに直之は言う。

「武士が他人の金の帳面をつける時代か」


清衡は答えた。

「自分の金さえ軽く扱う者が増えたから、私が要るのです」


直之は感情を抑えるように息を吐いた。

「少なくとも金に関しては、貴様にかなわん」

「だが、常識に関しては、お前より分かっているつもりだ」


清衡は兄を見る。

直之は真剣な表情で言った。

「乃枝殿を、お前はどうするつもりだ」


清衡は言葉に詰まる。

直之は続けた。

「清衡。お前と乃枝殿は、いつまでもこのままでよいのか、という話が俺の耳にも入ってくるぞ」


さらに直之は、父の言葉を伝える。

「父上が言っていた。女中でも親類でもない娘が、いつまでも榊原家の帳面を扱うわけにはいくまい、と」


直之は低い声で言う。

「おぬしも、いい加減覚悟を決めよ」

清衡はすぐには答えられなかった。




東京公債株式分散会は、小さく始まった。

参加者は少ない。

集まった金も多くない。


清衡と乃枝は、何をどれだけ買うかを事前に決めていた。

二年をかけて士族の家計を見てきた清衡は、慎重すぎるほど慎重だった。


最初の構成は、政府公債を中心に、金禄公債を一部、国立銀行系株式を少量、取引所関係を少量、米商会所や流通関係を少量、海外公債をごく少量、そして一定割合の現金を残す形だった。


乃枝は尋ねる。

「現金も残すのですか」


清衡は答える。

「残します。値下がりした時に、すぐ売らずに済むように」


乃枝は少し考える。

清衡は続けた。

「全部を証券にすれば、困った時に証券を売るしかなくなります」

「売りたくない時に売らされるのが、一番危ない」


非常に現代的な清衡の考えが理解されるまでには、まだ多くの時間が必要だった。


ふと、清衡は兄の言葉を思い出す。

そして乃枝に言った。

「私の仕事は、これからもっと危うくなります」

「人の金を預かり、人の恨みも買うでしょう」

「乃枝殿を、その中に入れてよいのでしょうか」


乃枝は答える。

「もう入っております」

「帳面にも、人の家の涙にも、私はすでに触れております」


乃枝は清衡をまっすぐ見た。

「清衡様が数字を見るなら、私は人と約束と繋がりを見ます」

「私が清衡様と他人であることを、不安に思う人は多いはずです」

清衡は黙った。

乃枝の言葉は、清衡が目を逸らしていた現実を静かに突いていた。





毎月の報告会を繰り返し、冬の気配が濃くなる頃。

最初の利子や配当を受けた後の報告会が行われた。


入ってきた金は、大きな額ではなかった。

参加者が驚くほど儲かるわけでもない。

むしろ、期待したほどではない者もいた。


ある参加者が言う。

「これだけか」


清衡は答える。

「はい。これだけです」


参加者は不満そうにする。

清衡は続けた。

「ですが、家は残っています」



東京公債株式分散会。

それは、後の世から見れば、あまりにも小さく、不完全な仕組みだった。

法もない。

監督官庁もない。

信託という言葉も、まだ遠い。

だがそこには、清衡が守りたかったものがあった。

一つに賭けないこと。

客の金と自分の金を混ぜないこと。

何を買ったかを隠さないこと。

損をした時も、損をしたと書くこと。

勝つためではない。

家を残すための仕組み。

清衡の分散は、この小さな会から始まった。


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